唯月。
「ごめん。ショウリン……。いきなり泣いちゃって……」
朝の水場に現れ小凛を見つけるなり泣き出した小燕。
よほど張り詰めていたのか、体を震わし涙を見せたかと思ったら、そのまま止まらなくなった。
一緒にいた同僚の桂枝も、オロオロするばかりでどうしようもできなくて。
最初は二人でフラフラと水場に近づく姿に、珍しく小凛の方から声をかけたのだった。
二人とも普段とは違い憔悴しきっている様子にみえ、放っておけなかった、というのが正解だった。
「小燕!」
と声をかけた小凛に気がついた小燕。一瞬、ふわっと顔に笑顔が見えたと思ったけれど、そんな顔もすぐに崩れ。
その場に立ち止まったまま、ふるふると泣き出したのだった。
思わず駆け寄った小凛だったけれど、隣には桂枝もいる。宦官の身では下女に触れることさえ許されることでは無い、と、本当は肩に手をかけて慰めてあげたかった気持ちを抑え、ただただ泣き止むまで見守るしかできなかったのだ。
「どうかされたのですか?」
隣でオロオロと立ち尽くす桂枝にそう聞くものの、彼女はただ顔を横に振るだけで答えてもくれず。
かといって、小凛をみて泣き出した小燕 (で、間違いないはず)をそのままにして立ち去ることもできずにいた。
「ごめんね、ごめんね。ショウリン……」
まだ目に涙を溜めたまま、何度もそう謝る小燕。
「いえ、泣き止んでくれたのならそれでいいのです……」
何があったの? そう聞きたかった。
それでも、隣にいる桂枝が一言も漏らさないのだ。もしかしたら、迂闊に話せる内容では無いのかも。そうも思い。
また、そうであるなら、迂闊に聞くのも小燕の立場にも悪い影響があってはいけない。と、自重する。
もしここにいるのが小燕一人であるなら、彼女のことだ、泣きながらでも愚痴をこぼしたことだろう。
今、それがないということが、通常の事態では無いのだと思い知らされる。
「あ、え、と、ショウリン……」
何か言いたげにこちらを覗き見る小燕。
だけれど、隣にいる桂枝が、ぽん、と小燕の肩を叩き、フルフル、と、首を横に振る。
「ごめんね、ショウリン、立ち止まらせてごめん。またね」
なんとか涙を堪えて、そんな悲痛な表情を浮かべたまま水場へと歩いていく小燕を、小凛は見送ることしかできなかった。
(何も、してあげられなかった……)
いつも、優しく話しかけてくれる小燕。
この後宮で、唯一の癒しだった。
そんな彼女の涙に、苛立ちを抑えきれないまま、小凛は姫巫宮へと戻ることにした。
(こんな気持ちじゃ、今日は何もできないよ……)
外から見える花蓉宮は、紫の雲に覆われているようにも見える。
赤黒い感情の色が、青い空の色に混じっている?
そんな気がした。
「何をぼんやりしてる」
鋭い声がとぶ。
はっとしてそちらを振り向くと、そこには背の高い美丈夫がいた。
肩までの艶やかな黒い髪。すっと通った鼻筋、キリリと引き締まった唇。
そして何より、その大きく見開かれた濃紺の瞳に、吸い込まれるような錯覚を覚える。
着ているのは決して身分の高い者が着るような豪奢な着物ではなかったけれど、それでもその場に立っているだけで、どこか立場の高さを感じられるようだった。
「唯、月……。どうして……」
「どうしたもこうしたもないだろう。まるで俺がここにいたらおかしいとでも言いたげだな、お前は」
「だって。唯月、いつもいないんだもの……」
「お前が望むのなら、俺はいつでもお前のそばにいるが」
「え? だって……」
「そうだな。“お前”が本当に“望む”のであれば、お前を常に俺のそばに置いておくのもやぶさかじゃない」
「そんなの!」
「いやか?」
「いや、じゃなくて、私にはやらなきゃならないことがあるんだから」
「お前は言ったな。『自由になりたい』と。だからこうして籠の鳥から逃れる術を与えたつもりだったが」
「それは……。感謝、してるよ……。だけど、それとこれとは別。このままじゃ、ここが漆黒に埋もれてしまうよ……」
「ふむ」
「ここは闇が多すぎるよ。ううん、毎日のように闇が生まれてる。だから……」
