第十二章:あたくしは最期の瞬間まで、笑い続けますわ
「小春……馬鹿なことはやめて……」芸能事務所の屋上。吹き荒れる風の中に佇む亜記は、その少女がゆっくりと、世界の境界線であるかのようにビルの縁へと歩んでいく姿をただ見つめていた。
「ごめんね……みんな、深く嵌まり込みすぎちゃった。あたしにはね、この方法でしか、あんたたちの夢を打ち砕いてあげられないの」
少女は力ない微笑みを浮かべると、次の瞬間、迷わず虚空へと一歩を踏み出した。
当時の亜記には、その言葉の本当の意味がまだ理解できてい難かった。
葬儀が終わり、長い時間が経ってから、彼女は少しずつ理解し始めた――まだ十代そこそこの少女にとって、小春が見てしまった現実は、あまりにも多すぎたのだということを。
「我が社はメンバー間の管理を怠り、内部の不和を察知できなかったことについて、深くお詫び申し上げます」
記者会見の席。黒いスーツに身を包んだ大人たちが、用意された原稿を淡々と読み上げた。それ以降、公式のメンバーリストから静かに数人の名前が消えていった。
彼女たちは弁明の機会すら与えられず、ただそうして夢を追いかける資格を剥奪されたのである。
「自業自得だよ!」当時の亜記は、その大人の説明を盲信していた。
彼女はまだ若すぎて、大人の残酷さも、権力がどのように都合の良い嘘を編み上げていくのかも、何一つ知らなかったのだ。
だが、事態は本当にそれで終わりを告げたのだろうか?
ある日、彼女は誰かがマリの化粧品をロッカーの隅へと隠す現場を偶然目撃した。マリはグループの中で最年少のメンバーだった。
「あの女、本当に作られた態度で鼻につくと思わない? 先輩への敬意もないし、まだ中学生のくせに、あんなに高い化粧品を使ってさ。自分の家が金持ちだって見せびらかしてるわけ?」
「先輩……でも、彼女は……」
亜記の声は小刻みに震えていたが、それ以上の言葉を紡ぐことはできなかった。
彼女はよく覚えていた。オーストリアから来たあの少女が、いつも誰よりも遅くまでダンススタジオに残って練習していたことを。
彼女の引き出しには文字がびっしりと書き込まれたノートが詰め込まれ、その顔にはいつも天真爛漫で愛らしい笑顔が浮かんでいたことを。
しかし、当時の彼女には、その理不尽に対して反論の一言さえ口にする勇気がなかった。
それから間もなくして、ネット上にある音声ファイルが密かに流出した。あるメンバーと上層部の幹部との不倫関係を暴露する内容だった。
写真などの決定的な証拠はなかったものの、その音声だけで該当メンバーのイメージを失墜させるには十分であり、翌日、会社の株価は一気に3パーセントも暴落した。
社内では即座に緊急会議が招集された。
ここに至っては、自分たちの所属するプロジェクトが崩壊の一歩手前にあることは、亜記の目から見ても明らかだった。
彼女は何か行動を起こし、この破滅の流れを食い止めなければならないと考えた。
──今にして思えば、その「他人のために犠牲になる」という信念こそが、彼女を屠殺場へと引かれていく仔羊にしたのだと理解できる。
「亜記、あるマーケティング会社の幹部が君に会いたがっている。もしかしたら……君が私たちの救世主になってくれるかもしれない」
プロデューサーの目は真剣そのもので、その口調は哀願に近いものだった。
その瞬間、どれほど純朴な彼女であっても悟った。自分が何をすべきなのかを。
「おやおや、あたくしにもその救世主様とお目にかからせてくださいな。とても興味がありますわ」
マリは純真な笑みを浮かべ、軽快な調子で割り込んできた。彼女の聴覚は元来非常に鋭く、その場の空気に漂う躊躇いと抑圧をすでに聞き取っていたのだ。
彼女を前にして、プロデューサーは一言も発することができず、最後は苦渋の表情を浮かべて立ち去るしかなかった。
「マリ、あれは破滅を覆すためのチャンスだったんだよ」
「今こそ、あたくしたちの笑顔が必要とされる時ですわ。それに――あたくし、応援してくださる方々を誰一人として裏切りたくありませんの。ファンの方々も、裏方で支えてくださるスタッフの皆様も。ですから、あたくしは最期の瞬間まで、笑い続けますわ」
マリはそう告げると、一枚のメモリーカードを亜記の手へと静かに握らせた。
「あなた、彼女とは仲がよろしいようですわね……。彼女、いつも非常に熱い眼差しであたくしを見つめていましたもの」
その瞬間、亜記は理解した――あの不倫の音声を匿名でネット上に公開したのが、誰であったのかを。
