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第六章:魔法少女になりたくない

「死にたくない……」あの時、少女はクローゼットの中に隠れていた。耳を刺す悲鳴、扉の隙間から漏れ出す紫色の光――彼女は、その怪物の正体を目撃した。


それは、まだ低学年の自分の弟だった。弟は母親の長い髪を掴んで引きずり、学校で習った童謡を口ずさみながら、廊下で父親の頭部をサッカーボールのように蹴り回していた。


それこそが、かつて弟が最も愛したスポーツだった。


「お姉ちゃん……見て、僕のシュート、カッコいいでしょ……」ユニフォームを着た男の子が歩むごとに、その体から紫色の破片がボロボロと剥がれ落ちていく。


――もし、もっと早くに弟の異変に気づいていれば、この災厄は防げたのだろうか。


「シュート!」

彼は足を振り上げ、その頭部を部屋の中へと蹴り込んだ。


「ゴール……」彼はクローゼットの前まで歩み寄り、天真爛漫な表情で隙間に顔を近づけた。そして、その中でガタガタと震える少女を見つけ出した。


濃厚な血の臭いと、天真爛漫でありながら不気味な笑顔。彼女は思わず口を手で覆ったが、股の間からは温かいものが床へ伝っていた。


突如、一筋の矢が、かつて弟だった怪物の体を貫いた。彼が倒れゆく刹那、彼女は弓を手にした一人の少女の姿を見た。その少女は、童話のお姫様のように軽やかで幻想的な衣装を纏っていた。


――それが、優子と魔法少女との、最初の出会いだった。


相手はクローゼットに隠れる彼女に気づくことなく、厳しい表情で何かを捜索するように、そのまま立ち去った。


「酷い不注意だ。魔法少女としては落第点だな」一人の男が、突如としてクローゼットの前に現れた。彼の声も顔も、今の彼女は思い出すことができない。


ただ覚えているのは、彼が扉の隙間から、一心の天藍色の宝石を差し出してきたことだけだ。


「今日起きたことのすべてを、記憶に刻め。いつの日か、お前はこの感情を懐かしむことになる」男は憐れむように言った。その後、優子は極度の疲弊から昏睡へと陥った。


悪夢を見た。夢の中で、彼女は紫色の怪物たちに包囲され、四肢をなす術なく引きちぎられ、内臓を生きたまま抉り出された。夢であるはずなのに、その痛みはあまりにもリアルだった。


その後、彼女は祖父母に引き取られた。あの災厄は「ガス爆発事故」として処理され、彼女は唯一の生存者となった。


あの日以来、毎夜のように同じ悪夢が繰り返され、結末は何度も再現された。驚愕して目を覚ますと、天藍色の宝石が静かに手のひらの中に収まっていた。


――その宝石は、不吉の象徴だった。


海へ投げ捨てたこともあったが、悪夢を見るたびに、それは必ず彼女の手元へと戻ってきた。


「私はただの一般人なのに、なぜこんな目に遭わなければならないの?」彼女は図書館に籠もり、科学から神話に至るまであらゆる資料を調べ尽くしたが、自身に起きている超常現象を説明できるものは何一つなかった。――再び「彼女たち」に出会うまでは。


あの日、彼女は街中で、弟と同じ姿をした怪物を見つけた。外見は酷似していたが、その「人間」には、生き物としての気配が完全に欠落していた。彼女は別の悲劇を阻止するため、静かにその後を追った。


人目のない路地の片隅で、あの見覚えのある矢が怪物を貫いた。放ったのは、童話のお姫様のような少女。


その身のこなしは軽やかで、ビルの壁を伝うように跳躍していく。優子は即座にその後を追った。

そして彼女は目撃した。あの少女が、自分と同じように普通の人間へと姿を戻す瞬間を。


「何者だ!」その少女は、追ってきた優子を強く警戒して睨みつけた。


優子は自ら歩み寄った。その胸の鼓動は、かつてないほどに激しかった――あの日、彼女たちは自分を救ってくれた。もしかしたら、この名状しがたい恐怖に立ち向かう術を、彼女たちなら知っているかもしれない。


「私はただ、知りたいだけ……私に何が起きているのかを」彼女が差し出した手のひらで、どうしても捨てられなかった天藍色の宝石が微かに明滅した。


少女は彼女を凝視した。その瞳の警戒は、やがて言葉にできないほどの哀憐へと変わっていった。


「……違う」少女はついに口を開いた。


「お前は生きているのではない。それは、一時的な執行猶予に過ぎない」


その夜、彼女たちは廃ビルの屋上で長く語り合った。滅び去った世界の残骸である、敵の正体について。それらの存在形態は様々だが、いずれも「生」への妄執を孕んでいるという。


