中空の龍。
朝の光が空を薄紫に染める頃。
紫微城はようやく落ち着きを取り戻しかけていた。
中空には相変わらずの漆黒龍。長い尾を地上近くまで垂らし、その先にあるのは屋根に穴の空いた香嬪宮の納戸。
後宮を覆う壁の外には槍を持った兵士が詰めている。
少しでも龍が外に出ようものなら、と、構えてはいるが、空高く留まる龍に対しては、決定打となりうるものはなかった。
今宵しっかりと眠れたものは、この紫薇城内にも、城下町にも誰もいなかったろう。
厳戒態勢を敷くため集う兵士の足踏みや、ゴロゴロと投石機を運ぶ音、そして鎧の擦れあうガチャガチャとした音が響く夜に、恐れ混じりの驚愕に、冷静で寝ていられる者も少なく。
まんじりともできなかったものが大半であった。
龍には龍。
あの龍を抑えられるのは龍帝ご本人しかいないのでは?
人々はそう、口々にささやいた。
それはまた、人々の期待とともに、紫薇城の本丸、紫薇殿へと向けられ。
龍帝の耳に入るのも時間の問題かと思われていた。
◇◆◇
「唯月、私、行くよ」
「待て、どうするつもりだ」
「もう朝だもの。正面から行くよ」
「ふむ。なら、俺も行く。なあに、なんなら李陽を連れて行こう」
「え? 李陽さま?」
「あれは元々は孫家の身内だ。二年前あまりにも他の宦官にちょっかいをかけられる綠桜を案じあの宮に押し込んだのも、やつだ」
「はう」
「宦官のまとめ役、後宮司礼監を務めている。俺が宦官などと欺いていられるのも、やつの尽力あってのことだ」
「すごい人、だったんだね」
「まあ見た目は気のいいおっさんだけれどな。やつに、綠桜の身柄の確認だと言わせれば、すんなり通れるだろうさ」
◇
「唯月さま!!」
「綠桜を助けに行く。頼めるか」
「もちろんです。わたしにできることであれば何なりと!」
随分と憔悴した顔をした李陽。
唯月に詳細を聞いたことで、俄然やる気を出していた。
(この人、綠桜のことここまで心配していたんだ……)
それもわかって、少しだけ安心した。
自分の、綠桜を助けたい、って思いは少なくともこの人たちのことを考えても間違いじゃない。
見捨てていい人じゃない。
龍は、中空に浮かんだままだけれど、あれが大人しくしているのはきっとキュアたちのおかげもあるのだろう。
そう感じていた。
だから、小凛が行きさえすれば。
もしかしたらなんとかなるかもしれない。
そんなわずかな可能性ではあったけれど、そこに縋るしかできなかった。
そして。
できたらあの龍も、助けてあげたい。
そう思って。
「ですから。我々は綠桜の無事を確かめたいだけなのです」
「そう言われましても……」
「では、香嬪妃に李陽が訪ねてきたとお伝えください。妃殿下ならおわかりになってくださるはずです。緊急の事態なのです!」
香嬪宮の大門でひと悶着していると、ようやく中から大勢の女官にかしずかれた香嬪妃が顔を出した。
革鎧に籠手、長槍を携えた武人姿の妃は、長い髪を後ろにひとまとめにし今にも戦いの場に赴こうと言った趣きで。
「おじさま。どうなさったのですか」
「ああ、香織よ。お願いだ、我らをあの龍の元まで通してもらえぬか」
「後ろのお二方、は?」
「同僚だ。この度の騒動を収束させるためには、どうしても我らが龍の元に赴かねばならぬのだ」
「綠桜、は……」
「もちろん、助ける。そのために来たのだから」
香嬪妃は、そっと目を閉じ。そして空を見上げた。
「現場には綠桜の姿はありませんでした。どこかに逃げおうせたのかと、宮殿中を探しましたが見当たりません」
「そうか。そうだろうな」
「おじさまは、何か知っておいでなのですね。では、よろしくお願いいたします」
「まかせろ。そう言いたいがこればっかりはな。尽力する。そなたらもここは危険だ、避難するといい」
「ふふ。どこに逃げろというのです? 後宮の中ならどこにいても同じでしょう。ならばわたくしはこの場を守ります。陛下から預かった大事な宮殿ですから」
「そうか。なら。唯月様、それでは参りましょう」
「ああ、李陽。すまぬな」
唯月も少凛も綠桜の同僚という体で灰色の着物を着て宦官としてここにいる。
だけれど。
香嬪妃は唯月のことをただの宦官とは思っていない様子だった。
母の兄である李陽が現在どういう役職なのかはわかっている。
その伯父が、様をつけて呼ぶようなものが普通の宦官であるわけがない。
(うん。唯月はこんな格好をしていても普通の人には見えないものね)
その点。
自分は十分“モブ”だなぁ、と。
視線は全て唯月に向いている。
だから、こうしていても目立たない。
はっと気がつくと二人はもうずっと先に進んでいる。
小凛も、慌てて二人を追いかけたのだった。