「ならば、人を集めるか」
「人って?」
「退魔師を」
「だって」
「そうだ。ここには男は入れない」
「じゃぁ」
「しかしな。本当に危険になれば話は別だ」
「でも……」
ここ、後宮には数多の女性が暮らしている。
彼女らの生活を、人生を、無にしてしまうようなことは小凛には考えられなかった。
「まだ、待って……。私がなんとかする、から……」
「お前は一人ではないのだからな。俺にも頼れ」
濃紺の蒼穹が、小凛を包み込むように見つめていた。
◇◇◇
「花蓉宮で何か、あったみたいなんだ……」
「ふむ。慌ただしい気配は感じるな」
「多分、宝物庫の関連なんだと思う。陰干しをするって言ってたし」
「それは誰から」
「小燕って言う女の子。花蓉宮で働いてる」
「花蓉宮の宝物庫、か。あそこは先代の花蓉妃が随分とはぶりが良かったからな。古今東西かなりの貴重な宝物が眠っていたはずだ。しかし……」
「何か、感じるの?」
「お前のほうが、こういうのは得意じゃないのか? あの宮には悪意は感じない。この後宮の中では“まし”な宮殿だからな」
「そう、だね……。花蓉様だって……」
そう言葉にしながら、先日会った花蓉を思い出して。
花のような女性。
名前の印象そのままに、可憐で、美しい人だった。
目立ってはいけない。
関わってはいけない。
自分の正体を知られるわけにはいかない。
そういう思いが強くて、彼女のことをあまりしっかりみたりもしなかったけれど。
そのふわふわと広がる金色の髪は、どこか西方の血が混ざってるのだろうかとも思える。
瞳は青水晶のように透き通って。
その声も、まるで水鳥が羽ばたいてたくさんの羽毛が広がっていくような。
そんな爽やかな声だった。
本来の姿で会えたなら、もしかしたら友人にでもなれるかもしれない。
そう思ったりもしたけれど、ダメだ。
“知られる”わけにはいかないのだから――
今こうして後宮の中を割と自由に歩けるのも、唯月が用意してくれた、「ショウリン」という立場のおかげ。
モブの宦官であれば、後宮のあちらこちらに出向き、掃除をしていても疑われない。
(私の力がもっと強かったら……)
後宮の闇くらい、あっという間に浄化してしまっただろうに。
そう考えると歯痒くなる。
最初は、薄暗い籠の中に閉じこもっていた。
ここに来た当時は、誰とも会わず、誰とも話さず、誰とも笑みを向け合うこともしない。
そんなつまらない日常を送っていたのだったか。
もう、その時の気持ちなんか忘れてしまったけれど。
目の前にいる、唯月。
(この人が現れて、私の生き方は変わった……)
感謝、してる。
ううん。それだけじゃない。
兄のような。
母のような。
姉のような。
そんな存在。
唯月がいてくれるから、ここにいられる。
安心して、過ごせる。
愛?
多分違う。
家族、というものが一番近いかもしれない。
「ねえ、唯月。花蓉様にお目通りって、できる?」
「不可能では、ないが。いいのか?」
「いいのか、って?」
「ショウリン、では無理だぞ。流石の俺でもな」
「じゃぁ」
「女官に化けて、であれば可能だ」
一瞬、たじろいで。
すぐ顔をあげた。
「うん。それくらいはしょうがないよ。彼女に会って確かめたいことがあるんだ」
◇◇◇
薄墨桜が散りばめられた薄い桃色の衣装を来て。
目立つ白銀の髪は亜麻色の髪色に染める。
目元にもしっかりとラインを引き、赤い紅を唇にのせた。
半分は咲夜が嬉々として手伝ってくれたおかげだったけれど、それでも小凛自身も少しだけ楽しんでいたのは間違いない。
(綺麗だって、言ってくれるかな……)
出かけるのは夜更けを待ってから。
今夜は玉后宮で龍帝が来られる催しがあり、そこに花蓉妃も出席する予定だという。
(私は唯月付きの女官として宮殿に上がることになる――)
少し怖い。
だけど、唯月がいてくれるから。
そう気持ちを奮い立たせて。
「待たせたな」
姫巫宮の玄関に現れた唯月は、いつもよりも豪奢な紫の紗の着物を着て。
すっと立つその姿は、どこの誰よりも素敵だと、小凛は見惚れてしまった。




