真・摂政戦記 0023話 定まらぬ方針
1942年初頭 『アメリカ ユタ共和国 首都ソルトレイクシティ』
「じゃあこのままユタ国の人間になるのか?」
「戦争に巻き込まれるよりはましかもしれない」
「俺はアメリカ人だ。アメリカ合衆国を裏切る事はできない。ユタの独立には反対だ」
「今更そんな事を言っても独立したんだから仕方がないだろう。それとも武器を手に取りユタ政府と戦うつもりか?」
「それより西海岸の仲間を助けなくちゃだめだろ」
「そうは言っても現状では……」
この会議に参加していたマイク正岡は、この話しの流れにどうしたものかと悩んでいた。
あまりにも事態が複雑で意見が纏まらない。
方向性が見出せない。
何度、会議を開いても紛糾するだけで名案は出てこなかった。
会議を開いているのは日系アメリカ市民協会ソルトレイクシティ支部だ。
日系アメリカ市民協会…史実では1919年にワシントン州シアトルで小さなコミュニティとして始まったアメリカ在住の日系人の為の団体である。
その後、組織は拡大しワシントン州の南隣のオレゴン州、更にその南のカリフォルニア州などにも支部を置くようになり西海岸一帯に跨る組織となる。
1941年9月からこの日系アメリカ市民協会の代表となっていたのがマイク正岡だった。
日系アメリカ市民協会は日系人の為の団体ではあったが、年が経つにつれその組織の性質は変貌していく。
日華事変以降、急速に日本とアメリカの関係が悪化していく中で、アメリカ生まれの日系二世が中心となって、自分達はアメリカ人だとアメリカ愛国主義を強く打ち出し、アメリカへの同化を推し進めていくようになった。
そして日米開戦前からアメリカの日系社会における不満分子・危険分子の情報をアメリカ軍情報部やFBIに提供するようになるのである。
つまりはアメリカ政府の日系人協力組織となったのだ。
その日系アメリカ市民協会に属した者は約2000人。
史実において日米開戦直前、アメリカ本土在住の日系人は約12万7000人であったから日系アメリカ市民協会に所属していたのは約1.6%に過ぎなかった。
日系人の社会には県人会を始めとする幾つものコミュニティがあるので、必ずしもこの日系アメリカ市民協会に入らなくても問題は無かった。
ただし日系アメリカ人全体の割合からすれば少数でも、アメリカ政府に阿る日系アメリカ市民協会は日系人に対し大きな影響を与える事になる。
特に史実において日米開戦後に行われた日系人の強制収容所への収容と、そこでの暮らしでは多大な影響を及ぼした。
史実において日系人を収容した収容所は全米で10ヵ所に及び、それを管理運営するのは「戦時転住局」という名の組織だった。
戦時転住は実際には強制収容である。強制収容では聞こえが悪いから戦時転住と言い換えているに過ぎない。
日系アメリカ市民協会はこの強制収容に積極的に協力し、強制収容所の運営についても戦時転住局の顧問的役割を担い、その代償として他の日系人よりも生活面で優遇された。
マイク正岡にいたっては収容所暮らしはしていない。戦時転住局の顧問的立場で各地の強制収容所を監督して歩いて回っていた。
強制収容所で暮らしていた日系アメリカ市民協会のメンバーは、強制収容所内における不満分子・危険分子を戦時転住局やFBIに密告し引き渡すという役割を進んで担ってもいる。
中にはそうした危険分子を何人FBIにつきだしたのか自慢していたメンバーもいたという。
それ故に少なからぬ日系人に日系アメリカ市民協会のメンバーは嫌われ「犬」と呼ばれ、時には収容所内で他の日系人からリンチを受けている。
この頃の日系人の社会は複雑だった。
まず最初に日本から来た日系一世と言われる人々がいる。日本の文化を色濃く継承している人達だ。
次にその日系一世の子供達、日系二世がいる。
日系二世は大きく二つのグループに分類される。
一つが「帰米」と呼ばれる二世の者達だ。アメリカで生まれたが、主に親の経済的理由で日本の祖父母や伯父や叔母等に預けられ、日本で教育を受けた後、再びアメリカに帰って来た者達である。
彼らも日本で教育を受けた為、日本的文化の影響が強く、あまり英語が得意ではない者が多い。
強制収容所にはこの「帰米」が1万9000人いた。
もう一つは「純米」とも言うべき者達でアメリカ生まれのアメリカ育ち。日本に一度も行った事の無い者や日本語を話せない者もいる。
強制収容所にはこの「純米」が5万3000人いた。
