『君はずるい』
翌日、セラから連絡が来た。
カフェで別れて以来、久しぶりだった。
そういえば、あの時セラを拗ねさせてから、連絡も少なくなっていた気がする。
俺も少し気にしていたことだったし、どうやらセラも忘れてはいなかったらしい。
『やっほー。元気?ちょっと会おうよ。 用件はそれだけ』
前だったら、少し面倒に感じていたかもしれない。
なのに今日に限っては、その電話が妙に嬉しく感じられた。
「あんたが言う通り、仕事辞めようかって考えてる」
最後に会ったあのカフェで、俺たちはまた向かい合っていた。
セラは黒いブラウスに、黒のレディーススーツ。
スカートにストッキング、足元まで黒で揃えていた。
そういえば、セラって黒が好きだっただろうか。
前に会った時と何か違う気もした。
髪型だったかもしれないけれど、はっきりとは分からなかった。
「それだけ言うために、忙しい日に呼び出したのか?」
わざと少し素っ気なく返した。
「え? 何?」
「いや。そんな話、なんでわざわざ俺にするんだよ」
「何その言い方。
私、何かした?
数日会わなかっただけなのに、なんか変じゃない?」
セラは眉間を寄せ、穴が開きそうなくらい俺の顔を見つめた。
大きな目を少し伏せると、なぜか普段より小さく見える。
唇がわずかに動いていて、まだ何か言いたそうだった。
「どう考えても変なんだけど。
私が知ってるクォン・ハヨンと少し違う。
人、間違えて呼んだかな?その間に、何かあった?」
何かあっ?
その言葉を聞いた瞬間、この前の出来事が頭をよぎった。
「何かって何だよ。セラは俺に何か悪いことでも起きててほしいのか?」
高校時代からの友人は、ゆっくりとした仕草でストローの先を指先で軽く叩いた。
それから、小さく伸びをするみたいに背筋を伸ばして、そのままストローを口に運ぶ。
飲んでいるのか、ただ咥えているだけなのか。
その表情は、どこか読めなかった。
「美味しい、これ。
甘くてすごく美味しい。
あんたにまで変なこと言われたから、余計に甘く感じる」
セラはカップに入ったいちごのドリンクを見下ろして、本気で感心したみたいな顔をした。
そのせいで寄り目気味になっているのが見えて、少し可笑しかった。
「頼んで正解だったかも。
あんたも一口飲んでみる?」
さっきまでむっとしていたくせに、急に笑い出す。
見ているうちに、セラの頭の中が少し気になってきた。
こいつ、たぶん何か勘違いしている。
嫌なことを聞いたり、都合の悪い空気になったりすると、自分の中で勝手に整理して前へ進める。
昔から、そういう強さがある。
「悪かった。
別にそんな意味じゃなかった」
結局、俺のほうから謝ってしまった。
「まあ、これが美味しいから許してあげる」
そう言って、セラはストローをくるりと回した。
「あんたもコーヒーじゃなくて、甘いの頼めば良かったのに」
けれど、俺の前に置かれていたのは黒くて苦いコーヒー。
そしてセラの前には、可愛らしいピンク色のいちごドリンク。
しかも、それは俺が来る前にセラが勝手に注文して待っていたものだった。
座る場所までそうだ。
わざわざ人目につく店の中央を選んでいた。
セラは眉を下げて視線を落とした。
唇がわずかに震えている。
そんな顔もするんだな、とふと思った。
どうやら本当に怒るのを我慢していたらしい。
その様子を見ているうちに、少し可笑しくなった。
結局、セラだって普通なんだと思った。
「急に何笑ってるの?
