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7.過去

7.過去

星那の胸がざわつく。


「あの子が、また消えようとするかもしれないって……?」


けれど星里は、すぐには答えなかった。


社務所の明かりが、静かに揺れている。


湯呑みから立つ湯気だけが、ゆっくり空気へ溶けていった。


「……お母さん」


星那は耐えきれずに聞く。


「冬雪くんに、何があったの?」


星里は視線を伏せたまま、小さく息を吐いた。


その横顔は、どこか苦しそうだった。


「全部を話すことは、まだできない」


「どうして?」


思わず強い声になる。


「私には関係あるんでしょ!? 八年前、ゆきくんに会ったの私なんだよ!」


星里は静かに目を閉じた。


まるで、何かを思い出しているみたいに。


「……そうね」


小さな声。


「本当なら、もっと早く話すべきだったのかもしれない」


その言い方に、星那は眉を寄せる。


「じゃあ話してよ」


「話せないの」


「なんで……!」


星里は少しだけ困ったように笑った。


でもその笑顔は、いつもの優しい母の笑顔じゃなかった。


どこか怯えているようにも見えた。


「星那」


静かな声。


「この島にはね、“知らない方が幸せなこと”もあるの」


風が吹く。


社務所の窓が小さく鳴った。


星那は唇を噛む。


「でも私、もう関わってる」


震える声だった。


「今さら知らないふりなんてできないよ……」


冬雪が笑う顔。


寂しそうな横顔。


夢の話をする時の声。


全部が胸に浮かぶ。


星里はそんな星那を見つめて、ほんの少しだけ目を細めた。


「……あの子、あなたには昔と同じ顔するのね」


「え?」


「無意識なのに、ちゃんと惹かれてる」


その言葉に、星那の胸が跳ねる。


「そ、そういうのじゃ……」


言いかけて止まる。


違う、と言い切れなかった。


星里は小さく笑った。


「あの時もそうだった」


懐かしそうな声。


「あなたの隣にいる時だけ、あの子はちゃんと生きてる顔をしてた」


星那は目を伏せる。


胸が苦しい。


嬉しいのに、不安だった。


「……ねぇ、お母さん」


静かな声で聞く。


「ゆきくんは、人間じゃなかったの?」


その瞬間。


星里の表情が止まった。


沈黙。


風鈴が鳴る。


長い間を置いてから、星里はゆっくり口を開く。


「……人間だったわ」


星那は少しだけ息を吐く。


けれど。


星里は続けた。


「でも、“普通”ではなかった」


その言葉に、空気が少し冷えた気がした。


「昔、この神社には“星還り”って呼ばれる言い伝えがあるの」


「星還り……?」


「星の海が一番綺麗な夜、強く願った人間が、“向こう側”へ近づいてしまうことがあるって」


星那は意味が分からず眉を寄せる。


「向こう側?」


星里は答えない。


代わりに、窓の外を見る。


夜の境内。


暗い石段。


木々の揺れる音。


「私はね」


ぽつりと呟く。


「あの子を初めて見た時、“境界が薄い子”だと思った」


「境界……」


「ここにいるのに、どこか別の場所にもいるみたいな子」


その表現は、妙にしっくりきてしまった。


消えてしまいそうな雰囲気。


触れても、風みたいにいなくなりそうな感じ。


星那は何も言えなくなる。


すると星里が、少しだけ厳しい声で言った。


「だからこそ、思い出させすぎちゃ駄目なの」


「え……?」


「記憶が戻れば戻るほど、あの子は昔の“感覚”へ引っ張られる」


星那の背筋が冷える。


「それって……どうなるの」


星里はしばらく黙っていた。


答えを迷うみたいに。


そして、やがて小さく言った。


「……また、消えるかもしれない」


その瞬間。


星那の頭が真っ白になる。


八年前の夜。


風の中で薄くなった姿。


冷たい手。


『……ありがとう』


最後の笑顔。


全部が一気に蘇った。


「やだ……」


気づけば声が漏れていた。


「やっと会えたのに……」


震える声。


「またいなくなるなんて、そんなの……」


そして、星里は星那に言う。


「今は”ゆき”くんじゃなくて冬雪くん自身を見なさい」


静かに、娘を見つめていた。


その目は優しかった。


でも同時に。


何かを諦めているようにも見えた。


「……お母さんは、全部知ってるの?」


星那が聞く。


すると星里は、ゆっくり首を横に振った。


「全部じゃない」


「でも何か知ってる」


「……ええ」


「だったら」


「星那」


星里が静かに遮る。


その声は珍しく強かった。


「今はまだ、知らないで」


星那は息を呑む。


星里は目を伏せ、小さく呟く。


「もしあの子が、本当に戻ってきた理由が私の考えてる通りなら……」


そこまで言って、口を閉ざした。


「……お母さん?」


けれど星里は、それ以上何も言わなかった。


ただ窓の外を見つめる。


夜空には星が浮かんでいる。


海の方から、静かな波音が聞こえた。


そして、星里は、誰にも聞こえないくらい小さな声で呟く。


「……お願いだから、今度こそ幸せになって」

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