ep.126 発症
「本当かい? 大丈夫? 風邪かな? 風邪薬があるから、持ってこようか?」
ハノン公爵が心配そうに聞くと、セツナは頷いた。
「はい。疲れが出たのかも。森へは皆で行ってください」
「分かったよ。君、薬棚から風邪薬を持ってきてくれ。あと、念の為、医者も呼んでくれないか?」
ハノン公爵が近くに控えていた使用人に命じると、使用人はすぐに食堂から出ていった。
「部屋で寝てな。……そういえば、あんまり食べてなくないか?」
ハノン公爵はセツナの皿を見て、心配そうな顔をした。皿の上の料理は半分ほどしか減っていなかった。
「あんまり食欲なくて……」
「そうか。無理して食べなくていいよ。……セツナの分だけ下げてやってくれ」
ハノン公爵が命じると、使用人がすぐに皿を片付けた。
結局、セツナはアヤナお姉さまに付き添われて部屋に戻った。
魔油の森へは、僕とアヤナお姉さまとギョクリンお兄さまとハノン公爵で行くことになった。
◇◇◇
「それじゃあ行こうか」
僕とアヤナお姉さまとギョクリンお兄さまは支度を済ませて、玄関扉を開けようとした。
――魔油の森、楽しみー!
ワクワクしながら外に出ようとしたときだ。
「ハノン公爵! お待ちください!」
螺旋階段を、白衣姿の医師が駆け下りて来た。
医師は玄関ホールに下りると、ハノン公爵に駆け寄った。
「セツナ公爵令嬢の熱が、急に上がってきたのです! 四十度あります」
「なんだって!?」
ハノン公爵は目を見開くと、厳しい声で言った。
「魔油の森に行くのは止めよう。セツナが心配だ。それで、風邪なのか?」
「ええ。症状は今のところ、だるさと食欲減退と発熱です。魔力の乱れ方からして、おそらく、白風邪だと思われます」
「あの、白風邪ってなんですか?」
僕が聞くと、医師が少し青ざめた。
「グリフィンの国でのみ発症する風邪です。グリフィンなら罹らないのですが……。一回かかると、三日は高熱が続きます」
――ええ!? セツナ、大丈夫?
「セツナ、大丈夫? 様子を見に行っていい?」
「僕も様子を見に行きたいです」
アヤナお姉さまとギョクリンお兄さまが言うと、ハノン公爵は首を振った。
「移るといけない。様子は俺が見に行くよ。俺はグリフィンだから罹らないし」
「ええ。そうしましょう。念の為、侍女も部屋から出しましょう。看病は医師の私がやりますから。
発症したのが今朝なので、九日の朝には熱が下がるはずです」
◇◇◇
セツナは医師の付き添いで看病されることになった。
ハノン公爵は頻繁にセツナを見に行って、アヤナお姉さまとギョクリンお兄さまに容態を伝えていた。
僕は心からセツナを心配したが、できることは何もなかった。
そして、八月九日の朝になった。
――これでやっと、セツナの熱が下がるんじゃないかな?
少しだけ明るい気分で食堂に行くと、そこには誰もいなかった。
――あれ? いつもはギョクリンお兄さまが一番乗りなのに、どうしたんだろう?
僕が席に着くと、使用人がグラスにミルクを注いでくれた。
それを飲んで、皆が揃うのを待つことにした。
けれど、十分経っても三人は来なかった。
「あの……アヤナお姉さまとギョクリンお兄さまとハノン公爵はまだですか?」
使用人は不思議そうな顔をして、首を傾げた。
「私にも分からないのですが……。時間になってもいらっしゃらないなんて珍しいですね。念の為、確認して参ります」
使用人は恭しく一礼すると、食堂の扉を開けようとノブに手をかけた。その瞬間、扉が急に開いて、青い顔の執事が入室してきた。
執事は使用人に小声で耳打ちした。すると、使用人の顔が一瞬で青ざめた。
すぐに執事は退出し、使用人は僕の側に戻って来て告げた。
「ハノン公爵とアヤナ公爵夫人とギョクリン様はいらっしゃいません。先に一人で食べるようにとのことです」
「え? なんでですか?」
「……セツナ公爵令嬢は、白風邪ではありません。グリフィンマラリアに罹ってしまったのです」
――グリフィンマラリアだって!?
