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第十六章:罪悪の血統

清晨、マリは自宅の門前に立ち尽くし、石壁にぶちまけられた潮のように赤黒いペンキを凝視していた。

歪んだ、怒りに満ちた漢字の数々が、まるで刃物で刻まれたかのように視界に飛び込んでくる。


――帝国主義の走狗!

――血債血償(血の債務は血で償え)!

――侵略戦争の戦犯!

――人殺し!


言葉のひとつひとつが冷酷な弾丸となり、彼女の胸の最も柔らかい奥深くを正確に撃ち抜いていた。常に冷静自持(沈着冷静)を保ってきたマリだったが、今この瞬間ばかりは、ただ言葉を失って静かに佇む(たたずむ)しかなかった。


「マリ、今日は学校を休むか?」背後から、低く掠れた声が響いた。いつの間にか近づいていた外公(おじい様)の手が、彼女の肩にそっと置かれる。普段は厳格極まるあの昭和の軍人が、今、驚くほど優しい口調で語りかけていた。


「大丈夫ですわ、Opaオパ……あたくし、人の多い場所を歩きますもの」


彼女は拳を固く握りしめた。その眼角(目元)には微かな涙光が揺れていた。


誰の仕業であるかは、火を見るより明らかだった。けれど、一人の学生という立場において、彼女にはこれに対抗するすべがほとんどないのも事実だった。


「すまない……私の過去が、お前を連れ添って(巻き込んで)しまったな。九条くじょうの家名にかけて誓おう――この龍二りゅうじ、必ずや近いうちに、この件にケリをつけてみせる」


祖父は手を上げ、未だ卵殻の混ざった粘り気のあるペンキに触れた。その沈黙の奥底には、旧き時代の武人が抱く、烈火のごとき怒りが燻っていた。


登校路の景色はいつもと変わらず賑やかで、行き交う学生たちも日常のなかにいた。しかしマリの耳に届く笑い声、足音、そして視線は、すべてがひどく見知らぬ、灰色のものへと変貌していた。


理智(頭)では世界は何も変わっていないと分かっていても、直感が彼女に告げていた。


――日常の裏側は、すでに音もなく崩壊しているのだと。


「大変よ、マリちゃん!」


校門をくぐる直前、一人の女子生徒が血相を変えて走ってきて、彼女を遮った。


「どういたしましたの?」マリはいつもの微笑を崩さぬまま、視線を教室の方向へと走らせた。そこにはすでに、彼女の机を取り囲む歪な人だかりができていた。


彼女は深く息を吸い込み、教室へと足を踏み入れ、自らの席へと歩みを進めた。


――ナチス小公主ナチスのプリンセス

――Pの愛用便器(プロデューサー専用便器)!

――AVデビュー予定!


油性マジックで埋め尽くされた机。猥褻わいせつで赤裸々な罵倒の数々から、鼻を突くような不快なインクの臭いが立ち上っている。


「マリ、ちょっと私と一緒に来なさい」教室に入ってきた清水しみず先生が、複雑極まる表情で彼女を見つめた。


「そんな……違う、違うのに……っ」マリは小さく啜り泣き(すすりなき)、大粒の涙が、侮辱の言葉で汚された机の上へとぽつぽつと零れ落ちた。


面談室の中、マリは沈黙を守ったまま、スマートフォンの画面をスクロールしていた。


彼女のSNSアカウントはすでに完全に炎上し(陥落し)、あらゆる罵詈雑言が殺到していた。


日常の写真やアイドル時代の宣材写真が、極めて悪質なAVのパッケージへと合成され、コメント欄にこれでもかと貼り付けられている。


下劣なタイトルが躍るその投稿は驚異的な閲覧数を叩き出し、今もなお拡散され続けていた。


彼女は泣かなかった。怒り狂うこともしなかった。


ただ冷徹に、その合成された画像を一枚一枚チェックしていった。肌の接合面、フィルターの差異、光影のパース。それが素人目には見分けがつかないほど精巧に作られていることを確認すると、彼女はそのすべてのデータを亜記あきの元へと転送した。


