天使。
綠桜は、死を覚悟した。
風邪や熱中症や、脱水など、そんなありきたりの症状じゃない。
そんなものはガキの頃から何度も経験済みだ。
死にそうになったことも何度もある。
腹が減って、どうしようもなくなったことさえ一度や二度ではない。
もちろん、大人に殴られボロボロにされ、野良猫のように道端に捨てられたこともある。
そんな経験すら生ぬるかったと思えるほど、今の綠桜の目前に、“死”があると感じていたのだった。
はっ!
今までと何が違うって。
そんな物は一言で言える。
死んでたまるかと、そう思えるか思えないかの差だからだ。
なまじ、意識があるのがいけない。
生きたまま内蔵が食い散らかされるような気持ちの悪さ。
痛い、
辛い、
そんな生ぬるい感覚じゃない。
息をするのさえ苦しくて、全身が何度も何度も引きちぎられ。
ぐねぐねこねまわされる。
それでも、身体の方だけならまだいい。
どんなに辛くても、
どんなに痛くても、
どんなに苦しくても、
死んでたまるかと、心が死んでなければそう這いつくばれる。
だけれど今回はダメだった。
くらやみに、心が堕ちた。
まだ死んでしまった訳ではないのに何度もなんども死んだと思わされ。
何度も何度も黒い闇に溺れて。
何度も何度も、心が喰い尽くされ。
自分が自分じゃ無いものに変わって行く。
かろうじて、残った意識が囁く。
もう死んだほうがマシだと、心がそう望んでしまったのだから。
あの日はどうやらもう限界に達してしまっていたのだろう。
それまで無理やりにでも根性で身体を動かしていたけれど、とうとうそれもおしまいだと、そうあきらめたときだった。
天使を見たのかと、綠桜は思った。
白銀の髪、少女のような顔、鈴が鳴るような声でこちらに声をかけるその天使。
「すみません。私はショウリンと言います。少しだけ医療の心得がありますから、あなたを診察させてください」
そう言ってこちらを心配そうな面持ちで見つめる少女。
でも、よくみるとその少女は灰色の、自分との同じ宦官服を身に纏っている。
(うそだろ)
思わず声に出ていた。
「ああ、構わないけど……。っていうかあんた本当に男か?」
と。
一瞬、ショウリンと名乗った少女の顔が固まったのがわかった。
(ああ、この顔は、俺とは違う)
女のように見えるんじゃ、無い。
女のように見られるのが嫌、なんじゃない。
女のように見られることに、心から反発しているわけでもない。
だからと言って。
女のように見られたことを、喜んでいるような、そういう人種、でもない。
自分が女だということを、本当は自覚している顔だ。
間違いない。
そう確信した。
「じゃぁそのままにしててくださいね」
天使はそう言うと、綠桜の胸に手を当てた。
そう、文字どおり、両の掌で胸に触るように。
じわっと、温かいものが流れ込んでくる?
そう驚き首を起こしてそちらをみると、淡い金色の光が溢れ、綠桜の体に吸い込まれて行くように見える。
すると。
苦しかった体が、スーッと楽になって。
闇色に染まってしまっていた心も、霧が晴れたように元の自分に還って行く、そんな気がして。
(ああ、これは……)
奇跡が起きたのだ。そう思った。
自分のような男のところには、絶対にやってくるはずのない、奇跡が。
◇◇◇
「なあ、李陽さま。あの天使は一体なんだったんだ?」
「そうか、お前は初めてか。あれはショウリン、宦官だ」
「嘘つけ。あんな華奢でちっこい宦官がいてたまるかよ」
「まあ、背はお前より低いな」
「背だけの問題じゃねえ。見た目完全に女の子だったじゃねーか。あれは、少女にしか見えなかったぞ」
「ははは。お前が言うか。女っぷりならお前のほうが上だろうに」
「いうな! いくら李陽さまでもそれ以上は許さねえ」
「悪いな、しかしお前、自分を鏡で見たことあるだろう? お前という前例があるんだ。あんなちっこい子供が宮刑なんてことになっちまったら、もう“男”なんて痕跡さえ残らないだろうよ」
「それは……」
綠桜は12の時だった。あの天使は、まだそれくらいかもしれない。少なくともまだ、子供、だ。
綠桜の気分が良くなるのと同時に、顔が真っ青になって倒れてしまった天使。
そのあとはバタバタと女たちがやってきて、あれを連れて行ってしまった。
「なれない気功術を使ったせいで倒れたんだとよ」
李陽がどこからか事情を聞いてきたのだろう。そう教えてくれた。
しかし。
彼女は、綠桜にとっては命を救ってくれた天使、だ。
それだけは絶対に変えられない。
(今度会ったら礼だけは絶対に言わなけりゃ)
そうでないと、綠桜の中の男が立たない。
ちゃんと、受けた恩義には礼を尽くす。
それだけは守って生きて行きたい、から。