「……では、この宝石は何」


「運命の呪い、そしてお前の武器だ。早く馴染むことだな」


相手は連絡先を言い残し、去っていった。その夜、優子は知った――この世界に、英雄は一人だけではない。

それ以来、夢の中で彼女は怪物に立ち向かう勇気を得るようになり、次々と勝利を収めていった。


勝利を重ねるごとに、天藍色の宝石の輝きは淡くなっていった。悪夢は執拗に続いたが、優子はすでに、夢魔を打ち破る力を手にしていた。


そして何より、彼女はこの世界に潜む異常に、少しずつ気づき始めていた。


あの日、彼女は人生で最も勇敢な決断を下した――真相を掴むため、単身で異界へと乱入したのだ。


だが、影に包囲された瞬間、彼女は恐怖のあまり失禁した。弟のような怪物が、これほどまでに無数に存在していたとは。


その極限の恐怖の中で、彼女はついに理解した。ここには、彼女が逃げ込めるクローゼットなど、もうどこにも存在しないのだということを。


「ALICE WONDERアリスワンダー――変身」


光が彼女を包み込み、虚空から滑らかな布地が編み上げられていく。淡いブルーのドレスが彼女の細身の肢体を覆い、袖口とスカートの裾には繊細な白レースが施されていく。


象牙色のスカーフが首の後ろから翻り、胸元で優しく結ばれた。


彼女の黒髪は一縷ずつ金色へと褪せていき、しなやかに肩の後ろへと流れる。本来なら光のなかったその双眸は、この瞬間、明瞭な碧色へと変じた――まるで、童話から抜け出してきた少女のように。


彼女は魔法書を開き、童話の中の巨竜を召喚した。竜の焔が降り注ぎ、すべての敵を焼き尽くす。間髪入れず、彼女は最も純粋な暴力をもって、異界を木っ端微塵に引き裂いた。


戦闘が終結した時、彼女は呼吸すら満足にできず、心拍は微弱で、今にも停止しそうだった。だが、倒れ伏した影たちの魔力が体内へと回流するのを感じて、ようやく再び立ち上がることができた。


あの日、優子の世界は完璧に二つに引き裂かれた――昼は天真爛漫な笑顔を浮かべる少女、夜は災厄に直面する戦士。


彼女は他の魔法少女たちとしばしば小隊を組み、見事な戦術連携によって、想像を絶する強敵を幾度も退けてきた。その時の彼女は、自分たちが本当にこの世界を救えるのだと信じていた。


あの日、あの『使徒』が現れるまでは。


「我は終末の先鋒、お前たちに破滅の予兆をもたらす者なり」


その存在自体が「力」の象徴だった。それは狂ったように破壊を撒き散らし、彼女たちが想定し得るすべての抵抗は、一瞬にして徒労へと帰した。


――だが、彼女たちは魔法少女。奇跡を紡ぐ存在だ。


極限の恐怖を真に体感した者だけが、「勇気」の真価を理解できる。ここで自分が退けば、無数の命が喪われることを、彼女は痛いほど分かっていた。


優子たちは次々と後に続き、最期の瞬間まで戦い抜いた。


「抗え! 滅びをより壮麗にせよ!」


重傷を負い、死の淵に瀕しながらも、それは狂気じみた声を上げていた。


あの日、彼女は知った。あの天藍色の宝石は、最初からずっと、己の体内に存在していたのだ。


『小澪、今回のマリーもすごく可愛いわね』

『あのお嬢様、ただのアイドルごっこでしょ』

『さてはあなた、熱心なアキ推しね』

『ちょっと、小澪、美咲。うちに来たのは勉強会のためでしょ。じゃないと夏休みに補習になるわよ』

『はーい、優子先生』二人の声が重なる。


過去の記憶は灰燼へと帰した。しかし、舞い散る灰の中で、宝石は今なおその光彩を失っていなかった。


彼女たちの中には、ホラー映画を怖がる者がいた。


辛いものが食べられない者がいた。ケーキを好む者がいた。アニメを愛する者がいた。ファッション雑誌を眺める者がいた。


「本の……虫……これが、最後の一片……!」最後の同伴者が倒れ、その身を燃やしていく。だが、彼女が遺した斬首の大斧は、未だそこに存在を留めていた。


――いつも、自分が最強だと言っていたくせに。


「ケーキは全部あげる。次はもっと大きいのを買うから」優子は魔法書を開き、彼女が想像し得るすべての神話生物を書き換えるように召喚した。魔力の枯渇により、鼓動のたびに激痛が走る。


それでも彼女は大斧を握り締め、救世主を気取る破滅者の烈焔へと、義無反顧に突撃した。


「好きです、有栖さん。僕と付き合ってください」屋上で、少年が少女に向かって告白していた。それは一年という歳月をかけて沈殿し、ようやく芽生えた勇気であり、物語が本来たどり着くべき結末のはずだった。


本来なら、これは恋を知ったばかりの少女と少年の、どこにでもある物語。


「ごめんなさい。学業に専念したいの。好きになってくれて、ありがとう」

優子は一礼し、相手の告白を拒絶した。


なぜなら、物語はまだ、結末を迎えていないのだから。

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