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第十八章:孤軍の栄光


放課後の帰り道、マリはあえて人通りの多い賑やかな大通りを選んで歩いていた。遠回りにはなるが、少なくとも身の安全を確保するためであった。


本当の意味で命の危機に瀕した瞬間にまで「魔法を使わない」などという無駄な拘りに殉じるほど、彼女は愚かではない。


しかし、今日一日に立て続けに繰り出された精神的打撃は、彼女の神経を確実に極限まで擦り減らせていた。


イヤホンを耳に挿しているが、中から音楽は流れていない。それは世界の雑音を遮断し、己の内なる声に集中するための彼女の長年の習慣であった。


彼女の神経は微細な繊維のように張り詰め、一歩進むごとに薄氷を踏むかのような緊迫感が走る。彼女の直感は、敵の攻撃がまだ終わっていないことを明確に告げていた。


そして、次の瞬間――。


爆音が街角を切り裂き、一台の改造バイクが猛烈なスピードで疾走してきた。車体はマリの肩をかすめるほどの至近距離を通り抜ける。


「日寇の余孽(生き残り)め! 血債血償(血の債務を血で償え)!」


ヘルメットの奥から中国語の罵声が轟き、ライダーが腕を大きく振り上げた。直後、ビニール袋に詰められた濁った悪臭を放つ液体が、墨の雨のように彼女へと叩きつけられた。


袋が激しく破裂し、液体が飛び散る。粘り気のある汚水が、マリの顔や制服を汚しながら、容赦なく滑り落ちていった。


鼻を突く凄まじい悪臭に、周囲の通行人から悲鳴が上がる。


助けようと近づく者、眉をひそめて鼻を覆い立ち去る者――そしてそれ以上に多かったのは、スマートフォンを掲げて即座にライブ配信のボタンを押す者たちであった。


それこそが、この現代という時代に調教された大衆の条件反射だった。中には、こうして晒し上げることで自分が正義のヒーローにでもなったと錯覚している者すらいるようだった。


無数のレンズが、突発的な襲撃を受けて地面にへたり込み、汚水に塗れたまま濡れた長髪で顔を隠している少女――マリへと一斉に向けられた。


愛国と歴史を免罪符にのめり込む、烏合の衆。


ただ一票の投票用紙が弾丸に取って代わると盲信する、烏合の衆。


安全な後方に身を潜めながら、一人の少女を社会的に処刑せんとする、烏合の衆。


自分たちの血統が「罪悪」だと言うのなら、ならば見せてやればいい、とその罪深き血統が秘めた冷徹な利刃を。かつて自分たちがどのように掠奪され、蹂躙されたのかを、その愚鈍な脳髄に思い出させてやる


――マリは心の中で、静かに、しかし冷酷にそう決意していた。


彼女は、ある旋律をハミングし始めた。声音は微かだったが、そのリズムはアップテンポなドラムの如く、不屈の進行曲マーチの前奏を告げていた。


「Im Winter wehten ihre Fahnen, ohne falschen Stolz und Überschwang; ihr Stolz hieß Trotzen, 55 Tage lang.」それは、映画『北京の55日』のドイツ語版歌詞であった。


凛冬の中に翻る旗幟。虚飾の誇りも昂ぶりもなく、ただ「不屈」という名の矜持を胸に、あの55日間の籠城戦を戦い抜いた栄光の歌。


彼女の歌声は空霊でありながら、驚くほど明瞭に響き渡り、騒がしいストリートを、スマホのレンズを、あるいは大衆の鼓膜を真っ直ぐに貫いていった。


画面の向こうでほくそ笑んでいる者たち、脳内で安易な勝利を妄想している者たち、動画を拡散して彼女を嘲笑おうと手ぐすねを引いている者たち――今や彼らは、ただ彼女の歌を聴かされるしかなかった。マリは、その不敵な嘲笑を完全に叩き潰すために歌い続けた。


その日、彼女は何度もその凱歌を口ずさみ、進行曲のステップを踏むようにして、毅然と我が家へと帰還した。


「お疲れ様、マリ」


我が家に辿り着くと、玄関で待っていた外婆オマがマリの身体を強く抱きしめた。家族の温もりは、何よりも雄弁な無声の庇護であった。


「ごめんなさい、Oma……明日、お学校をお休みしてもよろしくて?」


「よく頑張りましたね。先生からお聞きしましたよ、お友達を守ったのでしょう」


オマはマリの濡れた髪を優しくかき分け、その額にそっとキスを落とした。


原因でも……あたくし、明日はどうやって笑えばいいのか、分からなくなってしまいましたわ」


彼女の声は極限まで張り詰めた琴の弦のようで、今にもパチンと弾けてしまいそうだった。


「いいんですよ。それなら、笑い方を思い出すまで、いくらでもお休みしなさい」


オマは彼女の髪を撫で続けた。マリの全身から漂う、あの路上で浴びせられた凄まじい悪臭など、まるで気にも留めないかのように。


その夜、広い浴槽の中で、マリは長い時間を過ごした。湯気の中に溶けていく、彼女の頬を伝う水滴。それが熱い霧の結露なのか、あるいは彼女の涙なのか、知る者は誰もいなかった。