小春はいつも、まるで自分の妹を見るかのように、あの最年少のメンバーを陰から見守っていたのだ。
『今日はダメな日だから、行けない……』
再生された音声ファイルから聞こえてきたのは、小春の震える声だった。背景のノイズからして、会社の控え室のようだった。
亜記は覚えている。その日、小春は生理痛の激痛でステージに上がることができず、控え室で休むように指示されていたのだ。
『これが……最後、なのかな……』
亜記は静かに録音を聴き、指先が白くなるほど拳を強く握り締めたが、その怒りの鉄槌をどこへも振り下ろすことはできなかった。
その日、公演が終わった後、亜記は電車に乗ることもせず、誰からのメッセージにも返信しなかった。
ネオンに照らされた硝子の街路は、まるでステージの残滓(残り火)のようであり、彼女の影を斜めに長く引き伸ばして、孤独と疲弊を色濃く映し出していた。
「漫画の中の英雄たちは皆、悔恨の中から自らの正義を見出す。それがなぜか、分かりますか?」紳士的な声が耳元で響いた。自身の記憶は曖昧だったが、それは酷く若い男の顔だったように思えた。
彼女は足を止め、いつの間にか隣に佇んでいたその男へと視線を向けた。
「スーパーヒーロー?」
その男の――あまりにも従容とし、隙がなく、完璧なタイミングで現れるその佇まいは――亜記に本能的な嫌悪感を抱かせた。
「信仰は知識よりも揺るぎ難く、熱愛は尊重よりも変わり難い。そして、憎悪は嫌悪よりも遥かに永続するものです。かつて、己の方法で世界を救いかけ、同時に世界を滅ぼしかけた者がいました」
男はそう語りながら、ポケットからひときわ鮮やかな翠緑色の宝石を取り出し、彼女の手のひらへとそっと置いた。
「私はただ、絶境の中で歌い踊るあなた方を好む、しがない宝石商に過ぎません。あなた方の燦然たる笑顔は、あるいは本当に世界を救うのかもしれない。たとえその背後にある衝動が、濁った憎悪であろうともね」
夢の中で、彼女は独りきり、砕けた瓦礫と血溜まりを踏み締めながら、学んだこともない武器を廃墟の上で振るっていた。
彼女はそれらを、神から与えられた自身への審判だと捉えていた。
もしあの日、自分が小春の手を掴んで引き留めていたら――すべては、変わっていたのだろうか?
いや、変わりはしない。なぜなら、自分にできたことは、最期の瞬間まで笑い続け、彼女の遺した感情をすべて引き受けることだけだったのだから。
彼女たちの所属していたアイドルプロジェクトは、最終的に解散を余儀なくされた。核心的な理由は、彼女自身が一番よく知っていた。
悪夢は罰ではない。自分が「選ばれた者」であることを証明するための試練なのだ。
彼女は戦場へと足を踏み入れ、引き金を引いた――人間の名において異形を屠り、正義的名において邪悪を清算するために。
「あんた、誰?」亜記は中年の男の頭部に向けて、冷たく銃口を突きつけていた。
しかし、その眼前に突如としてもう一人の少女が現れた。金髪碧眼、純白のワンピースを身に纏い、薄紗のような白いショールを羽織ったその姿は、まるで童話の世界から抜け出してきたかのようだった。
外見とは裏腹に、その瞳は一切の感情を削ぎ落とされたように冷徹であり、さながら精巧な機械のようでもあった。
「アリス・ワンダー(夢迴靈葩)。あなたの先輩に当たる存在よ」彼女は亜記を見つめ、極めて感情の起伏に乏しい声調で告げた。
「この世界が直面している危機は、あなたが想像しているよりも遥かに過酷よ」
眼前に佇む少女は、自身を遥かに凌駕する圧倒的な魔力を放っており、亜記の肉体は本能的な恐怖を覚えた。
「へえ、じゃあ先輩。こんなところで何しに来たわけ?」亜記は冷ややかに言い放つと同時に、躊躇なく引き金を引いた。
刹那、激しい銃声とともに、男の鮮血が彼女の頬へと容赦なく飛び散った。
「あなたのヒロイズムを否定するつもりはないわ。けれど、魔法少女として、あなたは些か行き過ぎている」
「行き過ぎ? あたしはただ、この悪党どもを制裁してるだけ。法律で裁けないクズなら、あたしが裁く。あたしは、そういう英雄にならなきゃいけないんだよ」
「あなたが英雄として白日の下に晒されたその瞬間こそが、――【魔女の鉄槌】が編纂される時よ」
彼女は一切の感情を挟まない、機械的な音調でそう言い残した。
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