香嬪宮。
体調も落ち着いたということで直房から香嬪宮の自室に帰る事になった綠桜。
「大丈夫か? お前の部屋、一人なのだろう?」
「ああ、大丈夫だよ。きっと寝てれば治るさ」
「しかし一人じゃ、何かあったときに頼むやつもいないじゃないか」
「ずっとそれでやってきたんだ、なれてるよ」
上級妃の宮殿つきの宦官は、普段は大部屋に大勢で寝泊まりするのが基本だ。
だけれど綠桜の見た目を案じた香嬪宮の女官長は、彼に宮殿の最奥の、もとは物置だった部屋をあてがった。
綠桜の貞操を心配した訳じゃない。
「風紀が乱れると困るでしょう?」
と。そう彼女は言った。
実際には、香嬪宮の女官の中にも綠桜を特別視するものが多かったから、そちらも心配ではあったのだけれど、それでも最奥の物置小屋であればまだ安全だろう、という配慮もあったのだ。
女官や下女の部屋とも、宦官の部屋とも、どちらからも離れている。厨房の裏側にある物置小屋の一室だから、鍵もかかるようになっているのがよかったのかもしれない。
(あれのせいなのは、間違いないけどな……)
物置小屋には一箇所、古くなって普通には開かない納戸があった。
開けるのにコツがいるのだ。
あの宝玉を隠すのに、うってつけだったけれど……。
(どうしても日に一回はあれを見ないと落ち着かなかったから、しょうがない)
七色に、ぼやっと光る宝玉。
見るたびに色が変わってみえ、じっと見ていると吸い込まれるような気分になった。
触ると、その時だけは痛みも苦しみも和らぐ。
とても気持ちがよくて……。
(ああ、あの天使の手当と似てるのか……)
手を離すと苦しみが増すのをわかって、なお、どうしても触れていたくなる。
そんな中毒性がある、あの宝玉……。
(だから余計に、この宝玉に触れたままなら死んじまってもいい、だなんて思っちまった)
天使の手当で頭がスッキリした今となっては、それがどんなに危うい考えなのかも良くわかる
しかし……。
(帰ったら、またあの宝玉に触れたい……)
気持ちがはやる。
もう他に何も考えられなくなっていた。
◇◇◇
月が南中に見える。
真ん丸な、満月だ。
周囲にはぼんやりと雲がかかり、いまにもこの満月を覆ってしまいそうで。
小凛は、今夜じゅうに香嬪宮のそばに行ってみたいと龍月にお願いして、「無理するな」という彼を振り切って玉后宮の外に出てみた。
香嬪宮は中央広場の西、大浴場のちょうど反対側にある。
普段の小凛の行動範囲から少しはずれている分、龍玉を感じにくかったかもしれない、そう考えて。
こんな夜であれば月の光から溢れる真那があたりを清浄な気配で覆ってくれるから、闇もより鮮明に見えるんじゃないだろうか。そんな期待もあった。
大路から白の路が各宮殿の玄関先へと引き込まれている。
小凛はそこを注意しつつ歩く。
いまの小凛は女官服を着ている。
紅たちにちゃんとシャオリンの姿に変装させられていたとはいえ、あまり知ったひとには出会いたくなかった。
月が、背中を追ってくる。
あの月は、もしかしたら唯月の代わりなのかな。
そんな風にも感じていた。
◾️◾️◾️
「綠桜、大丈夫なの?」
宮に帰った綠桜をいの一番に出迎えたのは、この宮のあるじである香嬪妃その人だった。
すらっと背も高く長い黒髪を後ろで束ね、ほかの妃が着るようなふわりとした羅紗の上着も着ず質実剛健といった感じの黒い服。
背筋をまっすぐに伸ばしてしっかり大地を踏みしめるその立ち姿も、まるで武人、そう評されることも多い香嬪妃。
その彼女が綠桜にだけは他の宦官とは違った対応をするところを、そばにいる女官たちはうっとりとした目をして眺めている。
普通、妃は宦官に直接声をかけたりはしない。
他の宮ではあり得ない、だけではない。中級妃や下級妃にしたところでそうだ。
身分の差だけではない。妃が帝以外の“男”に話しかけるなど、あってはならないと思われていたのだ。
女官であれば、仕事の伝達もある。
しかし。
妃とは、帝の妃なのだ。
ここは後宮。
女の園に仕方なくおかれている男手としての宦官は、いくら子を残す能力がないとはいえ、男なのだ。
妃側も、宦官側も、気軽に近づいていい立場ではなかったのだから。
それが。
この綠桜に対しての特別扱い。
誰もそれに対して異を唱えるものはいなかった。
綠桜なら許される。
綠桜なら香嬪のそばにいても、許されるはず。
皆がそう感じていた。
「申し訳ございません。少し体調を崩してしまいましたがもう問題はありません。今夜一晩休めば明日には仕事に復帰できます」
「でも、朝は顔も真っ青だったらしいじゃないか。そう簡単に治るとは思えなかったと聞いたよ」
「お声をかけていただいて恐縮ですが、本日直房で治療を受けましたから、ご心配には及びません」
「でも……」
なおも心配そうに声をかけようとする香嬪妃に。
「これ以上私のようなものに話しかけては主様のお立場に関わります。では、失礼いたします」
深く頭をさげ、香嬪妃の許可も受けず足早にその場を離れる綠桜。
「あ……」
と左手を伸ばし、そしてその手を下ろす香嬪妃を、周囲の女官たちはじっと口をつぐんで見守っていた。
◾️◾️◾️
(あー、嫌だ嫌だ)
女官たちのねちっこい視線もそうだが、香嬪妃のまっすぐすぎる目も気持ち悪い。
あれはなんていうんだ?
頭が腐っているのか?
男とか女とかとは違う。それは綠桜にもわかる。
けれど。
どうにも対応に困る。
まあ、ここにいれば割と一人気軽でいられる。
宦官には居を移す自由などないのだからと、そう零して。




