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第十九章:血統の重み

翌日、九條邸の応接室には、物腰は柔らかいが一分の隙もない中国大使館の中年外交官が座っていた。


「ロザリアお嬢様。我が国の一部留学生による個人的な暴挙に対し、すでに処分と本国への強制送還の手続きを終えております。彼らの不穏当な行為について、国を代表して深くお詫び申し上げます」


男は恭しく頭を下げ、マリに対して謝罪の意を示した。


「能書きはいい。動きがこれほど早いということは、とっくに裏を掴んでいたのだろう。我が外孫娘が求めているのは、そのような安価(安っぽい)な謝罪ではない」


九條龍二はソファに深く腰掛けたまま、老骨ながらも圧倒的な眼光で相手を射すくめた。その佇まいは、まさに往年の老練な軍人そのものであった。


「流石は九條先生、お見通しですか。確かに、我が国としてもこれを国際問題へと発展させることは本意ではありません。どうか信じていただきたいのですが、我が国の留学生の多くは、あくまで『友好的な交流』のために貴国へ赴いているのです」


「我が邸宅への赤ペンキの乱打が、貴国の言う『友好的な交流』の一環であると?」


「……重ねてお詫び申し上げます。ですが、どうか我々の説明にも耳を傾けていただきたい。お嬢様に対するネット上の誹謗中傷の発信源(IPアドレス)を追跡したところ、それらはすべて高度に偽装されており、発信者の国籍を物理的に特定することは不可能な状態でした」


「あの悪質な文章や合成写真を見れば、この国内の人間が仕組んだことなど子供でも分かる。老夫わしを相手に回りくどい誤魔化しは不要だ」


「おっしゃる通りです。我々が件の犯行に及んだ学生たちのスマートフォンやパソコンを内密に捜査したところ、確かに外部からの『教唆きょうさ』が存在した証拠が残されておりました」


外交官は、机の上に一冊の分厚い紙袋を差し出した。


「なるほど」


龍二が中身を取り出す。そこにあったのは、特定の通信記録、恐喝に流用されたであろう個人の秘匿写真、借用書、そして不自然な口座振替の記録の数々であった。


「本件には、日本国内の地元の反社会的勢力ギャングが深く関与しております。我が国の留学生の多くが、彼らの巧妙な風俗の罠や違法貸付(闇金)の罠に落ちていたのです」


「つまり、その日本のヤクザどもが留学生の弱みを握り、我が物顔で老夫の庭を荒らし、孫娘を侮辱するよう命じたというわけだな」


「左様です。しかも、関与している黒悪勢力ダークサイドの網の目はあまりにも広範囲に細分化されており、我が大使館の権限ではこれ以上の追及が不可能です。地元の検察や警察の手にも余る状況のようです」


「事情は分かった。貴殿らが留学生を保護する立場から、この真相をあえて老夫に告げにきた、ということもな」


外交官は小さく苦笑し、視線を落とした。


「昨日、オーストリア大使館からも猛烈な抗議プロテストが届きましてね。……もし我が大使館が公式に『中国人の留学生が、日本の反社会的勢力に教唆され、日奥混血の少女に対して極端な民族主義的暴力を働いた』などという声明を発表して、一体どこの誰が信じると思いますか?」


「ふん、自らの役回りをよく理解しているようで何よりだ。ならば老夫も、大手を振って身内の『国門(庭掃除)』を片付けることができるというものだ」


「……私はあくまで一人の個人として、先生の武運長久をお祈り申し上げます」


領事官は立ち上がると深く一礼し、そのままききびすを返して去っていった。その去り際の顔には、どこか肩の荷が下りたような、満面の笑みが浮かんでいた。


「マリ、あの男が何者か分かったか?」


大使館の人間が退出した途端、九條龍二は先ほどまでの凶暴な威圧感を綺麗に消し去り、声音を二分ほど和らげて孫娘の隣へと座り直した。


「外交官……ですわよね?」


マリは小さく首を傾げた。ただ、去っていく男の足音のテンポが、一般的な役人のそれよりも遥かに規則正しく、統制されていたことは彼女の耳が捉えていた。


「半分正解で、半分はハズレだ」


龍二は男が去っていった扉を見つめ、まるで明日の天気でも語るかのような淡々とした口調で言った。


「あの国の『官(役人)』という生き物は、大抵が高調(派手)で、カメラに映りたがり、メディアの露出を好む。だが、あの男はどうだ? ……歩き方は正歩(軍隊の行進)のようであり、話す言葉には一分の隙もない。温和に見えて、無駄な贅肉(雑談)が一切なかった。奴は――情報インテリジェンスの人間だ。お前のドイツの爺さんと同じ類のな。もっとも、能力の高さは私の方が上だが」


