第三十八章:月面決戦
「見事なものね。一般市民への被害を避けるため、あらかじめ戦場を移動させておくとは」クレーターの刻まれた月面において、サタンと名乗る魔王は、光を放つ六翼を揺らめかせていた。
金色の光が織り成す薄衣が、高頭でしなやかな彼女の身躯にぴったりと沿っている。
彼女はかつてジェニー・ドゥー――身元不明の死体の代名詞を自らの名として冠していた魔法少女であった。
「……あなた、ジェニーなの!?」亜紀はその顔立ちを目にし、驚愕の表情を浮かべながらも、手にしていた銃の狙いを定めた。実際のところ、ここは異界ではないため、あまりに強大な魔法を行使することは叶わない。
「私を識別できるとはね……落ち目のアイドルと、ガリ勉さん」魔王が手を掲げると、眩い光幕が月面を照らし出し、無数の光の長槍が二人へ向けられた。
「本当にジェニーなのね……」頭上を埋め尽くす光の群れを前に、亜紀は冷や汗を流したが、降伏するつもりなど毛頭なかった。
「亜紀、伏せて」優子が魔導書を開いた瞬間、光幕が一斉に降り注いだ。狂乱の如き一閃が月面に猛烈な煙塵を巻き上げ、大地は砕け、崩壊した岩塊が宇宙の虚空へと散っていく。
「さすがは、この世界最強の魔法少女というわけか」魔王は興味深そうに、未だ無傷の二人を見やった。彼女が対峙してきた数多の対戦相手の中で、大部分の魔法少女は己の固有魔法のみに頼って戦っていた。次元魔法をこれほどまでに鍛え上げ、実戦応用してみせるのは、この世界の魔法少女をおいて他にない。
「死ぬかと思いましたよ、先輩……」亜紀は身体についた灰を払いながら立ち上がった。
「攻撃を異界へと転送しただけよ」優子の口調は至って平穏だった。幾度となく死線を潜り抜けてきた経験ゆえか、強敵に対峙するときほど、彼女の理性はどこまでも冷徹に研ぎ澄まされるのだ。
マリは時として予測不能な行動に出るため、優子は一羽の美しい彩蝶を彼女の追尾に放っていた。マリ本人はそれに気づいていただろうが、美しさを気に食ったのか、あえて排除しようとはしなかった。
それにより、優子は魔王に関する僅かな情報を掴むことができ、魔王が現世に姿を現した瞬間を捉え、亜紀と共に迎撃・転送を成功させることができたのだ。
「本当に優秀な策士だな。惜しむらくは、君がチェスの『キング』に過ぎないということだ」広範囲攻撃が無力化されると、サタンは手を差し伸ばした。光で構成された剣と大盾が、彼女の手に実体化する。
「私をのけ者にしないでよ!」亜紀が相手に向けて幾発もの弾丸を叩き込んだ。しかし魔王の動きは速く、弾丸の軌道を容易くかわしてみせる。だが直後、重厚な爆音が響き渡った。
剣刃が優子の喉元を穿とうとしたその瞬間、魔王は亜紀にあらかじめ地上へ設置されていた爆弾を踏み抜いていたのだ。
「なかなかやるじゃないか、落ち目のアイドル」煙塵が晴れると、サタンの剣刃は亜紀の銃身によって受け止められていた。二人はそのまま跳躍して間合いを取り、魔王との距離を維持する。
「二度と落ち目のアイドルって呼ばないで! 次はこんなもんじゃ済まさないから!」亜紀は続けざまに銃弾を放つが、それらは魔王の盾によって易々と防がれた。彼女はポケットからガラス玉のような地雷を撒き散らし、相手の接近を阻むことしかできない。
だが、魔王が一閃を放つと、巻き起こった烈風が瞬時に撒き散らされた爆弾を全滅させた。彼女の攻撃は、魔王の前ではまるでおままごとのようだった。
「私とここまでやり合えるとは、魔法少女として褒めて遣わそう」サタンは焦る様子もなく、ゆっくりと二人に歩み寄ってきた。その態度には二人を眼中に置かない圧倒的な余裕が漂っている。
「かつてね、魔法少女を生み出し、魔法が濫用されていた世界を統一した者たちがいた。しかし、その世界で魔法を行使するための根源は、すでに枯渇しかけていた。だから奴らは、別の世界に目をつけたのだ」魔王は冷笑を浮かべた。その眼差しには蔑みと、自らの力に対する絶対的な自信が満ち満ちていた。
「異世界の植民者として、奴らはその世界を散々荒らした挙げ句、また次の世界を探し求める。反吐が出るような汚い大人たちだよ。私達のような少女を戦場へと送り出し、自分たちは後方で富と繁栄を貪っていたのだから」