◇◇◇
グリフィンマラリアは、グリフィンの国の蚊にのみ生息する寄生虫だ。
蚊に血を吸われることで、体内にグリフィンマラリアが侵入する。
グリフィンマラリアは血管の中で爆発的に増え、魔力や心臓に悪影響を及ぼす。
魔族は、魔力が体内を常に循環している。グリフィンマラリアは魔力の生成・循環を破壊する。
魔力が生成・循環されない場合、魔族は死んでしまう。
つまり、グリフィンマラリアは魔族を死に追いやる危険な寄生虫だ。
ただし、グリフィンと成人した外国人であれば、グリフィンマラリアに侵されることはない。
彼らは魔力が安定しているので、グリフィンマラリアは繁殖できずに体内で死んでしまうのだ。
グリフィンマラリアは魔力が安定した体内では増殖できない。
グリフィン以外の子どもだけが、罹る病と言っていいだろう。
グリフィンの国に渡航する際は、グリフィンマラリアに対する事前の予防接種をすることが義務つけられている。
当然、僕とセツナは予防接種を受けている。しかし、一度マラリアに罹れば、治る保証はない。
「セツナは……セツナは大丈夫なんですか!?」
僕は椅子から立ち上がり、使用人に詰め寄った。
「医師が薬を処方して、治癒魔法で治療しております」
「白風邪じゃなかったんですか!?」
「グリフィンマラリアと白風邪の初期症状は酷似しています。
しかも、マラリアなのか白風邪なのかは、刺されてから四日目の朝……つまり熱が下がらなかった段階で初めてはっきり分かるのです。
もちろん、専用の器具を使えば発症から四日経っていなくてもマラリアだと診断できます。
セツナ様が蚊に刺されたと聞いて、器具は使いました。けれど、陰性でした」
「なんだって!?」
「マラリア陽性でも、陰性診断になることは珍しくありません。現状の医学では、完璧な診断ができません」
「そんな! グリフィンマラリアは治療が遅れれば遅れるほど、死亡率が高まります!
セツナは大丈夫ですか!? 刺されてから、今日が四日目ですよ!?」
――何時間経った!?
使用人は言いづらそうに続けた。
「……予防接種を受けられた場合、治る確率は三十%ほどかと。……致死率が高い病ですから」
――セツナ!
頭の中に、チェーザレお兄さまと呼んでくれるセツナの笑顔が思い浮かんだ。
僕は気づいたら、セツナの部屋に向かって走り出していた。
◇◇◇
「セツナ! 大丈夫か!」
僕は扉をノックすることも忘れて、セツナの部屋に駆け込んだ。
セツナが眠るベッドの側には、医師とハノン公爵とアヤナお姉さまとギョクリンお兄さまが立っていた。
全員が、心配そうな眼差しでセツナを見つめていた。
医師は両手をセツナの胸元に当て、治癒魔法で治療をしていた。その両手から、青白い光が漏れている。
「セツナは大丈夫ですか!」
僕が医師に駆け寄ると、ハノン公爵が僕の肩を掴んで引き剥がした。
「医師は治療に集中している。聞きたいことがあるなら俺に聞きな」
僕は礼儀もわすれて、ハノン公爵の胸元を掴んだ。
「今はどういう状況ですか!? 治るんですか!?」
ハノン公爵は苦しそうな顔をした。
「分からない。刺されてから、すでに三日も経ってしまったからね。本人の抵抗力と、医師の腕次第だ」
「そんな……」
ハノン公爵は、安心させるように僕の肩を叩いた。
「安心しなさい。さっき、マラリア研究所があるカラスア領主へ遣いのグリフィンを飛ばした。
領主に頼んだから、専門医と研究者を派遣してくれるよ。今日の昼頃にはこの屋敷に到着するだろう」
――良かった……! それなら、セツナは助かるかもしれない!
「この辺りの蚊はグリフィンマラリアの保有率が低いんだが……。発症するとは、セツナは運が悪かったね」
――は? 運が悪いだって!? 命の危機だぞ! 運が悪いの一言で片付けんな!
込み上げて来た激情を、僕は飲み込んだ。
蚊に怒っても仕方ない。それに、ハノン公爵はこんなに良くしてくれているではないか。
「ワルシャワ夫妻にもセツナの容態について手紙をしたためたよ。
グリフィンは高速飛行できるからね。昼過ぎには手紙を咥えたグリフィンがヴァンパイアの国に着くよ。すぐに父上と母上も駆けつけてくれるだろう」
「お父さまとお母さまが!?」
「ああ。ただ、ヴァンパイアの国からグリフィンの国まで渡航すると、二日かかる。この屋敷に到着するのは十一日の夕方くらいじゃないかな?」
――それまで、セツナはもつか!? 治るか!?
僕は掴んでいた両手を離した。
ハノン公爵は優しく微笑んでくれた。
「ハノン公爵! 何から何までありがとうございます! 感謝してもしきれません!」
ギョクリンお兄さまは深々と頭を下げた。
アヤナお姉さまは瞳を潤ませた。
「ハノン……本当にありがとう!」
ハノン公爵は安心させるようにアヤナお姉さまの肩を抱き寄せた。
「大丈夫だよ。きっと助かるよ。……それにしても、虫よけをつけてたのに刺されるとは……。俺が虹色向日葵園なんて勧めなきゃよかったかもしれない」
「あなたは悪くないわ! 蚊なんてどうしようもできないもの! セツナ! ああ! どうしよう!」
「落ちついて。俺たちにできることは限られてる。後は医師に任せよう」
僕はセツナを見つめた。
セツナは目を閉じたまま、苦しそうに息をしている。その頬は赤い。きっと、高熱に苦しんでいるのだろう。
――セツナ! 頼む! 死なないでくれ!