彼らは完全にアメリカ人だった。
マイク正岡を始め日系アメリカ市民協会のメンバーの多くもこの「純米」である。
同じ二世であってもアメリカ人としてのアイデンティティを確立している「純米」と日本文化の影響が色濃い「帰米」では、当然の事ながら意識や考え方がかなり違う。
それによる摩擦は多かった。
特にマイク正岡を始め日系アメリカ市民協会のメンバーはアメリカへの忠誠を重んじるあまり、日系人の日本的な部分を悪とした。
日本語も文化も一切合切を否定している。
マイク正岡の自伝には次のような文章がある。
「(元の国の文化がそれほどいいなら、移民達はなぜ祖国を捨ててアメリカに移ってきたのかという言い方がよくされた。アメリカでは過去を拒絶し、現在を進んで受け入れる事が大事だった)」
マイク正岡が戦時転住局長官に出した報告書の中にもそれが露骨に表現されているものがある。
強制収容所で暮らす日系一世について書かれたもので、それには過酷な環境にある収容所で日系一世の半分は死ぬだろうが、それがかえって日系二世への影響力を弱め、日本的な考えや慣習を排除するのに役立つだろうというような事を報告している。
マイク正岡はアメリカでは日系人の権利の為に奔走した指導者という見方をされているが、実際にはそれは日系人全員の権利を擁護しようとしたものではなく、主にアメリカ人としてアイデンティティを確立していた「純米」に対しての擁護を評価されたものと言える。
その裏側では「一世」や「帰米」は切り捨てられていたのだ。
切り捨てる事でアメリカ政府に忠誠を示そうとしたのかもしれない。
史実において悪化する日米関係打開の為に野村吉三郎特命全権大使が1941年にアメリカに派遣された時、ワシントンDCに向かう途上、ソルトレイク・シティにてマイク正岡と会談している。
この時、野村吉三郎特命全権大使はマイク正岡に「(状況がいかなるものであれ、あなた方はあなた方の国に忠実であるべきだ)」と語ったとマイク正岡の自伝にはある。
日本人の血を引いていてもアメリカ生まれのアメリカ育ちの「純米」が、アメリカに忠誠を尽くそうという考えは理解できる。野村吉三郎特命全権大使もそういう考えだったのだろう。
とは言え「日系一世」が収容所で死ぬ事が「日系二世」に良い影響を齎すという考えは、まるでユダヤ人を収容所送りにしたどこかの国を彷彿とさせる考え方だ。
そうした報告を受けながらも、何ら改善策を講じようとしなかった戦時転住局にも同様の考え方が流れていたのかもしれない。
日系一世がもう若くなかった事を考えれば、あまりにも非人道的な思想である。
なお1941年の時点で日系一世の平均年齢は55歳だった。
史実における後世、日系アメリカ市民協会はアメリカ政府から圧力を受けていたとか、日系人の権利を守る為にやむを得ず政府当局に協力していたとも聞かれるが、開戦の何年も前より同じ日系人を積極的にスパイしていた事や、マイク正岡が戦時転住局長官に出した報告書を見ると、自らがより積極的に動いていた事が伺われる。
民主主義の本質は多種多様な価値観の共存である。
それを排除しようというのは民主主義の原点を拒否する事ですらある。
価値観の相違を許容し妥協し許し合い助け合うのが民主主義というものだ。
それを行わずただ切り捨てるのは民主主義とは呼べない。
ましてや強制収容所に入れられた日系人達は武器を手に取り反乱を起こしたわけでもないのだ。
結局、この当時のアメリカの民主主義というものは、その程度の成熟度でしかなかった。
現代日本でも直ぐに人を右だ左だとレッテルを張り、自分と思想の違う人々を何かと排除しようという人達がいるが、こういう人達も民主主義を理解していない。
右も左も受け入れ、その権利を尊重し話し合い妥協点を探るのが民主主義というものだ。
多種多様な価値観の共存こそ真の民主主義なのである。
ちなみにアメリカ政府はマイク正岡に全幅の信頼を置いてはいなかった。
アメリカ政府でのマイク正岡の人物評価は策略家で良心的とは言えない人物だとしている。
同じ日系人を収容所内でスパイさせたり、収容所で一世の死を許容しようというのだからそう評価されても仕方の無い事ではあるだろう。
史実において強制収容所に入れられた日系人の人々は忠誠審査を受ける事となる。
強制収容所に入れられた日系人のうち子供を除く約7万8000人にこの審査が行われた。
審査において数十もの質問がされたが、そのうちの二つの質問が問題となった。
