ショウリン。
「あら。お掃除中だったのね、ごめんなさい」
残り湯の熱で汗だくになりながらブラシで湯船の底を擦っていたショウリンは、透き通るような声に身を固め。
「お見苦しいところをお見せしてしまい申し訳ありません。もう少しで終わりますのでご利用はもういっときお待ちいただけないでしょうか」
両手を胸で交差し、頭をさげ応える。
ちらりとみえた姿は紫の薄羽衣を羽織っていて、明らかに女官には見えなかった。
妃のどなたか。
そうは思うけれどショウリンには見覚えのない方。
「そうね。誰もいないいまのうちにお湯を使いたかったのですけど、ああ、あちらの壺湯はまだお湯を変えていないようね。あなたがここを掃除してるあいだに、さっと浴びてきても良いかしら」
「お待ちください、私がここにいては支障がございます。お湯をお使いになるのであれば一旦外に出ますので……」
「良いのよ、わたくしは気にしないわ。お掃除の邪魔はしたくないのよ」
「そういうわけにはまいりません。私は宦官ですから……」
一瞬。
その美しい声が止まり、じっとこちらを見る視線を感じいたたまれなくなる。
「ふーん。信じられないけどあなたがそうだというなら、ごめんなさいね。それではわたくしお湯を使うのは諦めますね。あまり時間がないのよ」
困ったような声でそう話す妃。
直接お顔を見るのは失礼だとは思いつつ少しだけ顔をあげると、その美しい妃はほんとうに困ったようなお顔でこちらを見ていた。
「ああ、そうだわ。あなた、ここのお掃除が終わってからで良いから、花蓉宮にお湯を運んでくださらない? 桶一杯分でいいわ。それで身体を拭くことにします。それならいい?」
「いえ、私の掃除など後になっても大丈夫ですから……。しばらく外で他の仕事をして参りますから、先にこちらでお湯をお使いになってくださいませ。出られるときに、表の清掃中のたて札を横にしてくださいますと助かります」
そう言って湯船からあがるショウリン。
隅の台座に置いてあった灰色の着物を手に取って、そのまま急いで羽織る。
「あらあら。その着物の色は……。宦官だというのは本当なのね。からだも白くて細くて、幼い女の子にしか見えないのに……」
「申し訳ありません。それでは私はこれで……」
ブラシを手に取ったまま一礼し、逃げるように浴場を出る。
(あの人が、花蓉妃――)
小燕の宮の主人。優しい花蓉妃。
(でも――)
普段、湯殿を使う事などない花蓉妃が、なぜ一人でここまで出向いてきたのだろう。
そんな疑問が頭に浮かぶ。
(ああ、だめ。考えちゃ、ダメ。面倒なことには関わっちゃだめ。私はモブでいないとだめなんだから……)
頭をふって。
「忘れよう」
そう一言呟いて、顔をあげた。
――関わってはいけない。
とりあえず時間まで。
宮殿の床掃除でもしようか、と、最奥の姫巫宮に向かう。
慌てていたのでベタベタになってしまっている。一旦着替えないと風邪をひきそうだ。
人目を避けるように祠の横を抜け、巫女宮の入り口まできたショウリンは、こっそりと裏口に回って。
ギイ
硬くなった裏口の木戸を開ける。
「小凛様。どうしたんですかそんなにずぶ濡れになって」
体も拭かず着物を羽織ったので、灰色の着物までがぐっしょりと濡れてしまっていた。
「ごめんなさい。ちょっと慌てていたので……」
「しょうがないですね……。小凛様はお身体が丈夫じゃないのですから、お風邪をひいてしまったら困りますのに」
「身体、丈夫だよ? 丈夫じゃないっていうのはそういうふうに言っておけって唯月がいうから……」
「唯月様も唯月様ですわ。もっと良い方法があったでしょうに」
「ごめんね、咲夜。それより、服の替えはある? 小一時間もしたらまた湯殿に戻らないといけないんだ」
「本当に。こんな粗末な着物を着て出歩くだなんて。お母様がお知りになったらどう思われることか……」
「でも。こうでもしないと、私は……」
咲夜が新しい服を用意してくれている間、宮殿の玄関先の床を磨く。
こうして床を磨くのは、好きだ。
一心不乱に磨いていると、世間の嫌な気がすーっと消えてくれる。
◇◇◇
湯殿に戻ると、そこはまた無人の園に戻っていた。
入り口のたて看板はちゃんと横に倒されていたから、花蓉妃は入浴を終え宮殿に戻って行ったのだろう。
「予定より、随分と時間が過ぎちゃった、早く掃除終わらせないと……」
お昼時になれば手の空いた女官や中宮妃らが入りにくるかもしれない。
ショウリンは、手早くブラシを動かすと、(綺麗になあれ)と心の奥で唱え。
ふわっと金色の粒が周囲を覆う。
「ふふふ。今日もありがとうね」
後宮には、闇の澱が溜まりやすい。
だから、綺麗にしないと。
自分にできることは、それくらいだから。
世界には色がついている。
小凛の目には、他の人とはちょっと違った光景が見えていた。
そのことに気がついたのは物心がついた頃。
人の心や感情、そして悪意。
そういったものが、色として見えて。
悪意の黒よりももっと黒い、漆黒の闇が見えた時。
小凛は、その闇が怖くて怖くてどうしようもなくて、なんとかして欲しいと泣き叫んだけれど、大人たちは誰もそれを把握することもできなくて。
心の奥底に願ったのだ。
闇よ、消えて。と。
それ以来。
自分で触れた場所。掃除をした場所。そこだけは闇を消すことができるようになった。
時には、それを金色の精霊たちが手伝ってくれる。
他の人にはいっさい見ることも感じることもできなかった闇と金色。
小凛にだけわかる、そんな感覚を信じてくれたのは、咲夜と唯月だけだった。
だから――。




