龍の苑。
華国皇帝、現在の龍帝はその名を華龍煌という。
もちろんその諱を直接口にするなど恐れ多く、人々から主上、帝、龍帝、と、呼ばれていた。
龍帝が住まい、まつりごとを行う居城、この国の首都龍安において天に最も近い場所とされるここ、紫微城。
その城の奥、内包される形で建てられている後宮は、その門のすぐ先に玉后宮があり、誰もがこの宮殿を通ることでしか後宮の内部に入ることはできなかった。
皇后が住まう場所として整えられた玉后宮は広く、後宮の維持管理を賄う内務府も、宦官らが詰める直房もその側面に併設されていたし、多くの中級妃や下級妃にもこの玉后宮の建物内にそれぞれー房が与えられていた。
後宮での様々な催しなどももちろん、この宮殿は他の妃の宮殿とは違う、後宮という場そのものを司る本丸として、表の紫微殿に対しての裏の玉后殿とでもいうべき場所だったのだ。
華やかな朱の柱、磨き抜かれた黒曜の床は、この宮殿がいかに国の財を集め建てられたかを象徴していた。
◇◇◇
すでに日は暮れ、しかしまだ宮道には灯りが灯らぬ、そんな昼夜の端境。
夜の帳がおりたそんな後宮の白路を、音もなく進む一台の輿。色鮮やかな朱塗りではなく艶のある黒漆で彩られたそれは、外からは中を垣間見ることも叶わなかった。
身分の高いものであったら朱塗りの輿を使う。
このような黒塗りの、それも暖轎を使うものなど、何か罪を冒した事で連行される妃、のような、不名誉な場面を想起されかねない。
それでも、いや、それであるから。
身分を隠す為にはこういった輿での移動も仕方がなかった。
「綺麗だな、小凛」
目の前でそう呟く唯月に。
「冗談はやめてください。私はこれからあなた様付きの女官、『小凛』を演じるのです。あまりおからかいになられると、せっかくのお化粧が落ちてしまいます……」
心臓はばくばく脈を打っている。
顔が真っ赤になっているのがわかるほど、火照って熱い。
このままじゃ汗でお化粧が落ちちゃう。
嬉しいのに、素直になれない。
(もう、この気持ち、どこにやったらいいの?)
いまは落ち着かなきゃいけないのに。だめ。
もうまっすぐに彼を見ることができなくて、視線を斜め下に落とした。
◇◇◇
花蓉はお付きの女官二人に寄り添われながら、玉后宮の廊下を大広間に向かって歩いていた。
今日は広間で異国の歌劇が演じられることとなっていた。
女性しか入ることを許されないこの後宮において、大衆の演劇が催されることは滅多にないことであったから、普段楽しみの少ない妃たちのほぼすべてが今夜はここに集まってきている。
「女性だけの歌劇なのですって」
「嬉しいわ。ここにきてから演劇にもとんと縁がなくなってしまっていましたから」
中級妃にしろ、下級妃にしろ、妃としてこの後宮に入ったものは里帰りなども許されることもなく、生涯をこの後宮で過ごすこととなる。
そんな彼女らにとっても、今夜は特別な日だったのだ。
まして、今夜は龍帝もお越しになるという。
龍帝だけでなく、そのご子息、皇太子も特別に観覧席からお顔をみせるかもしれないという噂もあって、一眼見られたらと女官たちもみな興奮を隠せない様子だった。
(そうね。みな、籠の鳥だもの)
望んでここに入った者もいるかもしれない。
けれど、例えそうだとしても。
ここで、この後宮で暮らすということは、多かれ少なかれ自分自身の人生を犠牲にしなくては成り立たなかった。
花蓉にしても、そうだ。
柳家の姫、として生きてきたころは小蘭と呼ばれていた。
しかし、この後宮に足を踏み入れたあの日から、花蓉という名前が彼女を表す唯一の名となった。
(先代の花蓉様は、わたくしの叔母さまでしたから……)
柳家として、常に後宮に妃を輩出するべき。
そういった家の都合だ。
父の妹であった先代が不幸にも早死にしてしまったから、その代わりにと入内した柳蘭。
それもこれも、せっかく龍帝の子を身ごもりながら、その血に耐えきれず命を落とした先代花蓉妃のせい。
自分こそが皇后にふさわしいと豪語し、その財にあかせて宝物を集め、後宮でも玉后天仙妃をもしのぐほどの勢力を誇っていた先代花蓉妃は、自分の子こそ皇太子にふさわしいと言い放っていた彼女は、それを実現させる前にこの世を去った。
結局。
柳家の野心のために7歳で入内した花蓉。
龍帝との年の差や、そのあまりにも幼い年齢であったがためか、8年経ったいまでも花蓉宮への御渡りは無い。
(わたくしは子には恵まれることは無いかもしれない……)
それは、彼女の諦め。
人生全てを諦めるしか、もう生きて行くこともできなかったから。
◇◇◇
上級妃には特別な観覧席が用意されていた。
花蓉には、玉后妃の一段下ではあるが、特等席とでも呼べるほどの貴賓席があてがわれていた。
龍帝との位置も近く、お顔を拝謁することもできる席。
花蓉が席についた時には、まだ上席の方達はいらっしゃらなかったけれど。
(もうじき、龍帝陛下がいらっしゃる……)
そう思うと少し緊張する。
上級妃であっても、何かの参賀の席でもないと、龍帝のお側にいられる機会は少ない。
ましてや、花蓉宮には御渡りにならない陛下との邂逅など、緊張するなという方がおかしい。
心を落ち着けよう。そう目をつむり、席に深く腰掛けた。




