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第十七章:一応の勝利、かしら?


その日の昼休み、一人の女子生徒が目を真っ赤に腫らし、啜り泣きながら職員室へと駆け込んできた。


彼女は、マリから執拗な身体的暴力いじめを受けたと訴え出たのだ。頬に残る生々しい手のひらの痕と青アザ、そして数人の生徒による「目撃証言」の裏付け。それらは、マリの明確な悪意と暴力を証明するに十分すぎるほど確実な証拠のように見えた。


事態を重く見た学校側は、即座にロザリア・マリを呼び出し、「被害生徒」との直接対面(対質)を行わせる決定を下した。


「ロザリアさん……今のあなたがどれほど苦しいか、私には分かっているつもりよ……」


同行する清水しみず先生は、悔しさに奥歯を噛み締めていた。


彼女は、この元アイドルの少女が時に突飛な行動をとることに慣れてはいたが、クラスの空気を自在に手玉に取るこの小さな小悪魔に対して、心のどこかで未だ一縷の信頼を抱いていたのだ。


「先生、あたくしたちが中に入りましたら、扉と窓を完全に閉めていただけますかしら?」


マリは相変わらず、いつもの従容とした微笑みを崩さずに言った。


「窓を閉める? どうして?」


「だって……空気の一片たりとも、外へ漏らすわけにはいきませんもの」


彼女はいたずらっぽくウインクしてみせた。その口調はどこまでも軽やかだったが、眼差しには深い意味が込められていた。


校長室へと向かう廊下、周囲の教室からは重苦しい視線が一斉に突き刺さる。


大半の生徒は何が起きたのか正確には知らなかった。ただ、「学園のアイドルが人を殴った」「あのいつも甘く愛らしいマリが激昂して暴力を振るった」という噂だけが一人歩きしている。


この瞬間、周囲が自分に向ける視線は、さながら――フランス革命直前の「ハブスブルクのマリー(マリー・アントワネット)」を見るそれと同じなのかもしれない。


大人たちによる不条理な審判が下されれば、自分の輝かしい校園生活スクールライフは一瞬にして終わりを迎えるだろう。


校長室の重厚なドアを開ける。


マリの特異な身分(家柄)を鑑みて、室内には多くの主任たちが手ぐすねを引いて並んでいた。彼らは融通の利かないことで有名な、石頭の教育者たちだ。


かつて学内で盛大なパフォーマンスを企画した際、彼らを説得するのには並々ならぬ苦労を要した記憶がある。


「ロザリアさん、なぜ手を出したのですか」


校長が先んじて口を開いた。マリは思わず心の中で鼻で笑ってしまった。


一体何が起きたのか、校長ともあろう者が本当に何も把握していないとでも言うのだろうか?


……まあ、いい。最初から彼らの弁解など期待してはいない。


「女の子の顔にこのような傷を残すなんて……一体どこの流氓ならずものが仕出かした不届きな真似かしら?」


マリはわずかに首を傾げ、その女子生徒を見つめた。口調はどこまでも優しかったが、その言葉は細い針のように、その場にいる大人たちの鼓膜へと突き刺さった。


まるで、これがただの午後の退屈しのぎの冗談であるかのように。


「――さて、メイク落としの時間ですわ」


言い終えるや否や、マリは流れるような動作でドアへと歩み寄り、内側から鍵をガチャリと反鎖ロックした。さらに窓際のカーテンを一気に引き絞り、外界からの視線を完全に遮断する。

部屋の中の空気が、一瞬にして凝固した。


「はい。……ありがとうございます、ロザリアさん」


先ほどまで怯えていたはずの少女が、静かな声で応じた。


彼女はマリの傍らへと歩み寄ると、制服のポケットから慣れた手つきで一本のクレンジングウォーターと化粧綿コットンを取り出した。


その動作には微塵の焦りもなく、まるでステージの上で予定通りの演出をこなしているかのようだった。


「あたくしを信じることを選んでくださって感謝しますわ。さあ、これからは貴族ノビリティとしての義務を果たさなくてはね」


マリは小さく頷き、感謝の意を示した。


少女はコットンに液体を含ませ、自らの顔の「傷痕」を拭き取り始めた。


赤く腫れ上がり、痛々しい青アザに覆われていたはずの肌が、徐々に本来の清廉な肌色へと還元されていく。


厚く塗られたチーク、優碘ヨードチンキ、そしてファンデーションが拭い去られるにつれ、偽りの怪我は跡形もなく消え去っていった。


「元アイドルとして言わせていただきますけれど、あたくしの特殊メイク技術は、芸能界のプロのスタイリストさんからもお褒めをいただいたほどですのよ?」


マリの声音には笑みが混じっていた。しかしそれは、目の前の教師たちの権威と偏見を冷酷に切り裂く薄刃そのものだった。


校長室全体が、目に見えない巨大な手に喉元を締め付けられたかのように静まり返った。

誰もが言葉を失い、ただ呆然とその光景を凝視している。


――かつて暴力を告発したその顔は、今や一点のくずもないほどに、美しく、滑らかだった。


少女は無言のまま、自身のスマートフォンを大人たちへと差し出した。


画面に表示されていたのは、昨日の夜に受信された一通の匿名メッセージ(ショートメール)だった。


『あのファシストの小公主(クソお嬢様)に少し苦汁を舐めさせてやれ。


もし指示に従わなければ、お前の自宅や市役所の周辺で、何か“良くないこと”が起きるかもしれないな』


そこには、その女子生徒の正確な自宅住所が明確に添付されていた。発信日時は昨日の夜。


「クラスの……全員の元に、これと同じものが届いていました……」


少女の声は恐怖で細く震え、うつむいたまま誰とも視線を合わせようとしなかった。


もし、彼女やクラスの他の生徒が普通にこの脅迫を学校に上報(報告)したところで、校長や頑固な主任たちがこれほど迅速に、大騒ぎして動いてくれたはずがない。


さらに言えば、この密閉された空間で、生徒の個人情報がこれほど正確に漏洩しているのだ。その情報源の主犯(あるいは共犯)は、高確率でこの学校の「主任たち」の内部にいる。