それより、手出して。
久しぶりにハヨンの手でも握ってみようかな」
その意味は分かった。
セラは昔からこうだった。
空気を戻したい時、こういう冗談みたいなことをする。
そっと差し出された手を、俺は軽く払った。
学生の頃なら考えられない。
先に手を出したセラを、俺が拒むなんて。
胸の奥が少しだけ騒いだ。
高揚というより、変な感覚だった。
目の前で少し戸惑った顔をするセラを見て、俺は少し面白いと思ってしまった。
「……やっぱり最近、あんたに何かあったんだ」
脚を組み替えたのか、セラの靴先が俺の膝に当たった。
本人は気にする様子もなく、少し腰をずらしてだらけた姿勢のままドリンクを飲んでいる。
そのくせ、時々思い出したように俺の左膝を軽く突いてきた。
「だから膝やめろって」
「何があったのか知りたいの。
話してくれる?」
俺の言葉なんて聞いていないみたいだった。
妙に探るような目だけ向けてくる。
下から時々当たる靴のせいで、変に意識してしまう。
俺は足を動かして、セラの足首を軽く蹴り返した。
「あっ、痛っ。
ちょっと、椅子から落ちるかと思ったじゃん」
文句を言っているはずなのに、不思議と嫌そうな声じゃなかった。
むしろ少し甘えたみたいな響きだった。
「だからやめろって言っただろ」
「分かった。もう膝はやめる。でも、ヒール長く履いてたから足ちょっと痛いかも。
靴脱ごうかな」
「急に何する気だよ。なんで靴脱ぐんだ」
「何って? それに私、ちゃんと綺麗にしてるし。どれくらい綺麗か見てみる?」
セラはここがカフェじゃなくて自分の部屋みたいな顔をしていた。
そう言うと、左右のヒールを気軽に脱いだ。
黒地に金の模様が入った靴は、無造作に床へ置かれる。
革の艶を見る限り、買ってからそう時間は経っていない気がした。
いくらするんだろう。
そんなことを考えていた時だった。
ふいに何かが足元に触れて、俺は思わず咳払いした。
それから姿勢を正して、腰を少し引いた。
「おい、シン・セラ。
何してるんだよ。
人もいるんだから……足戻せ」
俺はできるだけ小さな声で言った。
「何って。
足ちょっと疲れたから伸ばしてるだけだけど?
さっき言ったじゃん」
悪びれる様子もなく答える。
その調子が余計に落ち着かなかった。
立ち上がろうと思えば立てる。
なのに、なぜかそのまま座っていた。
正直に言えば、嫌というわけでもなかった。
「足伸ばすなら、そっち側に伸ばせばいいだろ……
なんでわざわざこっちなんだよ」
平気なふりをして言いたかった。
なのに、自分でも驚くくらい拗ねた子どもみたいな言い方になってしまった。
たぶん、俺が本気で嫌がっていないことをセラは気づいた。
「変なの。
彼女が彼氏の方にちょっと足伸ばしたくらいで駄目なの?」
少し眉を寄せながら、甘えるみたいな声で言う。
最後の言い方なんて、ほとんど鼻にかかった音だった。
「だから、そういう話じゃないだろ」
言い終わった瞬間だった。
まっすぐ伸ばしていた背中がぴくりと揺れた。
――今、下で何してるんだ。
そう言いたかった。
けれど言えなかった。
何をしているのか、自分でも分かっていたからだ。
「分かった。
悪かったから、もうやめろ。
ここでそういうのは違うだろ」
「これ?
これのこと?」
セラはわざと知らないふりをした。
足先が時々触れるたび、余計に意識してしまう。
本人は面白がっているだけなのかもしれない。
昔から、こういう距離感だった。
中学の頃の俺は、セラのことが好きだった。
整った顔。
少し変わった性格。
たった一度だけだったけれど、俺たちは夜遅くまで一緒に過ごしたこともある。
今思えば、それだけなのに。
あの頃の俺には、それだけで十分特別だった。
俺の初恋――シン・セラ。
彼女は昔よりずっと手慣れていて、ずっと大人になっていた。
細く長い腰の線。
そこからまっすぐ伸びる脚。
昔の俺は、そういう姿に憧れていた。
辛い時期には、何もない時にふとセラのことを思い出して、その度に少しだけ前を向けたこともあった。
「分かった。
で、何があったの?
私をこんなところに放り出して、その間ずっと何してたの?
なんでそんなに性格悪くなったわけ?
元から少しそういうところあったけど、今日は特にひどい気がする」
セラはそう言った。
しかも、どこか面白がるみたいな顔で。
楽しそうに笑っているだけなのに、不思議と目が離せなかった。
「俺が?
