ep.93 初心な妻
◇◇◇
「リト。一緒に寝よう」
夜――毛布に包まろうとすると、チェーザマリーが私の寝室を訪ねてきた。
「え!? 一緒に寝るんですか!?」
「夫婦だし、そりゃそうだろ? まだキスもさせてくれないけど……。添い寝だけさせてくれないか?」
――えー! ど……どうしよう!
「恥ずかしくてキスできないんだろ? 心の準備ができるまでしないよ。抱きしめるだけにするから、添い寝だけ許してくれ」
チェーザマリーは微笑んだ。
彼の全身から溢れ出る余裕に、私は思考がフリーズした。
「……それは、無理です!」
「え?」
「添い寝は早すぎます……! 出て行ってください!」
私は真っ赤になって、チェーザマリーに枕を投げつけた。
◇◇◇
「ってことがありまして。チェーザマリーは笑いながら出ていきました。昨日も別々の寝室で寝てます」
「えー! 夫を追い出しちゃったの!」
「お前、マリアンヌの孫か!? 奥手すぎるな!?」
「ピュアすぎるわ。誰に似たのかしら?」
「おいおい。ファーストキスもまだなのか?」
魔王はため息をつくと、艶めいた笑みを浮かべた。
「わらわが上手いキスの仕方を教えてやろう。プレッシャーキスとディープキス、どっちがいい?」
私は今度こそ、飲んでいた紅茶を吹き出した。
「ちょっと魔王様! シャイなリトにディープキスは早すぎますって。まずは軽いキスからでしょう?」
「それもそうだな。リト公爵夫人はキスしたくないのか?」
私は真っ赤になって言った。
「……してみたいです」
「キャー! 可愛い! 良いじゃない! チェーザマリー公爵、喜ぶわよ!」
マリアンヌははしゃいだ声を上げた。
魔王は私をぴっと指差した。
「それ、そのまま言うといいぞ。『あなたとキスしたい』ってな。ストレートに言うとキスの成功率上がるぞ」
――成功率……!? 私から言うの!?
「魔王様ってば、経験豊富! リトに手取り足取り教えてあげてください」
「もちろんだ。わらわに任せとけ」
――この二人からは、逃げられそうにないわ……!
私は耳まで赤くなりながら、ぎこちなく笑った。
二人は爛々と瞳を輝かせた。
◇◇◇
「あのね、お願いがあるんだけど……」
その夜、私はチェーザマリーの部屋を訪れた。一緒にお茶を飲もうと誘ったのだ。
二人でソファに座って、カモミールティーを飲んでいた。
「お願い? なんだ? 欲しいものでもあるのか? ワルシャワ家の財産なら自由に使って構わないよ。今度一緒に買いに行こうか?」
「違うの……! えっと……」
私はもじもじしながら、俯いてティーカップを見つめた。
ティーカップからは、ほのかにカモミールの香りが漂っている。
「いきなりなんだけど、キスしてみたいんだよね」
――うわあ! 言ってしまった!
私は赤くなりながらチェーザマリーを見上げた。
「嬉しいよ」
チェーザマリーは驚くでもなく、少しだけ微笑んだ。
そのまま真っ直ぐ見つめられて、私は目を逸らした。
「えっと……恥ずかしいな……」
抱き寄せられると、私はさらに赤くなった。
「お前は可愛いな」
チェーザマリーは少しだけ目を伏せ、小さく息をついた。
その穏やかな表情の奥に、今まで見たことのない熱が宿っている気がした。
――もしかして、チェーザマリーもしたかったのかな?
