第二十七章:伝統の魅力
【重要なお知らせ】作者多忙のため、来週より毎週月曜日のみ(週1回)の更新に変更させていただきます。
「ド、レ、ミ、ソ、ソ――」
音楽室の中、マリはピアノの前に座り、右手で軽やかにメロディを奏で、左手で和音を紡いでいた。
彼女はそっと目を閉じる。まるでオーケストラ全体が自分の脳内に隠されているかのように――弦楽器の重なり、金管楽器の咆哮、木管楽器の囁き。それらの音が幾重もの雲のように交錯し、静かに流れゆく。
彼女がほんの少し思考を巡らせるだけで、西風のように軽快な旋律がその指先から溢れ出した。生き生きとしたリズム、明るいテンポ。精密でありながら、どこまでも優雅だった。
これらはすべて、帝王学ならぬ貴族としての英才教育の一環であり、それ以上に彼女が幼少期に「音楽の神童」と謳われていた時代から遺る本能でもあった。
驚異的な音感とリズムのコントロール能力の高さから、かつて両親は彼女を音楽の専門道へと進ませることすら本気で検討していたほどだ。
「完成ですわ」
マリは指の動きを止め、ピアノの椅子から一冊のノートを取り上げると、すでに書き上げられていた歌詞の下に、五線譜へと旋律を書き込み始めた。
これはクラスメイトから依頼された、文化祭(校内フェスティバル)の演奏曲だった。急に作曲のできる人間が見つからなくなり、彼らは恥を忍んでマリの元へと泣きついてきたのだ。
「ロザリアさんが書いてくれた曲……すごく良いんだけどさ、なんていうか、ちょっと物足りないっていうか……?」
隣にいた男子生徒が腕を組んで首を傾げた。彼はどうやら、マリの古典的な音楽性に異議があるようだった。
「輝村くん」マリは微笑んだ。その声は酷く軽やかだったが、言葉の響きはまるで優美な刃のようだった。
「お気に召さないのでしたら、ご自分で自由にアレンジなさってもよろしくてよ?」
その優雅な笑顔は、かえって相手の背筋を凍りつかせた。もし彼女の音楽にケチをつける度胸があるのなら、それ相応の、彼女を納得させられるだけの論拠を提示しなければならない。
「いや、実は俺が求めてるのって、こういう感じなんだよね」男子生徒は恐る恐るスマートフォンを差し出してきた。
画面に映し出されていたのは、あるライブ映像だった――金髪で背の高い欧米系の女が、濃いスモーキーメイクを施し、エレキギターを狂ったように掻き鳴らしながら、まるで世界そのものに怒号を浴びせるように絶叫していた。
「……ジェーン・ドゥ(Jane Doe)」
マリはその名前を口の中で呟いた。英語圏の国々において、身元不明の女性の遺体に付けられるありふれた代号だ。
「最近超バズっててさ、反逆的でマジで個性的(尖って)なんだよ!」
男子生徒はまるで自分の宝物を自慢するかのように、得意げな口調で言った。
「なるほど。反逆的で、狂暴……ですが、それはあたくしの美学には反しますわね」
マリは静かに頷くと、次の瞬間、何のためらいもなく今しがた書き上げたばかりの楽譜をビリビリと引き裂いた。紙の破れる鋭い音が、静かな音楽室の中に異様なほど鮮明に響き渡る。
「それでは――あなた方のために曲を書き直して差し上げますわ。もっと優雅で、もっと洗練されたものをね」
彼女は小悪魔のような笑みを浮かべ、その繊細な指先を再び鍵盤の上へと戻した。
「し、失礼しましたっっ!!」
男子生徒は顔面を蒼白にさせ、深く一礼するなり、脱兎のごとく音楽室から逃げ出していった。
とはいえ、一度引き受けた以上、マリはきっちりと仕事を完遂する主義だった。
彼女は先ほどの演奏動画をもう一度見返し、相手が求めているものの本質を大まかに理解した。革命の気配を帯び、リズムは単純明快で、人々の心をダイレクトに揺さぶる旋律。
「マーチ(行進曲)の形式ですわね……」
彼女は独りごちると、指先で鍵盤を叩いた。昂然とした激しい和音の響きとともに、新しく構築された旋律が重砲の進撃のように推進し、音楽室全体へと轟き渡っていく。
「あいつから絶対にイチゴミルクを二パック巻き上げてやりませんと」
完成した楽譜を一瞥し、マリは不敵な笑みを浮かべた。自ら足を運び、あの輝村という男子生徒にこの成果物を叩きつけてやるつもりだった。
その後、マリは自らバンドの演奏リハーサルを指導した。
最初は怪訝そうな顔をしていたバンドメンバーたちだったが、実際に音を合わせてみると、その楽曲は驚くほど耳に馴染みやすく、それでいて決して陳腐ではないことに気づいた。
彼らが想像していた退屈な古典音楽とは完全に一線を画していたのだ。
結果として彼らは満場一致で決定した――マリの書き下ろしたバージョンを採用することを。
「……ジェーン・ドゥ」
放課後、マリはその名前を何度も口の中で反芻していた。どうしても、あの動画の女の「声」をどこかで聞いたことがあるような気がしてならなかった。
少なくとも、発声の癖は完全に一致している。それに、あの異様な高身長。
――あるいは、単に最近の若者たちの間で、あの手のロック特有の発声法が流行しているだけかもしれないが。