「あたくしたちの力量を測りにきた、と?」


「そうだ。こちらにどれほどの『牙』が残っているかを見極め、自分たちがどこまで情報を開示していいかを探りにきた。……結果として、奴は話せる限界のすべてを置いていったようだがな」


龍二はテーブルの上の資料に視線を落とした。その表情はどこか苦渋に満ちていた。そこに並んでいるのは、紛れもない、自国の人間の犯罪の証拠だったからだ。


「体制の強固なくびきを打ち破るのは、いつの時代も、申請書や報告書といった平時(お役所仕事)の手続きではない。――想定外の『黒船』だけだ。これだから老夫は、昔から政治というものが大嫌いでな」


「民主主義の官僚どもが放つ退屈な硝煙の臭いに長く浸かりすぎると、人間というものは肥大化し、麻痺していく。そして、自分たちが何でもコントロールできるという全能感に溺れるのさ」


老兵は静かに立ち上がった。その冷徹な眼差しは、遥か上空から獲物を値踏みする雄鷹のそれへと変貌していた。


中国大使館が持ち込んできたファイルの中には、マリへの襲撃に関与した地元の半グレや暴力団の規模、そして構成員の名簿が詳細に記録されていた。


「なるほど。軍隊で叩き込まれた戦術というものは、身内(国内)のクズどもを炙り出す時の方がよく役に立つな」


書斎のデスクで資料を精査していた龍二は、その犯罪組織の規模と、彼らが動かしている不自然な額の資金マネーフローを見て、即座に敵の戦略的配置を見抜いた。

これほど小規模な地方の組織にしては、稼ぎ出している金額が明らかに多すぎるのだ。


「典型的な『分散型デセントラライズド』の兵站だな」


龍二は冷笑した。まるで敵陣の防衛線を地図上で俯瞰ふかんしているかのような感覚だった。敵側には確かに質の高い実戦部隊(精兵強将)がいる。


しかし、これほど巨大な暴力装置を維持するためには、相応の「糧食」――すなわち莫大な現金が必要不可欠だ。


戦略の基本として、略奪したすべての領土(利権)は、迅速に現金化マネーロンダリングされなければ意味をなさない。そして敵の司令塔もまた、その弱点を熟知しているはずだった。


「これだけの汚れた巨額のキャッシュを完璧に洗浄できる会計事務所など、この県内エリアを探しても十社と存在せん」


彼は黒社会ギャングの活動範囲を地図上にピンでプロットしていった。間違いなく、マネーロンダリングを請け負うプロの会計事務所は、この活動限界の同心円テリトリーの内部に存在する。


このような灰色の世界において、最も安全なのは「現金キャッシュ」そのものだ。


一度洗浄された資金は、即座に物理的な現金へと還元され、物流会社、貴金属取引、さらには神社の香油銭(お布施)といった極めて足のつきにくいルートを通じて外部へと流出していく。


それは同時に、彼らが「リスクが低く、完全にコントロール可能な現金輸送ネットワーク」を必要としていることの裏返しでもあった。


「奴らは老夫の手にかかったことを幸運に思うべきだな。もしウィーンのあの老いぼれ(父方の祖父)が生きていれば、マリにこれほどの泥を塗った代償として、街ごとシステム的に焼却炉へ放り込まれていたところだ」


龍二の指先が、ある一つの企業名の上で止まった。


――『M&R Global国際監査法人』


彼は迷うことなく、自らの専属財務顧問アドバイザーへと直通の電話を入れた。


「私だ、九條だ。『M&R Global国際監査法人』について、競合他社としての視点から集めた極秘の調査データを今すぐ送れ。特に、通常業務から逸脱している『奇妙な点』に絞ってな」