彼女は貴族ノビリティだ。普通の女の子のように感情に流されることは許されない。涙は何の解決にもならないし、何より、相手は今、彼女の貴族としての「栄耀プライド」に挑戦しているのだ。ならば、その犯人に自らの行いの代償を支払わせる。それ以外の選択肢はなかった。


「ごめんなさい、ロザリアさん……クラスの生徒たちは皆、誰がやったか知らないって言うの」


清水先生が再び部屋に入ってきた。その手には、教室の防犯カメラの映像をプリントアウトした紙が握られていた。


「構いませんわ、清水先生」


マリは顔を上げ、再びいつもの、お決まりの燦然たる微笑みを浮かべた。


「構わないわけがないでしょう……私、あなたのSNSを見たのよ……」


清水先生の声が、悔しさと悲しみで詰まる。多感な青春時代を生きる少女にとって、これほどの悪意の集中砲火はあまりにも残酷すぎた。


マリは静かに息を吸い込んだ。その瞳の奥に、鋼鉄のような冷たい輝きがひらめく。


「決闘の際、相手の剣尖けんせんがあたくしの頭上を掠めた(かすめた)ことがありましたの。兄様はその時、仰いましたわ。――『頭を下げろ、そしてモードゥハウ(Mordhau:剣刃を握り、柄やガードをハンマーとして叩きつける技法)で相手の脳天を叩き割れ。そうすれば奴らは一日中黙り込む』と」


「小学校の頃、あたくしは人より胸の発育が早くて、足の爪先すら見えないほどでしたの。周囲に随分と嘲笑されましたわ。その時、姉様はこう教えてくださいました。――『美人はね、うつむいちゃダメ。足を上げ、胸を張りなさい』と」


「ですが先生、先ほどの涙は、決して演技(お芝居)ではありませんのよ?」マリは人差し指を唇に軽く当て、声音を和らげた。しかし、その眼差しはどこまでも揺るぎなかった。


――本当に傷つき、涙を流した。けれどそれは、決して敗北を意味しない。


教室へ戻る道すがら、先ほど受けた屈辱が脳裏に蘇り、再び涙が目に焼き付いて溢れそうになる。

壇上で教鞭を執っている教師の視線など意に介さず、彼女は勢いよく教室のドアを開け放った。


「あたくし……絶対に……負けませんわ!!!」


涙を流す少女が教室の入り口に立ち、張り裂けんばかりの声で叫んだ。その声は空気を震わせ、教室中の人間の心を直撃した。


クラスメイトたちは愕然として振り返り、先ほど侮辱の言葉に耐えかねて部屋を飛び出したはずの少女が、今、目を真っ赤に腫らしながらも、極めて力強い足取りで戻ってきた光景を凝視していた。


マリは自席へと戻り、静かに着席すると、溢れる涙を乱暴に拭った。そして、その泣き濡れた瞳で教壇の教師をまっすぐに見つめ、まるで何事も起きなかったかのように授業に耳を傾け始めた。


彼女は知っていた。この教室において「沈黙」とは「共犯」と同義であることを。


とりわけ東洋の社会において、人々は集団的な冷漠(事なかれ主義)に慣れきっている。誰も自ら進んで声を上げようとはしない。


彼女はそっと手を伸ばし、机の上の悪意に満ちた文字をなぞった。簡単には消せそうにない。綺麗にするには相当な時間がかかるだろう。


しかし、彼女は気後れするどころか、むしろその文字の中に残された「痕跡」を探し求めていた。


筆致の乱れ。重なり合う筆跡。多様な色彩。これらの証拠が、マリに明確な答えを提示していた。


――犯人は一人ではない。


――普通の学生は油性マジックの扱いに慣れていないが、その中にひとつだけ、極めて整った文字がある。美術系の部活に所属している者の仕業だ。


――彼らは犯行時、非常に慌てていた。足並みすら揃っていない。


――今朝の時点でまだインクの刺すような臭いが残っていたということは、犯行が行われた時間はそれほど前ではない。


彼女は目を閉じ、教室の中に響くすべての「心音」に耳を澄ませた。


わずかなリズムの変化。それだけで、誰が容疑者であるかが手取るように分かった。推論によって導き出された確証が、犯人の位置をピンポイントで捉える。


キーンコーンカーンコーン――。


チャイムが鳴り、授業が終わった瞬間、マリは静かに立ち上がった。そしてある一列の座席へと向かって歩き出す。その動作はどこまでも優雅で、しかし眼差しは獲物を狙う鷹のそれであった。