マリはそこまでをすべて見越し、あえてこの「自作自演の演劇」に打って出たのだ。


「あたくしのOpaオパは、厳格な軍人教育を受けた華族として、常にあたくしに『平民の安危を第一に考えよ』と戒めて(いましめて)おられましたわ」


マリは毅然とした眼差しで、大人たちを冷たく見据えた。


彼らは必死で威厳を保とうとしていたが、その瞳は明らかに動揺し、泳いでいた。


「全員に届いていたなんて……!?」


清水先生が驚愕の声を上げた。しかし今の彼女には、マリの言葉をただ静聴することしかできなかった。何しろ相手のバックにいる何者かは、生徒全員の個人データを完璧に掌握しているのだ。


「このような事態が……我が校で起きるなど、あってはならない……」


一人の主任が低く呟き、手元の学生名簿に視線を走らせた。彼の脳内では、すでにこの醜聞スキャンダルの責任を誰に押し付けるべきかの計算が始まっているのだろう。


「あたくしはただ、自分のやり方でクラスの皆様を守っただけに過ぎませんわ」


「……このような不穏な事態は、大人の仕事だ。この状況を鑑みるに、まずは諸先生方に証拠を収集してもらい、警察へと提出(通報)することにしよう」


校長は最も若い清水先生へと視線を向け、数秒の沈思黙考の後、自らの決定を厳かに告げた。


なんと無力で、事なかれ主義に満ちた言葉だろうか。


しかしそれこそが、マリがこの現段階において勝ち取り得る「最大の勝利」であった。


なぜなら、幕後の主謀者(黒幕)の狙いは、マリという学園のアイドルを「校内の公敵」へと仕立て上げることだったからだ。


もしマリが最初から自分の権力を使って警察を介入させていれば、周囲からは「特権階級の乱用」と映り、完全に孤立していただろう。


誰も声を上げぬまま孤立無援に追い込まれ、退学への片道切符を渡される――それが相手の描いたシナリオだったのだ。


放課後。マリはいつも通り、人通りのない静かな小路を選んで校門を後にした。


すでに習慣となった隠密の下校ルート。何しろ、あの幕後の主謀者が校門の前でどのような罠を仕掛けて待ち構えているか、分かったものではないからだ。


「マリ、大丈夫?」


突如として、前方の路地の影から優子ゆうこが姿を現した。


「ええ、なんとか。今日も戦闘ミッションが必要ですの?」


マリはいつもの微笑を浮かべたが、その声音には隠しきれない疲弊が滲んでいた。


「今日のあなたは、戦場に赴く(おもむく)には向いていないわ。もしあなたが必要とするなら、私から少し手を貸せるけれど」


その時、マリのポケットの中でスマートフォンが激しく振動した。通話ボタンを押すと同時に、スピーカーから爆発的な怒りの声が飛び出してきた。


『――ちょっと! 流石にこれ、いくらなんでもやりすぎでしょ(酷すぎじゃん)!!』


亜記あきからの電話だった。受話器越しでも伝わるほどの猛烈な火薬味(怒り)。元アイドルである彼女こそが、今この瞬間にマリが受けている屈辱と痛みを、誰よりも理解している存在だった。


「亜記、あたくしの元に届いたあの『作品』たちのクオリティ、どう思われます?」


マリが淡々とした調子で問いかけると、亜記は怒りを押し殺すように声を低くした。


『……ぶっちゃけ、どれもあたしたちが昔出したCDの宣伝写真レベルのレタッチ(修整)だよ。光影の繋がり、色温度、肌のコントラストまで完璧に計算されてる。素人が趣味で作ったレベルじゃない……完全に、プロのスタジオの仕業(汚い仕事)だわ』


「やはりそうですわね。あのレベルの人間を動かさなければ、これほど『質の高い、下劣な仕事』はこなせませんもの」


『……マリちゃん、まさかもう、犯人の目星(線索)がついてるわけ?』


亜記が数秒の沈黙の後、探るように訊ねてきた。


「見当がついているというよりは――相手が誰か分かっておきながら、今のあたくしの立場では、直接手を下して引きずり下ろすことができない、と言った方が正しいかしら。ですが、一つだけ確実なことがありますわ。これほどの専門技術リソースを、あのような低俗な社会への誣言デマに惜しみなく費やせる人間は、決して綺麗な存在ではないということ。おそらく……手慣れた慣犯(常犯)ですわね」


『それって……単に金と権力があるってだけじゃなくて、誰かを社会的に抹殺(社会性死亡)させる手法に長けてて、それを楽しんでるようなクズってこと?』


「ええ。正確に言えば、権貴(特権階級)を満足させることで飯を食っている人間ですわ。法律のような生ぬるいルールでは、到底裁くことはできませんのよ、そういう手合いは。彼らの稼ぎ出す富もまた、酷く濁りきっているのでしょうね」


マリは小さく笑った。しかし、その湛藍ディープブルーの瞳の奥は、どこまでも空虚に冷え切っていた。


「どうやら、ここから先あたくしにできるのは、――『お芝居(演技)』だけのようですわ。さながら、あのブルース・ウェインのようにね」


権力という名の巨大な歯車が一度狂って回り始めたとき、それを止める方法はただ一つ。


――それを上回る、さらに巨大な外力(破壊)を正面から衝突させる他ないのだ。

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