俺、そんな言い方したか?」
「ふーん。私はそう思うけど?」
セラはストローを指先で回しながら、少し首を傾けた。
「それで? 他の女といるの、そんなに居心地良かった?」
急に声を大きくしたセラに、俺は思わず周囲を見回した。
幸い、こちらを気にしている人はいない。
店内には空席も目立っていた。
「お前、まさか……
そういう理由じゃないよな?」
「まさか?」
セラが何を言おうとしているのかは分かっていた。
「おい、シン・セラ。
本当に何考えてるんだ。
違う。
少し前に、ちょっとしんどいことがあっただけだ」
「なるほどね。
整理すると――
最近嫌なことがあって、その八つ当たりを今私にしてるってこと?」
「そうだよ。
八つ当たりしてる。
それがどうした」
本当のことは言えなかった。
俺はため息をつきながら答えた。
「そっか。
じゃあ私も嫌なことあった時、ハヨンに八つ当たりしていいってことだね」
少し考えた。
なんで俺なんだ。
そう思ったけれど、結局――
今までもずっとそうだったか、と思うことにした。
「それで?
今はもう怒ってないの?」
「今?
……ああ、今は平気」
「でもさ、こっちはまだ怒ってるんだけど?」
「え?」
「機嫌直して。
ほら、ちゃんと直しなさいよ、バカ」
そう言いながら、セラは脚を組み替えた。
さっきから落ち着かない動きをしている。
「おい、やめろって。
だからそういう意味じゃないんだって」
「何が?
これ?」
セラは首を傾げた。
「ごめん。
さっきお前が足当てたせいで、ちょっと変な感じするだけかも?」
わざとらしい言い方だった。
昔も今も、やっぱりセラには敵わない。
言い返しているつもりなのに、いつの間にか向こうのペースになっている。
「でもさ。少しくらい機嫌直してくれてもいいんじゃない?」
「いや、本当に大丈夫だから。足下ろせって」
「じゃあ、せっかくだし久しぶりに私の足揉んでよ」
久しぶり――
セラのその言葉が少し引っかかった。
俺、そんなことしたことあったか?
記憶を辿ってみても思い当たらない。
「こんなところで無理だろ」
「なんで?」
俺は頭をがりがり掻いた。
今日は一体どうしたんだ。
いつもより妙にわがままだ。
いや、違う。
前からこうだったのかもしれない。
俺が忘れていただけで。
「今日はなんなんだよ。
それに、なんで久しぶりなんだ。
俺、お前の足なんて一回も揉んだ記憶ないぞ?」
「ないわけないじゃん。
覚えてない?」
セラは片方の口元だけ上げて笑った。
「ゆっくり思い出してみなよ。
思い出せたら、いいものあげるから」
「いいもの?」
俺は子どもの頃の記憶をひとつずつ辿った。
俺たちが一緒に過ごしてきた時間。
ぼやけた景色の奥で、ひとつだけ引っかかるものがあった。
「あ……」
隠そうとしても無理だった。
顔に出た。
しまった。
まさか、それを覚えてたのか。
シン・セラ――
「どう?
思い出した?」
「違う。
いや、その……
とにかく違う」
子どもの頃のこととはいえ、急に思い出すには恥ずかしすぎた。
あの頃の俺は、何を考えてあんなことをしたんだろう。
いや、子どもだからこそ、何も考えていなかったのかもしれない。
そう思うと余計に居心地が悪かった。
「マッサージしてもらったの、あれが初めてだったけど。
でも、気持ちよかったのは本当。
だから変なふうに考えなくていい。
言ってる意味、分かる?」
セラは昔からそうだった。
人を振り回して、面倒をかけて、自分の好きなように動く。
連絡が来るのも大体向こうの都合だった。
ある日突然、何も言わないまま学校を辞めて、そのままどこかへ消えた。
十年経って。
また何事もなかったみたいに俺の前に現れて、今度はカフェで人を困らせている。
……なのに、不思議と嫌じゃなかった。
何より、セラは昔から今までずっと目を引く美人だった。
突然いなくなったあと。
彼女がどこで何をしていたのか、俺は知らない。
それなのに、最後には決まって俺に連絡してきた。
久しぶりに聞く声は、やっぱり胸が少し騒ぐ。
嬉しいと思った。
その一方で、また気づけばどこかへ行ってしまうんじゃないか。
そんな考えが頭をよぎって、少し怖くなった。
向かい側では、この自称じゃなく本物の自由人が、何も知らない顔で笑っている。
困ったことに、その笑顔は昔と変わっていなかった。
このどうしようもない悪女を、俺はどうしたらいいんだろう。
そんなことを考えていた。