街を歩けば、制服姿の高校生たちがこぞって楽器のケースを背負い、せわしなく行き交っているのが目についた。どうやら空前のバンドブーム(トレンド)らしい。
実はマリの元にもバンド加入の熱烈なスカウトが何度か来ていたのだが、彼女はそれらをすべて一蹴していた。ただし、音楽的な技術の壁にぶち当たっている者に対してなら、多少のアドバイスを与えてやるくらいの吝かさはなかったが。
その時、彼女の視界に一人の背の高い人影が飛び込んできた。すぐ傍にあるライブハウス(Live house)へと足を踏み入れていくその姿――金髪、高身長、濃いスモーキーメイク、外人。それは、先ほど動画の中で目にした人物のビジュアルと完全に一致していた。
「……本当に背が高いですわね。羨ましい限りですわ」
その人物はマリのすぐ横を足早に通り過ぎていった。相手の圧倒的なプロポーションを確認したマリは、そのままライブハウスの中へと追うように入っていくことに決めた。
ついでに、最近の若者たちの間で一体何が流行っているのかをこの目で確かめるのも悪くない。
会場内は黒山の人だかりで、地鳴りのような歓声と悲鳴が絶え間なく交錯していた。そのあまりの騒音に耐えかね、マリはスクールバッグから「タクティカルヘッドホン(防音イヤーマフ)」を取り出して装着した。
普段、この手のアイテムをバッグに忍ばせているせいで、優子からは『お前のカバンには教科書の他に、サバイバルキット一式でも詰まっているのか』と容赦なくツッコミを入れられていたものだ。
薄暗い照明と激しい光影の中、小柄なマリの存在に気づく者など誰もいなかった。この混沌とした空間において、自分が完璧に「その他大勢」として扱われている事実に、彼女は些かの不快感を覚えた。
何しろ彼女はいつだって人の中心であり、スポットライトを浴びる側の人間(ステージの主役)なのだから。
彼女は辛うじて理性を保ちながら、その「ジェーン・ドゥ」と名乗る人物がステージに上がるのを待った。動画サイトでの再生数は決して高くなく、おそらくは趣味の延長の域を出ない活動なのだろう。
しかし、彼女がひとたびギターの弦を掻き鳴らすと、フロアからは割れんばかりの歓声が巻き起こった。どうやらこのインディーズの界隈においては、それなりの地位を築いているらしい。
「ジェーンはさすが外国人だな、ギターのプレイスタイルがマジで奔放だわ」
隣の男子がステージの上のジェーンを絶賛していた。確かに、彼女のギターテクニックは卓越しており、バンドの他のメンバーの音を完全に圧倒していた。た
だ、お世辞にも「息が合っている(アンサンブル)」とは言えなかった。他のメンバーの衣装はアヴァンギャルドながらも一応の統一感があったが、ジェーン一人の服装だけが、奇妙なほど「普通」で浮いていたのだ。
この日、マリは心に深く誓った。二度とこのようなライブハウスという名の魔窟には足を運ばないと。彼女にとって「ロック」とは、数理的な調和の美しさを完全に欠いた、ただ意図的に製造されただけの「騒音」に過ぎなかった。そこにあるのは、音符と楽器による野蛮な咆哮だけだ。
「マリ、どうかしたの?」
自宅での夕食を終えた後のダイニングテーブルで、マリの祖母が彼女の様子に気づき、優しく声をかけた。
「オーマ(おばあ様)、あたくし……少し時代遅れ(オールドファッション)なのかしら」
「時代遅れ? まさか。マリはこんなに可愛らしいし、元アイドルなんですもの、そんなわけないでしょう」
マリの祖母である真尋は、慈愛に満ちた目で孫娘を見つめた。「何か悩み事でもあって?」
「実は、最近クラスメイトのために作曲をしたのですけれど……みんなが求めているのは、刺激が強くて単純なメロディばかりなのですわ。あたくしから見れば、大した技術的な価値もないようなものばかり。……はぁ」
マリは小さくため息をついた。アイドル時代、彼女は無数の楽曲に触れてきた。だがそれらの流行歌のほとんどは、僅か一、二年が経過すれば、人々の記憶の彼方へと消え去ってしまう類の消耗品だった。
「なるほど、そんなことで悩んでいたのね。でもね、マリ。私たちのような貴族という存在は、往々にして『革新』ではなく『古めかしさと伝統』を象徴するものなのよ」
「ですが、現代まで生き残ってきた古いものというのは、それだけ『信頼』と『実用性』を兼ね備えているという証拠でもあるの」
「例えば……?」
マリは興味深そうに尋ねた。
「食べ物そのものがそうよ。例えば白いご飯や、お米を育てる農業という営み。現代にはもっと効率的に栄養を摂取する方法がいくらでもあるのに、人類はいまだに農業という古い手段を選び続けているでしょう?」
「料理という行為もまた、人類にとって最古であり、最も重要な伝統の一つ。たとえ人間が葡萄糖の点滴だけで生きていける時代が来たとしても、私たちはわざわざ手間をかけて料理を作ることを選ぶわ。これこそが『伝統の魅力』であり、人間として生きるための『儀式』なのよ」




