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9.会いたかった

9.会いたかった

__放課後。


授業が終わったあとも、星那はしばらく席から立てなかった。


窓の外では、夕方の光が海を淡く照らしている。


クラスメイトたちの話し声が遠い。


指先だけが、ずっと落ち着かなかった。


__話さなきゃ。


昨日、母に言われた。


『冬雪くん自身を見なさい』


そして希美にも言われた。


『“ゆきくん”じゃなくて、“今の志水冬雪”を見てあげなよ』


分かっている。


逃げ続けるわけにはいかない。


このまま曖昧なままだと、きっと冬雪を傷つける。


なのに。


怖かった。


もし話して、

冬雪が困った顔をしたら。


もし、「やっぱり人違いだった」と言われたら。


八年間抱えてきたものが、全部崩れてしまいそうで。


「……島居さん」


不意に声がして、星那は肩を揺らした。


振り返る。


冬雪が立っていた。


「帰らないの?」


「あ……う、うん」


冬雪は少し首を傾げる。


「なんか今日、変じゃない?」


図星だった。


星那は視線を逸らす。


「……ちょっと考え事」


「そっか」


冬雪はそれ以上聞かなかった。


その優しさが、逆に胸に刺さる。


すると冬雪が鞄を持ち直しながら言った。


「今日、神社行ってもいい?」


その瞬間。


星那は小さく息を飲んだ。


逃げるなら、今だった。


「今日は用事ある」と言えばいい。


また今度にすればいい。


でも。


__ちゃんと向き合いたい。


星那はぎゅっと制服の袖を握ったあと、小さく頷いた。


「……うん」


__夕暮れの坂道を、二人で歩く。


海風が少し冷たい。


空は薄い藍色へ変わり始めていた。


冬雪は隣を歩きながら、静かに海を見ている。


その横顔を見ていると、また胸が苦しくなる。


懐かしい。


でも今は、“ゆき”だけじゃない。


この数日で知った。


猫に優しいところ。


静かな場所が好きなところ。


少し不器用なところ。


笑うと、少し幼く見えるところ。


全部、“冬雪”のものだった。


星那は小さく息を吸う。


「……ねぇ、志水くん」


「ん?」


まだ呼び方は完全には変えられない。


でも。


今日はちゃんと言わなきゃいけない。


「話したいこと、ある」


冬雪が少し驚いた顔をする。


「珍しいね。島居さんから」


「……うるさい」


そう返す声が少し震えた。


冬雪は小さく笑った。


「ごめん」


二人はそのまま神社へ向かう。


境内にはまだ誰もいなかった。


風鈴の音だけが静かに鳴っている。


石段へ腰を下ろす。


少し距離を空けて。


けれど以前より、その距離は近かった。


風が吹く。


木々が揺れる。


星那は膝の上で手を握りしめた。


鼓動がうるさい。


「……志水くんってさ」


「うん」


「前に、“初めて来た気がしない”って言ってたよね」


冬雪は少し目を細める。


「ああ」


「夢も見るって」


「……うん」


静かな返事。


星那は喉を鳴らした。


それから、ゆっくり言う。


「私……多分、志水くんと昔会ってる」


空気が止まった気がした。


冬雪が動かない。


風鈴の音だけが響く。


「……昔?」


かすれた声。


星那は小さく頷いた。


「八年前」


その数字を口にした瞬間、胸の奥が強く痛んだ。


「星祭りの日に、神社の裏山で会った」


冬雪は黙って聞いている。


「その時の志水くん……自分のこと、“ゆき”って名乗ってた」


沈黙。


遠くで波の音がする。


冬雪はすぐには何も言わなかった。


ただ静かに俯いていた。


星那は続ける。


「最初は、人違いかもしれないって思ってた」


声が少し震える。


「でも、夢の話とか、神社のこととか……同じで」


__言葉が詰まる。


涙が出そうだった。


「……私、ずっと探してたの」


俯いたまま言う。


「急にいなくなったから」


風が吹いた。


提灯が小さく揺れる。


長い沈黙。


やがて。


冬雪が静かに口を開いた。


「……俺」


その声は、少し震えていた。


「やっぱり、会ってたんだ」


星那が顔を上げる。


冬雪は自分の手を見つめていた。


「最近ずっと変だった」


苦しそうな声。


「島居さん見ると、懐かしくて」


“島居さん”。


まだ名前では呼ばない。


でもその声は、前よりずっと柔らかかった。


「神社来ると、胸が苦しくなって」


冬雪は小さく笑う。


「夢も、どんどんはっきりしてきて」


その目がゆっくり星那を見る。


「……でも、思い出せない」


泣きそうな顔だった。