「でも、本当にいいんだな?」
「うん……。経験してみたい」
彼の大きな手が、私の後頭部に回った。
温もりに包まれながら、私はゆっくり目を閉じた。
彼の顔が少しずつ近づいてくる。息が触れ合うほど近くなり、やがて、唇が優しく重なった。
――唇って、こんなに柔らかいんだ。
チェーザマリーはすぐに唇を離した。
「……どうだ?」
私は何も答えられず、ぼんやりと見つめた。そんな私を見て、チェーザマリーはくすりと笑った。
「もう一回だけさせてくれ。リト」
耳元でそう囁くと、もう一度だけ優しく唇を重ねる。今度は少しだけ長かった。
彼はゆっくりと離れると、額が触れそうな距離で私を見つめ、満ち足りたように微笑んだ。
「……良かったか?」
「うん……」
頬が熱くて、とても目を見られない。私は慌てて俯いた。
(好きな人とキスするって……こんなに嬉しいんだ)
心臓がばくばくして、今にも止まってしまいそうだ。
チェーザマリーは何も言わず、そっと抱き寄しめ直してくれた。
――どうしよう……。恥ずかしい……。自分からキスできるようになるのは、来世かも……。
◇◇◇
五月五日。私とチェーザマリーは新婚旅行でエリスヤを訪れた。
エリスヤはヴァンパイアの国の有名な観光地だ。王都から魔道で一時間で行ける。
自然が豊かで、避暑地としても有名であり、エリスヤ東部にはヴァンパイア貴族たちの別荘がいくつも建っている。
エリスヤはソーヤ領地の西部に属しており、私とチェーザマリーは、まずはソーヤ公爵夫妻に会いに行った。
私たちが新婚旅行に来ることを知った夫妻から、アフタヌーンティーに招待されていたからだ。
「伝説のカップルが我が家に来てくださるなんて、嬉しいわ! エリスヤで何か困ったことがあったら、いつでも連絡してくださいね」
ソーヤ公爵夫妻は私たちを大歓迎してくれた。
美味しい紅茶やサンドウィッチやケーキを頂くと、私とチェーザマリーはエリスヤの別荘に馬車で向かった。
「わあ! 赤レンガの別荘ですか! 素敵ですね」
別荘を一目見た瞬間に、気に入った。
はしゃぐ私を見て、チェーザマリーはにこにこしていた。
◇◇◇
「ようこそいらっしゃいました。何かあれば、なんでもお申し付けくださいませ」
別荘の管理人夫妻は私たちを恭しく出迎えてくれた。
白檀でできた螺旋階段で三階まで上がり、管理人の奥さんに寝室に案内してもらうと、そこには虹色の薔薇が百本飾られていた。
「ええ!? 何これ!? 虹色の薔薇!」
「なんだこれは!?」
私とチェーザマリーが驚くと、奥さんが私に手紙を差し出した。
封蝋には、悪魔の王家の印章が使われていた。
私は急いで開封して、手紙を読んだ。差し出し人は悪魔の魔王様だ。
~リト=ファル=ワルシャワへ~
新婚旅行、楽しんで来いよ。虹色の薔薇はわらわからの贈り物だ。古代魔法で染めた。
二人の寝室に飾るといい。ファーストキスが上手くいったなら、新妻なんだし、次は添い寝にチャレンジしてみたらどうだ?
読み終わると、私は真っ赤になった。
「リト。赤くなってどうしたんだ? 手紙にはなんて書かれてた?」
チェーザマリーが不思議そうな顔で聞いてきた。
「えっと……。虹色の薔薇は悪魔の魔王様からの贈り物です……」
――添い寝するしかないかも……! 魔王様から虹色の薔薇で応援してもらって、添い寝できませんでしたなんて報告できないよー!
◇◇◇
夕食を食べ終わると、私は勇気を出して切り出した。
「あの……! 今日は、添い寝してみたいです!」
一瞬の間の後、チェーザマリーは太陽のような笑みを浮かべた。
「嬉しいよ。ありがとう」
「うっ。えっと。はい」
愛しそうに私を見つめる眼差しの奥に、彼が抑えている男性らしい欲求を感じた。私は思わず視線を逸らした。
「でも、添い寝だけにしてくださいね。それ以上をしてきたら、悪魔の魔王様に言いつけます」
「そこで権威をかましてくるのか? いっそ誘惑に負けて締められてみたいな」
チェーザマリーは少しだけ首を傾げて笑った。冗談めかした言い方なのに、その目は本気みたいに見える。
「何言ってるんですか! もう!」
「冗談だよ。お前の心の準備ができるまでしないよ」
――チェーザマリーって、紳士かも……。
「じゃあ、入浴が終わったら、寝室でお待ちしてます」
私は視線を逸らしながら言った。
彼がじっと私を見つめ、目を細めたことには、気づかなかった。




