捕虜
「ねえ、ハヨン。
今日、このあと予定ないよね?」
「ああ、ないけど。
なんで?」
「なんでって。
今日は私と遊んでよ。
久しぶりにデートしよう?」
「デート?」
思わず聞き返した。
「俺たち、デートなんてしたことあったか?」
「あるじゃん。
何とぼけてるの?
高校の頃、一緒にデートしたでしょ。
あんなに濃い夜まで一緒に過ごしたのに」
セラは首を少しかしげながら、どこか呆れたような、それでいて愛らしい眼差しを向けてきた。
――濃い夜、か。
あれをそんなふうに言ってしまっていいのだろうか。
「まさか、本当に覚えてないの?
思い出させてあげようか?
それにね、私の話なんてまだ始まってもいないんだから。
ハヨンの悩みだって、ちゃんと聞いてあげる」
セラはそう言うと、呆れたように笑った。
「私が何を言いたいのか、分かる?
このバカ」
ストローを片手でくるくる回しながら、こちらをじっと見つめてくる。
わざと考えさせようとしているのが見え見えだった。
「ゆっくり考えてみなよ。
私とデートするかどうか。
私が今、何を言ってるのか」
ここまで言われて気づかないようでは、本当に鈍感だ。
俺は観念して頷いた。
「分かった。
言いたいことは分かったよ。
今日、俺とデートしよう。
俺から誘う」
「うん、それでいい。
私は積極的な人のほうが好きだから」
「必要なら、花でも買っていこうか?」
「花?」
セラは嬉しそうに笑った。
何を考えているのかくらい、俺にも分かる。
今の彼女は、昔の俺たちをそのまま取り戻そうとしている。
きっとそういうことなんだろう。
だけど、本当にそれでいいのか。
そう思った瞬間、ある人の顔が脳裏をよぎった。
車へ向かう途中、ふとセラの手が目に入った。
そうだ。
さっきから感じていた違和感はこれだった。
髪型が変わったのかと思っていた。
でも違う。
以前と一番変わっていたのは、綺麗に整えられたネイルだった。
「よーし!
今日は最高のデートにしようね。
ハヨンはちゃんとレディーファーストできるもんね?」
車の前まで来ると、俺はぎこちなく助手席のドアを開けた。
セラは慣れた様子で腰を下ろし、その間もずっと笑顔のまま俺を見つめていた。
まるで、そうされることが当たり前だと言わんばかりに。
車を走らせてしばらくした頃、セラが急に言った。
「車、停めて」
しかも、できるだけ人の少ない駐車場がいいと言う。
また始まった。
相変わらず自分のペースだ。
戸惑いながらも、俺はとりあえず従うことにした。
向かったのは中央公園の地下有料駐車場だった。
地下一階。
四十九番付近に車を入れようとすると、セラが首を横に振る。
「そこじゃない。
入口に近すぎるし、明るいから。
もう少し奥のほう」
何を言っているのか理解できなかった。
それでも俺は、黙ってセラの指示に従った。
入口から離れ、人気のない地下三階へと車を走らせる。
六十番付近まで来たところで、セラが口を開いた。
「この辺で停めよう。
ほら、あそこに見える大きな車。
あの隣の柱のところに寄せて」
地下三階。
建物の一番下にあるフロアだけあって、人の気配はほとんどない。
地下二階までは空きスペースも十分あったはずなのに、どうしてわざわざここまで降りてきたのだろう。
しかも、数え切れないほど空いている駐車スペースの中から、よりにもよって大型車の隣を指定するなんて。
セラが何を考えているのか、俺にはまるで分からなかった。
俺は隣に停まっている黒いランドローバーへ、不審そうな視線を向けた。
頭に浮かんだのは、二つの可能性だった。
一つは――少しだけ、いや、かなり恥ずかしい想像。
そしてもう一つは。
まさか、あの車にセラの知り合いでも乗っているんじゃないか、ということだった。
知り合いという表現も何だか違う気がする。
仲間、とでも言えばいいのか。
もしそうだとしたら……。
あの車から誰かが降りてきて、俺を連れ去るつもりだったりして。
そんな馬鹿げた想像までしてしまうほど、この状況はどこか普通じゃなかった。
その瞬間、頭の中が一気に慌ただしくなった。
預金残高がなぜか頭をよぎる。
いや、そんなことを考えている場合じゃない。
今すぐ警察に電話するべきか。
ドアを開けて逃げるべきか。
それとも車を発進させて、そのまま逃げ切るしかないのか。
……いや、待て。
どうしてだ。
何のために?