彼女は、ある女子生徒の真横で足を止めた。その者の心拍は異常なほど乱れ、呼吸は促迫し、頑なにマリと視線を合わせようとしなかった。


マリは何も言わず、ただそっと、相手の手のひらを優しく包み込んだ。


そしてその手を自らの目の高さまで持ち上げる。窓から差し込む斜光が、生徒の指の腹と、親指と人差し指の付け根(虎口)に付着した、拭いきれていない「ピンク色のインクの汚れ」を鮮明に照らし出した。


教室全体が、水を打ったように静まり返る。


「とても綺麗な字を書かれますのね」マリの口調は軽やかで、まるで午後のティータイムの焼き菓子について語っているかのようだった。しかし、その眼差しは氷のように冷たく、鋭かった。


手を握られた生徒は、振り払う勇気すら湧かず、言葉も出ないまま、ただ顔を紙のように真っ白にしてうつむいていた。


「あたくし、怒ってなどいませんわ。ただ……あたくし、今この瞬間から、政治にまつわるお遊び(ゲーム)が少しばかり嫌いになりましてよ?」マリは不敵に、妖しく微笑んだ。彼女はそっと手を離すと、相手の乱れた袖口を優しく整えてあげた。


そして、スカートの裾を軽やかに揺らしながら、その場を後にした。


昼休み、マリはその女子生徒を人気のない場所へと単独で呼び出した。


「あたくし、本当に泣いちゃいましたのよ? 本当に酷いですわ~うう~、えーんえーん、なんてね?」


彼女は両方の拳を目の端に当て、いかにもお転婆に、嬌気わがままたっぷりに泣き真似をして見せた。先ほどの涙さえ、まるですべてが計算されたパフォーマンスの一部であったかのように。


「……ごめんなさい」相手は頭を垂れ、マリと視線を合わせることすら恐怖していた。


「謝罪ほど安価(安っぽい)なものはありませんわ。あたくしが欲しいのは、――『真相リアル』ですの」マリはそっと相手の肩に手を置いた。その瞬間、掌を通じて明確な震えが伝わってくる。心拍の周波数は完全に雑乱し、罠にかかった小動物そのものだった。


「ごめんなさい……っ」


少女の声はさらに小さくなり、まるで真相をそのまま土の奥深くへと埋め隠してしまおうとしているかのようだった。


「平民の分際で貴族に対してこれほど不遜な挑発を働くなんて、脳の回路が狂っているか、さもなくば――誰かに使嗾しそくされたか、どちらかでしょう?」


マリの語気は優しかったが、その言葉は絹布を切り裂く剃刀のように鋭利だった。


自宅への落書き。学校での羞辱。ネット上での一斉攻撃。


――これらが単なる偶然や、一時的な流行トレンドであるはずがない。


普段は数百人程度のアクセスしかない彼女の個人SNSが、なぜ一夜にして数万件もの罵倒で埋め尽くされ、挙句にはプロ顔負けの高品質な合成画像まで出回るというのか。


単なる烏合の衆がこれほど統制された連携攻勢を発起できるなら、人類はとっくに全宇宙を統治できているはずだ。


「一度だけでいいから、あたくしを信じてごらんなさいな。目の前に、こんなにも愛らしい貴族ノビリティがいますでしょう?」


彼女は相手の青ざめた頬にそっと手を添えた。指先の感触はどこまでも柔らかく、しかしその口調は、拒絶を許さぬ絶対の命令であった。


四目が交錯する。怯える少女の瞳の奥には、無助(無力)と驚恐が浮かび、嵐の中で身をよじる小さな獣のように震えていた。


――マリに、溢れんばかりの慈愛など端から存在しない。


彼女はただ、自分が美しく微笑むその瞬間を愛しているだけなのだ。


もし、明日もこの有象無象どもが面目可憎(醜悪)なままでいるというのなら。その時、彼女の顔に張り付いたその笑顔は、ひどく苦痛に満ちたものへと変わるかもしれない

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