二つの質問を要約すると次のようになる。
「合衆国軍に入隊し、命じられたいかなる戦地にも趣き任務を遂行する意思がありますか?」
「合衆国に忠誠を誓い、日本国、天皇へのあらゆる形での忠誠や服従を拒否しますか?」
この二つの質問に両方「YES」と答えればアメリカに対し忠誠心があるものと判断された。
両方の質問に「YES」と答えた者は約6万5000人。約84%がアメリカに忠誠を誓った。
「YES・NO」「NO・YES」「NO・NO」といった者達は約1万2000人である。
彼、彼女らはアメリカに忠誠心を持っていない者達と判断され一纏めに「NO・NO・ボーイ」と呼ばれる事になる。
ただ、アメリカに忠誠を誓わない「NO・NO・ボーイ」だからと言って必ずしも日本に忠誠心を向けていたわけではない。
中にはただ兵隊になって戦場に行きたくないから「NO」と回答した者もいた。
日系二世の中にはアメリカ国籍を持っているのに収容所に入れられ忠誠を試されている事に怒り、政府への抗議の意味で「NO・NO」と回答した者もいた。
強制収容で、それまでアメリカで築き上げて来た生活基盤を破壊され、家財を失い、持っている筈の市民権やアメリカ国籍が顧みられず、忠誠心を疑われ、鉄条網と武装兵に囲まれた環境劣悪な強制収容所での暮らしを強いられているのだ。
アメリカ政府に不満を持つのも当たり前だろう。
実際、「NO・NO・ボーイ」のうち約2600人は日本に行った事の無い「純米」なのである。
勿論、日本に忠誠を誓い「NO・NO・ボーイ」となった者もいる。
つまりは、強制収容所に入れられた日系人達は実に様々な考えを持つ人達の集まりであったのだ。
この忠誠審査で「NO・NO・ボーイ」となった者は、全員がカリフォルニア州北部のツールレイキ強制収容所に送られた。
そのツールレイキ強制収容所では送られた人数に対して居住設備が不足していたため、酷い生活環境だったようだ。居住定数の3倍の人数が生活する事になったと言う。
ツールレイキ強制収容所内では日本への帰国を要望する者達が集まり「即時帰国奉仕団」や「報国青年団」等、幾つかの団体が組織され、アメリカとの決別を決意している。
それが史実である。
今回の歴史において閑院宮摂政が、何年も前から大量に工作員をアメリカに潜入させていたにも関わらず、在米日系人を謀略に使わなかったのは、史実において日米関係が悪化する10年以上も前からアメリカ軍情報部が日系人社会を監視対象とした事や、日系アメリカ市民協会のようなアメリカ政府の手先となって同胞を監視する組織があった事も一つの要因である。
日系人にアメリカ軍が疑惑の目を向けているのならば、その隙に白人系工作員をアメリカ国内に潜り込ませる。
それが閑院宮摂政の策であった。
言うなれば閑院宮摂政にとって日系人はていの良い囮であった。何もせずにアメリカの目を引き付けてくれる囮である。
今回の歴史では未だに日系人の強制収容は行われてはいなかった。
日本の先制奇襲攻撃によりアメリカ連邦政府は消滅し、西海岸一帯の州政府や大都市、西部防衛軍司令部も打撃を受けた為、政治的、軍事的指揮系統が麻痺しており、日系人への対処は放置された状態になっていたのである。
その代わり白人による日系人へのリンチが各地で頻発していた。
ウラン爆弾(原子爆弾)という強力な兵器で大勢のアメリカ人が死んだ。
ウラン爆弾(原子爆弾)を使われた都市は地獄のような有り様だった。
この惨劇を招いたのが日本の攻撃だとわかると、アメリカ人の怒りの矛先は日系人へ向けられたのだ。
現状では何人の日系人が生存しているのか不明だ。
日系人も大勢がウラン爆弾(原子爆弾)の犠牲となった。
その上で白人達からのリンチである。
開戦前、アメリカ西海岸一帯には約11万3000人の日系人がいた。
北のワシントン州に約1万5000人。
その南のオレゴン州に約4000人。
更にその南のカリフォルニア州に約9万4000人。
彼、彼女らの生死は神のみぞ知る状況であった。
それとは対照的にユタ州は平和だった。
いや、既にユタ国だ。
ユタは日本の攻撃対象から外れており、被害を受けなかったユタ州政府は、先にアメリカ合衆国からの分離、独立宣言を行ったフロリダ共和国に続き独立を宣言した。
ユタ州の始まりはモルモン教徒が入植し開拓を始めた事から始まった。それ故に人口に占めるモルモン教徒の割合が高く過半数を軽く超えている。