俺は恐るセラの表情をうかがった。
「何、その顔。
ハヨン、どうしてそんなに驚いてるの?」
セラは俺を見て、くすりと笑う。
「まあ、おでこに汗までかいてる。
まさか私が、あなたを食べちゃうとでも思ってるの?」
セラのその一言を聞いた途端、俺は思わず安堵の息をついた。
そうだ。
俺はいったい何を考えていたんだ。
妙な妄想ばかり膨らませてしまっていた。
そんな俺をよそに、助手席のセラがゆっくりと身を乗り出してきた。
車内では窮屈な姿勢のはずなのに、その動きは驚くほどしなやかだった。
セラはいつも持ち歩いているルイ・ヴィトンのバッグを開けると、中から手錠を取り出した。
ひと目でおもちゃだと分かる手錠だった。
問題は、どうしてそんなものをバッグに入れて持ち歩いているのかということだ。
「なんでそんな物をバッグに入れてるんだ?」
思わず聞き返した。
普通の女性が、そんな物を持ち歩くとは思えない。
警察官にでもなるつもりなのか。
「面白いでしょ?
もっと面白いものもあるんだけど。
見てみる?」
まるで同じ趣味を持つ仲間と話しているような、そんな楽しそうな顔だった。
俺は「見せて」と一言も言っていない。
それなのにセラは迷うことなくバッグへ手を伸ばし、肩を震わせながら嬉しそうに笑っている。
……こいつ、本当に大丈夫か?
まさか変なものなんて持ち歩いてないよな。
いや、さすがにそんなはずはない。
そう自分に言い聞かせながらも、嫌な想像ばかりが頭をよぎる。
思わず息をのみ、固唾をのんで見守った。
そして彼女がバッグから取り出したのは――。
「じゃーん! 見て見て。
どう? 本物そっくりでしょ?
それにね、こんなのもあるんだよ」
「お、おい……それは……」
思わずため息が漏れた。
そういえば――。
シン・セラ。
高校時代の同級生であり、俺の初恋の相手。
そして……。
「ぶぅぅぅん。ブルブルブル。
ほら、五段階で強さも調節できるんだよ。
気持ちいいでしょ?」
効果音を口にしながら、セラはマッサージガンを俺の肩に軽く当てた。
無邪気な笑顔からして、本人は心の底から楽しんでいるらしい。
「お、おい! やめろって。
こんなところで何やってるんだよ」
「どう?
面白いでしょ?
それに、これは私専用なんだから」
「うるさい。
本当に何やってるんだよ……」
思わず声を荒げると、セラは取り出した物をバッグへしまい、おもちゃの手錠を自分の両手にはめた。
そのまま両手をバッグの中へ隠してしまう。
――まさか、拗ねたのか?
そう聞きたくなった。
だが、口をついて出たのは別の言葉だった。
「おい、本当に何なんだよ!セラ!」
「どうしたの? 期待してたのに、がっかりしちゃった?」
いたずらっぽく笑うと、セラは顎を少し上げた。
「ほら、早く出発しようよ。
今日は私がハヨンの捕虜になってあげる。
それとも――ハヨンが私の捕虜になる?」
いったいセラは何を考えて、わざわざこんな地下まで車を停めさせたのだろう。
結局、俺には分からない。
本当に、自分勝手なやつだ。
そう思うしかなかった。




