ep.125 虫の危険
「なに。『ハノン公爵は義妹のセツナ公爵令嬢をあまり快く思っていないようだ。
彼女は素晴らしいピアノの才能があるが、招待は控えた方がいいかもな。
昨日話してみたんだが、退屈な令嬢だった』
というようなことをオブラートに包んで、大臣たちに言うだけさ。もちろん、親切な忠告の振りをして。どうだ? 気に入ったか?」
「ありがとうございます。魔王様からそんな烙印を押されたら、俺なら生きていけませんよ」
俺が笑うと、魔王も笑った。
「そういえば今度、チェーザマリー宰相が我が国に来てくれるんだよ。そのときに彼に言おうかな?
『セツナ公爵令嬢はハノン公爵から厚遇されて直々に王城を案内されたのに、古典の一つも覚えていない。しかも、ハノンに失礼なことを言ったそうじゃないか? あまり感じが良くないね。令嬢教育はしっかりなさった方が良いのでは』と」
「下げるのはセツナだけにしてくださいよ。姉たちは素晴らしいですからね」
「もちろんだよ。そうだ、チェーザマリー宰相と話すときは、アヤナ公爵夫人を絶賛しておこうか?
魔王の俺が彼女を高く評価していると分かれば、チェーザマリーはアヤナをさらに重宝するだろうね」
「ありがとうございます。魔王様は頼もしい限りですよ」
「お安い御用さ。我が国の序列一位ハノン公爵の伴侶がヴァンパイア序列一位公爵になるなんて最高だ。
グリフィンにも利益があるよ。アヤナ=ファル=ワルシャワとは仲を深めて損ないな」
「アヤナは素晴らしいレディですよ。……ところで、魔王様が素晴らしいご配慮をされる前に、セツナは消えてしまうかもしれません」
魔王は可笑しそうに笑うと、クッキーの最後の一枚を食べた。
「おいおい。また虫の私的利用か? 仕方ない。目を瞑ってやろう。ところで、チェーザレ令息の方はどう思ってるんだ? わざわざ王城古典詠唱会に呼んでやったじゃないか?」
「あれもうざいですね。いずれ消すので、詠唱会なりなんなり好きに行けばいいですよ」
◇◇◇
「チェーザレお兄さま! この麦わら帽子、可愛くない? お母さまに買ってもらったの」
「いいんじゃないか? 日焼けしないようにするんだぞ」
「うん! ちゃんと日焼け止めを塗ったよ! ピクニック、楽しみだね!」
「それじゃあ行きましょうか」
アヤナお姉さまがセツナの手を引いたときだった。
「アヤナ! ちょっと待って!」
上から声が聞こえて、僕は近くの螺旋階段を見上げた。
バスケットを持ったハノン公爵が階段を下りてくるところだった。
玄関ホールに下りると、ハノン公爵はバスケットをアヤナお姉さまに差し出した。
「はいこれ。追加でサンドウィッチとお菓子を作ってもらったんだ。皆で食べて」
「ありがとう、ハノン」
アヤナお姉さまが右手で受け取ろうとすると、ギョクリンお兄さまがさっと手を差し出した。
「僕が持つよ、アヤナ」
「まあ、いいの? ギョクリンだけ荷物持ちすぎじゃない?」
「うん。荷物持ちは僕がしたいんだ。アヤナはセツナの手を引いてあげなよ」
「分かったわ。ありがと」
アヤナお姉さまはギョクリンお兄さまに微笑むと、ハノン公爵にも微笑んだ。
「ありがと、ハノン。楽しいピクニックになりそうだわ」
「ああ。行ってらっしゃい。……そうだ!」
ハノン公爵はポケットから小瓶を取り出した。
「はいこれ。七色向日葵園は蚊が多いからね。虫よけクリームだよ。皆で使って。それか、もう虫よけはつけてる?」
「ありがとう。つけてるけど、念の為持っていくわ」
お姉さまは小瓶を受け取ると、ポケットにしまった。
「こまめに塗り直すと良いよ。じゃあ、行ってらっしゃい」
ハノン公爵に手を振られて、僕たちは手を振り返した。
玄関扉を開けて外に出ると、強い日差しに頭が痛くなった。
夏でも涼しいグリフィンの国の割には、今日は少し暑い。
「あの、ギョクリンお兄さま! 僕も荷物を持ちます!」
「いいよいいよ。荷物持ちは年長者の役目さ」
僕が申し出ると、ギョクリンお兄さまはレジャーシートとバスケットを抱えたまま、爽やかに笑った。
――かっこよすぎるな……。
◇◇◇
旅行三日目、八月五日――僕たちは七色向日葵園にピクニックに行くことになった。
七色向日葵園は、カノン邸からほど近いところにある広大な植物園だ。
休日は芝生でピクニックをしたい親子でごった返す。
しかし、ハノン公爵が僕たちのために、七色向日葵園を貸し切ってくれた。
今日はアヤナお姉さまとギョクリンお兄さまとセツナと僕で、思う存分楽しめる。
けれど、ハノン公爵だけは不参加だ。
理由は、話すことに疲れたから。今日はできるだけ話さないで、無言で休みたいらしい。
朝食も、僕たちとは食べずにアヤナお姉さまとだけ食べていた。
◇◇◇
「わあ! 真っ赤な向日葵だ! 大きい!」