その宗教が深く絡んだ土地柄故か、必ずしもアメリカ連邦政府とは全面的に方針が一致しているわけではない。
82年前の1858年にはユタ戦争と呼ばれる戦争が生じている。
モルモン教というキリスト教徒の中では極めて特異な宗派がユタの広大な土地を開拓し勢力圏にしている事に懸念を覚えた連邦政府が2500人の軍隊を派遣して国に完全に従属させようとした。
それに反発したモルモン教徒達が立ち上がり3000人の民兵組織を結成、政府軍を撃退したのだ。
南北戦争が始まった事もあり、連邦政府は一旦は矛をおさめる。
しかし南北戦争が終わると再びユタに目を向ける。
その結果、最終的にはモルモン教徒が折れる形になったが、宗教に基づく独自路線は継承された。
史実において太平洋戦争が始まると西海岸一帯に暮らしていた日系人は強制収容所に収容されたが、この時、ユタ州はこの措置に反対を表明している。
それはアメリカの州で唯一つの反対表明だった。
またユタ州の砂漠の中にトパーズ強制収容所ができ日系人が約8000人収容されたが、その時、色々と生活の援助をしてくれたのがモルモン教徒の人々だ。
ユタ州最大の都市ソルトレイクシティには日本人街がある。1941年の時点でそこに住む日系人は2000人を超える。広い西海岸一帯で暮らしていた日系人が約12万人という事を考えれば、2000人という数字がそれなりの規模であるというのは分かろうというものだ。これらの人々は強制収容される事は無かった。
他の州とは少し毛色が違うのがユタ州だっだ。
その為、戦略的攻撃目標が無かった事と相俟ってユタ州は攻撃対象外となったのだ。
ユタ州の独立宣言を日本は即座に承認した。
これによりユタ州は、この戦争において中立の立場となった。
そして今、その独立したユタ国の首都ソルトレイクシティにある日本人街の一角にある日系アメリカ市民協会支部の事務所で会議が紛糾している。
マイク正岡は悩んでいた。
マイク正岡は、カリフォルニア州生まれだが、子供の頃に親と共にユタ州に移り住み、ここで育った人間だ。
今回の歴史では、たまたま実家に里帰りしていた所に、今回の戦争が発生した。
以後は、ソルトレイクシティにある日系アメリカ市民協会支部の事務所で事態の趨勢を見ていた。
だが、支部での方針が定まらない。
いや支部のせいにはできない。協会代表の自分が今後の指針を示せないから会議が余計に紛糾している。
そういう自覚はある。
だが、考えが纏まらない。
ワシントン州、オレゴン州、カリフォルニア州の支部とは連絡が取れず、伝わって来る西海岸の状況は悪い話しばかりだ。
その上、ユタ州が独立を宣言した。
しかも日本が直ぐに承認しユタ国が中立国としての国際法を守り、敵対行動をとらなければ攻撃はしないという。
この状況にユタ国の多数派たるモルモン教徒達は歓迎の意向を示している。
何にも掣肘されないモルモン教徒の国ができたと喜んでいる。
自分もモルモン教徒だ。
しかし、どちらかというとモルモン教徒としてよりは、アメリカ合衆国への忠誠心が強い。
だが、連邦政府は崩壊している。
それ故に悩む。
実家の家業を手伝いながらこのまま静観しているべきか。
それともユタを出て、連邦軍に参加し日本軍と戦うべきなのか。
しかし、日系人はリンチの対象になっているとも聞く。
それとも西海岸の日系人を援けるべきなのか。
日系アメリカ市民協会としては、そうするべきかもしれない。
しかし、独立を宣言したユタ国政府が日本との関係を考慮して他州との交通を制限してしまった。
そう簡単には西海岸の日系人に援けの手を伸ばせない。
一体、自分はどうしたらいいのか……
日系アメリカ市民協会はどうしたらいいのか……
「だからまずは西海岸の仲間を救うべきだろう」
「通信も交通も滅茶苦茶で、西海岸は日本軍が暴れ回っているというじゃないか、危険過ぎる」
「金だってかかるぞ」
「金の問題じゃないだろ!」
「いや、ユタだってこれからどうなるのかわからないんだ。金も大切だ」
「今暫くは様子を見ていた方がいい」
「仲間を見捨てるのか?」
「そうは言っていない。大都市はどこも壊滅しているそうじゃないか、どうやって捜すんだよ」
「ユタ政府が他州との交通を制限しているんだぞ。それに逆らったらどうなるんだ。下手したらこの組織ごと取り締まりの対象になるかもしれないじゃないか」
会議は小田原評定と化している。
マイク正岡は未だ悩み続けている。
その答えはまだ出ない……
【to be continued】