「だからこそ……私のような魔王が誕生した。私達を戦場へと追いやった者たちへ反旗を翻し、その全てを粛清するためにね」
「見なさい、この世界では今この瞬間も魍魎が跳梁跋扈している。私とこうして戦っている間にも、子供たちは飢え、少女たちは辱められ、無数の人間たちが偽りの幸福に酔いしれている」
「君たちは強い。だが、その奮闘が一体何を変えられるというのだ?」
「今日、君たちが救世主として崇められたとしても、明日には『異端』として火刑に処されるかもしれない。それこそが、魔法の存在しないユートピアの真実だ」
「私の選択のもと、使徒へと生まれ変わりなさい! 優子! 亜紀!」魔王は両手を広げ、狂気を含んだ眼差しで二人を見据えた。
「ジェニー、あなたが今どんな魔王になっていようと、私の答えは一つだけよ。この世界にはクソみたいな奴らがごまんといるし、私のヒーローごっこなんてただのおままごとかもしれない。だけど……!」亜紀は銃口に銃剣を装着した。これからの戦いが凄惨な白兵戦になることを察していたからだ。
「それでも、私を応援してくれる人たちが存在するの! あの人たちが喜んでくれるなら、私だって嬉しい。私を『落ち目のアイドル』って言ったわね?」
「なら答えてあげるわ! アイドルはね、誰かの歓声のために生きるの! たとえそれが一瞬の泡沫の炎だとしても、私は躊躇わずに飛び込んでみせる! それこそが、私の生き様よ!!」亜紀は大声で叫んだ。先ほどまでの怯えは完全に消え去り、その瞳には燃え盛るような戦意が宿っていた。
「かつて、世界のために戦った人たちがいたわ。私は彼女たちの遺志を継ぐ。それが、私にできる唯一の『悼み』だから」熱弁を振るう亜紀とは対照的に、優子の表情に大きな変化はなかった。
彼女は開いた魔法書を手に取り、かつての青臭かった自分、そして去っていった同伴たちと共に戦った記憶を呼び覚ましていた。
あの頃の自分は、今のように冷徹ではなく、いつも天馬行空な召喚獣を呼び出しては失敗していたものだった。
「……そして、きっと私自身の一部を悼むためでもあるのでしょうね」優子は魔法書の中から何枚かのカードを取り出し、前方へと投げ放った。
瞬く間にそれらは甲冑を纏った騎士へと姿を変える。肩にはトランプのマークと数字が刻まれていた。
それらの戦闘力は常人とさして変わらないものだったが、かつての優子が最も好んで呼び出していた召喚体であった。
「なるほど。圧倒的な力を前にして諦めるような珠なら、当代最強などと呼ばれるはずもないか」金色の光が魔王の手の中で巨大な大剣へと凝縮された。彼女の一閃により、群がり寄るトランプの騎士たちは一瞬にして消滅した。
しかし、優子は間髪入れずに新たな騎士たちを次々と召喚する。それらは飛んで火に入る夏の虫のごとく魔王へと突撃し、サタンは大剣を振り回して周囲を一瞬で火の海へと変えていった。
「無駄な抵抗を」魔王が再び剣を振り抜き、目の前の騎士たちを焼き払おうとした瞬間、銃剣を握りしめた亜紀と、大斧を掲げた優子が猛烈な突撃を仕掛けてくるのが視界に入った。
焼き尽くす剣風がトランプの騎士たちへ襲いかかったが、直後に炸裂音が響き、剣風の一部が消失した。亜紀が騎士たちの身体にあらかじめ爆弾を仕掛けていたのだ。
爆発と同時に開いた次元の亀裂が、目の前の攻撃を飲み込んだのである。
しかし、優子の振るう大斧は魔王の剣刃に阻まれ、亜紀の銃剣は大盾によって完璧に防がれた。
「これでも喰らいなさい!」亜紀が至近距離から散弾を連射した。猛烈な連撃を受け、魔王の盾に亀裂が走り、ついに砕け散る。無数の弾丸が魔王の肉体を穿ち、サタンの身体が初めて傷を負った。
「私に傷を負わせるとはね……!」サタンが光子を凝縮させ、至近距離で爆発を引き起こした。二人の身体が激しく吹き飛ばされる。サタンは穿たれた弾孔を押さえ、瞬時にその傷を癒やしてみせた。
「……これで本当におしまいなのかな」亜紀は血を吐き出しながら、戦斧を支えにして揺ら々とした身体を起こす優子の姿を見つめた。相手の力はあまりにも圧倒的すぎた。
「お二人とも、随分と無様な姿ですわね」突如、耳慣れた声が二人の耳朶を打った。可憐で、どこか甘やかで艶やかな、高貴な響きを湛えたその声が。