「こっちは水色の向日葵だよ。青空みたいだね」
僕たちは向日葵小道を並んで歩いていた。
小道の両脇には、バリエーション豊かな色彩の向日葵の花が咲き誇り、目を楽しませてくれる。
「向日葵でできた虹の中を歩いてるみたーい!」
セツナははしゃぎまくっていた。やがて、芝生が広がっている開放的な区間にたどり着いた。
「そろそろお昼にしようか」
ギョクリンお兄さまの提案で、僕たちはランチタイムにすることにした。
芝生の上にレジャーシートを広げ、バスケットからお弁当を取り出してならべた。
「いただきまーす! わあ! このサンドウィッチおいしい!」
「良かったわね、セツナ。ハノンに後でお礼を言うのよ。あっ! 口にマヨネーズがついてるわよ」
楽しくお喋りしていると、あっという間にお弁当箱は空になった。
「デザートにしましょう」
お姉さまが白檀でできた弁当箱を開けると、中にはスコーンが入っていた。
「このスコーン、甘いね! さくらんぼが入ってるよ!」
セツナはご機嫌でスコーンを頬張っていた。しかし、半分ほど食べ終えたときだ。
「アヤナお姉さま! 痒い!」
セツナが腕を掻きむしり出した。
「どうしたの?」
アヤナお姉さまが心配そうに聞くと、セツナは右腕を差し出した。
見ると、肘の近くが赤くなっていた。
「蚊に刺されたんじゃないか? 虫刺され薬があるよ。掻くともっと腫れるからね。我慢して」
ギョクリンお兄さまはすぐにカバンから軟膏を取り出して、セツナの腕に塗ってあげた。
「蚊が多いって、本当なのね。虫よけを塗り直しておきましょうか」
アヤナお姉さまは、ポケットから小瓶を取り出した。ハノン公爵がくれたやつだ。
アヤナお姉さまはセツナの腕と足と首に丁寧に虫よけを塗ってあげると、僕に小瓶を手渡した。
「はい、チェーザレ。あなたも塗っておきなさい」
「分かりました」
僕は塗り終わると、ギョクリンお兄さまに小瓶を手渡した。ギョクリンお兄さまは塗り終わると、アヤナお姉さまに小瓶を手渡した。
「ほら、アヤナも塗っときなよ。痒いって地味に辛いからね」
「分かったわ。あら、ローズマリーの良い香りがするわ」
僕はクリームを塗った右手を鼻先に近づけて、くんくん嗅いでみた。
ほのかに、ローズマリーの清涼な香りがした。
虫よけを塗り終わり、お弁当を食べ終わると、僕たちは散策を再開した。
向日葵園にはパンジーや薔薇も咲いていて、多いに目を楽しませてくれた。
ハノン公爵の虫よけクリームのおかげか、誰も蚊に刺されることはなかった。
◇◇◇
ピクニックの翌日、旅行四日目、八月六日――。
僕たちは朝から豪華な朝食を食べていた。
グリフィンの国は島国なので、魚や貝が豊富にとれるのだ。
鯛めし、マグロの刺身、ウニ、カツオのタタキ。テーブルの上には海の幸がずらりと並んでいた。
――朝からとれたての魚が食べられるなんて、最高すぎる!
皿いっぱいの蛸の唐揚げを食べ終えたときだった。
ハノン公爵が笑顔で言った。
「今日は魔油の森の見学に行ってみないかい?」
「そんな貴重な森に!? いいんですか?」
ギョクリンお兄さまが驚いて聞き返すと、ハノン公爵は頷いた。
「もちろんだよ。アヤナもギョクリンもセツナもチェーザレも来ると良い。採りたての魔油を舐めてみないかい? おいしいよ?」
――魔油の森!? まじで!?
魔油は木から採れるものと、地下から採れるものの二種類がある。
魔油が採れる木はマーボクと呼ばれている。マーボクから採れる魔油はごく少量なので、魔油の中でも高級品だ。
魔油の森は、国と領主が厳重に管理しているので、関係者以外は簡単に立ち入りできない。
当然、採れたての魔油を舐めるなんて体験は、普通ならありえない。
「ありがとうございます! 行ってみたいです!」
僕が前のめりになって言うと、アヤナお姉さまが感激した顔をした。
「こんなに良くしてくれるなんて……本当にありがとう!」
ギョクリンお兄さまは恐縮した顔で頭を下げた。
「ありがとうございます。ぜひ行かせてください」
「もちろん良いよ。午後に行こうか? 動きやすい服に着替えて、虫よけだけしっかりつけといて」
ハノン公爵が気前よく笑うと、アヤナお姉さまが少し厳しい声で言った。
「セツナもちゃんとお礼を言いなさい。……あれ、セツナ? どうしたの?」
セツナははっとした顔をした。
「えっ……ああ。何?」
「聞いてなかったの? ハノンが魔油の森に連れて行ってくれるって」
「……私、行きたくない。なんか、頭がぼーっとするの」
セツナが俯くと、隣に座っていたギョクリンお兄さまが心配そうに顔を覗きこんだ。
「どうしたんだい? セツナ? ちょっと触るよ」
ギョクリンお兄さまはセツナの額に手を当てると、驚いた顔をした。
「少し熱いな。熱があるんじゃないかい?」