「大事なはずなのに」


星那の胸が締め付けられる。


すると冬雪が小さく呟く。


「ごめん」


「え?」


「忘れてて」


その言葉に、星那は目を見開いた。


違う。


謝ってほしかったわけじゃない。


そうじゃない。


星那は慌てて首を振った。


「違うの、そうじゃなくて……!」


声が少し裏返る。


冬雪が驚いたように目を瞬かせた。


星那は自分でも何を言いたいのか分からなくなりながら、それでも必死に言葉を探す。


「その……忘れてても、ちゃんと来てくれたから」


涙が滲みそうになる。


「また会えたから」


その瞬間。


冬雪の表情が、少しだけ揺れた。


風が吹く。


木々がざわめく。


そして。


冬雪は小さく目を伏せながら呟いた。


「……俺、また会いたかったんだな」


その声は、

夢を見ているみたいに静かだった。


冬雪の言葉を聞いた瞬間。


星那の胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。


「……会いたかった」


その一言が、何度も頭の中で繰り返される。


夜の海が静かに揺れていた。


防波堤へぶつかる波の音。


潮風。


遠くの船の灯り。


全部がぼやけるくらい、星那は胸がいっぱいだった。


冬雪は、自分でも驚いているみたいな顔をしていた。


「……なんでだろ」


小さく呟く。


「ちゃんと思い出せないのに」


困ったように笑う。


「でも、島居さんの話聞いてたら」


その視線が、ゆっくり星那へ向く。


「ずっと探してた気がした」


星那は息を呑む。


苦しかった。


嬉しすぎて。


八年間。


ずっと、自分だけが取り残されている気がしていた。


あの日を覚えているのは、自分だけだと思っていた。


だから。


「また来る」


そう約束して消えた少年を、

何度も夢みたいだったと思おうとした。


でも無理だった。


忘れられなかった。


夏が来るたび思い出して。


祭りの音を聞くたび苦しくなって。


裏山へ行くたび、期待してしまって。


ずっと。


本当にずっと。


待っていた。


その時間が、一気に胸へ押し寄せる。


「……島居さん?」


冬雪が少し心配そうに覗き込む。


そこで初めて、星那は自分が泣きそうになっていることに気づいた。


慌てて顔を逸らす。


「な、なんでもない」


声が震える。


駄目だ。


泣きたくない。


まだ全部戻ったわけじゃない。


まだ“ゆき”だって決まったわけじゃない。


でも。


それでも。


『……会いたかった』


その言葉だけで、

八年間が報われた気がした。


星那はぎゅっと制服の袖を掴む。


胸が熱い。


苦しいくらい。


すると冬雪が、少し焦ったように言った。


「え、俺なんか変なこと言った?」


「……っ」


その言い方がおかしくて。


昔と同じで。


星那は思わず小さく笑ってしまう。


涙が滲む。


「いや……変なのは、志水くんの方」


「ひどくない?」


「急にそんなこと言うから……」


声が上手く出ない。


冬雪は少し困った顔をしたあと、静かに海を見る。


「でもさ」


「……?」


「俺、安心した」


星那の鼓動が跳ねる。


「夢じゃなかったんだなって思った」


風が吹く。


冬雪の黒髪が揺れる。


「昔、ここにいた俺って」


静かな声。


「ちゃんと誰かと会ってたんだな」


その横顔が、少しだけ寂しそうだった。


星那は胸を締め付けられる。


思い出せないことが、

きっと冬雪自身も苦しいんだ。


覚えていないのに。


感情だけ残っている。


懐かしさだけ残っている。


それはきっと、

星那が思っているよりずっと不安なことだった。


だから星那は、小さく息を吸ってから言う。


「……いたよ」


冬雪が振り返る。


星那は少しだけ笑った。


泣きそうなまま。


「ちゃんといた」


夜風が吹く。


波の音が静かに響く。


冬雪は数秒黙ってから、ふっと目を細めた。


その笑い方が。


あの日、裏山で見た笑顔と重なる。


星那の胸がまた熱くなる。


そして気づく。


自分の中で。


“志水くん”という距離が、

もうほとんど残っていないことに。


けれど。


まだ少しだけ怖かった。


その名前を呼んでしまったら。


本当に全部、戻れなくなってしまう気がして。


だから星那は、胸の奥に溢れる想いを隠したまま、静かに海を見る。


星影島の夜は、今日も空と海の境界が曖昧だった。


まるで。


八年間離れていた時間まで、

静かに溶かしていくみたいに。

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