軍の命令下達オーダーのような口調。電話の向こうの相手は恐る恐る承諾し、数分と経たないうちに龍二のパソコンへとデータが転送されてきた。


M&R Global国際監査法人


総従業員数:200名


内、台湾籍のスタッフ:50名


主要顧客:地域の中小企業、および地方自治体の関連団体


「……主要顧客に、まともな跨国華商(大手のグローバル華僑企業)が一件も存在しない、だと?」


老人の中年向けの老眼鏡の奥で、眉が深く潜められた。


地元のありふれた中小企業が顧客のメインであるならば、関税や租税回避といった複雑な「海外資産の管理需求ニーズ」がこれほど大量に発生するはずがない。


龍二は思考を巡らせながら、キーボードを叩く指のテンポを速めた。


台湾籍の従業員が50人――全編制(全社員)の実に4分の1を占めている。


「言語の問題か? あるいは文化の違いか? ……いや、会計という業種の本質は『条文』と『数字』だ。国際会計基準(IFRS)の訓練を受けていれば、国籍など何の関係もない」


彼の細められた眼光が、冷たく凝固していく。


これは一般的な会計事務所の組織図ではない。


むしろ――特定の「身分」や「隠密行動」をカモフラージュするための偽装組織(フロント企業)のそれであった。


「綺麗にパッケージングしたものだが、運が悪かったな。老夫の目を欺くには熟成が足りん。恨むなら、自らの主人の選択の過ちと、手を出してはならぬ至宝マリに触れた己の愚かさを恨むがいい」


九條龍二は静かにノートパソコンを閉じ、老眼鏡を外した。


長きにわたり歴史の闇に塵を被っていた、かつての『東アジアの悪鬼』が、今この瞬間、完全に覚醒した。


時計の針を確認すると、彼は脳内に描いた「腐肉を貪るに最も適した獰猛な豺狼ハイエナ」へと連絡を取るべく、使い古された携帯電話のボタンを押した。


プルルル……プルルル……ガチャリ。


『……九條の大旦那ですか。こんな夜更けに、珍しいこともあるものだ』


受話器の向こうから聞こえてきたのは、ひどく疲れ切った中年の男の声だった。


「去年の初頭、お前が老夫の元へ来て、酒に溺れながら愚痴をこぼしていたのを覚えているか? 『調査庁(公安)の上層部の老害どもが、椅子にふんぞり返ったまま何も仕事をせん』とな。


……違うか、白羽しらはね


『……ただの酒の席での戯言ですよ、お大旦那。よくもまあ、そんな古い話を覚えておいでで』


「老夫の記憶力を侮るな。お前がガキの頃、『新選組になりたい』などと抜かしたのを、冷水(現実)をぶっかけて叩き直してやったことまで鮮明に覚えているぞ」


『勘弁してください、本当に昔の話だ。……去年、妻とも離婚しましてね。今の私は、ただのうだつの上がらない、落ちぶれたサラリーマン(組織の歯車)ですよ』


男は自嘲気味に笑った。


「サラリーマンのように生きている、だと? 白羽、この極東の泥濘ぬかるみのなかでは、大抵の人間がそのように憋屈(屈辱)を抱えながら、息を潜めて生きるしかない。……だが、もしお前にまだ『志』が残っているのなら、老夫の手元にあるこの『大功(特大の獲物)』を、お前の手で斬り獲ってみせる気はないか?」


『……大旦那。まさか、命に関わるような危険なヤマじゃないでしょうね』


「安逸なままで武功を立てようなどと寝ぼけているから、一生組織の泥に塗れるのだ。それに、お前は老夫の『教育方針(原則)』を忘れたわけではあるまい?」


老兵の語気は厳烈を極め、かつて道場で塾生を厳しく訓育していた頃の覇気が完全に蘇っていた。


「当時、お前の青臭い理想に冷水をぶっかけたのも私なら、剣道と算術を仕込んだのも私だ。そして、あの天真爛漫な貧乏分のガキが、叩けば『銘刀(鋼)』に化けると見抜いたのも――この私だ」


通話の向こう側で、数秒の張り詰めた沈黙が流れた。

やがて、大きく息を吸い込む音が聞こえ、男の語調から先ほどまでの気怠さが綺麗に消失した。


『……私は、何をすればいいのですか?』


「お前に一つ、質問だ」


九條龍二は、修羅のごとき凄絶な滅笑(不敵な笑み)を浮かべた。


「これより始まるいくさにおいて――『インターネット』と『爆薬』、どちらがより華々しい開戦の合図に相応しいと思う?」


暗闇の書斎の中、老兵の放つ殺気が、血のように濃い夜のとばりをじわじわと侵食していった。

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