一方、その頃。あるホットラインを通じて、中国領事館に一本の電話が繋がっていた。受話器を握るのは、マリの外公オパ――九条龍二であった。


「――九条龍二である。貴殿らの言うところの『軍国主義の亡霊』だ。従軍以来、私はこの身分を恥じたことなど一度もない。逆に聞くが、昭和四十七年、毛主席が『以和為貴(和を以て貴しとなす)』の胸襟を開かれたからこそ、私は政府の号令に応じ、貴国の再建と交流に尽力してきたのだ。今、私が知りたいのはただ一つ。――ここ数日、我が邸宅への嫌がらせを働き、我が外孫娘に対して暴挙を働いている貴国の留学生どもの行動は、個人の意志か? それとも何らかの組織の使嗾によるものか? もし個人の暴走であるならば、私自らが奴らに『分寸わきまえ』というものを叩き込んでやってもよい。貴国が体面ある対応をしてくれると信じている」


「あなた、随分と上手に毛主席の名を借りるのね」


傍らでその様子を見ていた妻の九条千尋ちひろが、呆れたように、しかしどこか楽しげに口を開いた。彼女は夫より十歳ほど若く、若い頃は海外留学の経験もあるインテリであった。


「老いぼれたとはいえ、社交辞令の機微くらいは心得ている。清朝を覆したのは孫文であり、我が皇軍と死闘を繰り繰り広げたのは、我らと同じ士官学校を出た蒋介石委員長だ」


「いつまでも過去の歴史に縋るのをやめなさい、お爺さん」


「お前、私が政界に入らぬと誓ったからといって、政治の本質を知らぬと思うなよ。私はあの国家が嫌いだが――奴らの強さと『体面メンツ』が、あの体制においていかに絶対的な意味を持つかは嫌というほど理解している。奴らのメンツという皮をまともに踏みつければ、その行政効率は貴様らの想像を絶する速度で跳ね上がるのだ」


「ふん、頭の方はまだボケてはいないようね」


「十五で士官学校に入って以来、私がこの人生で最も見下してきたのは、ペン一本で飯を食う文官どもだ。奴らが腰を強く(強気で)いられるのは、国内の身内の前だけだ」


千尋はふっと笑みを漏らした。


「ええ、その通りね。自国の貴重な留学生を、国際ニュースの晒し者にするほど愚かな国家がどこにあるかしら。もし国家の顔に泥を塗るような連中を即座に処理しなければ、それは単なる外交失礼に留まらず、彼らにとっての『国家安全保障』の根幹に関わる大問題ですものね」


「何より、我が外孫娘の身体には、二つの国籍が宿っているのだ。いかなる真っ当な政府とて、自国の留学生が他国で少女に汚水を浴びせ、堂々と国際ニュースを飾るような大醜聞を放置できるはずがない」


「ゆえに奴らは――必ず、かつ直ちに、私に納得のいく『回答』を差し出さねばらんのだ」


「そう焦りなさんな、お爺さん」


「ふん、私はあの手合いを誰よりも熟知している」


九条龍二は冷笑を浮かべ、その語調は鉄のように沈着であった。


「私はただ、奴らの強固な体制を逆手に取り、この悍ましい陰謀の『底色(正体)』をあぶり出そうとしているに過ぎん。この風雲急を告げる国際情勢のなかで、学生を操り、事態を煽動し、さらにはメディアへの拡散を完全にコントロールできる存在など――背後に強大な手引きを持つ者がいなければ、それこそ怪談の類だ」


「中国大使館にいるのは、何も上品な外交官ばかりではない。その裏には、こうした『不純物』を秘密裏に処理することに特化したプロフェッショナルが潜んでいる。私はただマッチを擦って闇を照らしただけだ。我が九条の至宝に手を出すような命知らずの愚か者が、一体どこのどいつかを見極めるためにな」


「間違いなければ、奴らは間もなく、我々の『手』を借りに頭を下げてくるだろう。さもなくば――ウィーンにいるあの娘婿が、自ら軍勢を率いて奴らをまとめて焼却炉へと叩き込みにやってくるからな」

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