不思議な時間
水曜日、俺は再びあの家を訪れた。
前に来た時とは違い、大きな鉄門は、まるで俺を待っていたかのようにわずかに開いていた。
――こんなんで危なくないのか。
そう思った矢先、視界の端に監視カメラが入った。
この家だけじゃない。もうこの辺り一帯には、至るところに監視カメラが設置されている。
それを見た途端、考えはあっさり切り替わった。
――まあ、大丈夫だろう。
とはいえ、だからといって何の断りもなく他人の家に入るのは気が引けた。
せめてもの礼儀として、俺はインターホンを一度押すことにした。
「こんにちは」
「はい、こんにちは。どうぞ、お入りください」
インターホン越しに聞こえたハナのお母さんの声は、まるで俺が来ることを知っていたかのように、妙に親しげだった。
「ご無沙汰しています、ハナのお母さん」
彼女は何か言いたげだったが、結局、微笑むだけだった。
そして、ふと香りがした。
ついさっきまで湯気の中にいた人から移ってきたような、柔らかくて、どこか安心する匂いだった。
俺は思わず、ごくりと喉を鳴らした。
「喉、渇いていませんか。先生」
その言葉に、俺は思わず身構えた。
「え? あ……いえ、大丈夫です」
間の抜けた返事だった。
頭の中を覗かれたような気がして、妙に落ち着かなかった。
「少し待っていてください。すぐ用意しますから」
俺の返事に意味があったのかどうかは分からない。
彼女は小さく笑うと、そのまま台所のほうへ向かっていった。
俺はその背中を、なぜか目で追っていた。
若い女性に対して抱くものとは少し違う。
うまく言葉にできない艶やかさというか、人を無意識に引き寄せるような空気が、彼女にはあった。
別に何かを考えていたわけじゃない。
それなのに、俺は少しだけ緊張していた。
今日もハナの姿は見えなかった。
いつも二階で過ごしているのだろうか――そんなことも考えた。
けれど、今どきの若い世代が親とずっと一緒にいるのを好むとも思えない。
そんなふうに親世代のことをぼんやり考えていた時、不意に視線はハナの継母へ向いた。
台所に立つその後ろ姿を、俺は静かに眺めた。
彼女はやはり若く見えた。
「はい、先生。どうぞ」
金色のトレーの上には、オレンジジュースとケーキが一切れ載っていた。
「食べてみてください。チーズケーキなんです。昨日、出かけた時に美味しそうで、つい買っちゃって。ニューヨーク……何でしたっけ」
「ニューヨークチーズケーキ?」
知っている名前だった。
だから、考えるより先に言葉が口をついて出た。
「そう、それです。ニューヨークチーズケーキ。確かそんな名前でした」
彼女は名前が分かったことが嬉しかったのか、小さく両手を合わせた。
「ありがとうございます。実は、俺もまだ食べたことがなくて。いただきます」
嘘だった。
カフェで、一度だけ食べたことがある。
「……あ、美味しいですね。普通のケーキと少し違います」
「そうですか?」
「はい。美味しいです」
それも半分くらいは嘘だった。
不味くはない。
けれど、次に自分から選ぶなら、たぶんチョコレートのほうだった。
けれど、俺が思っていた通りだった。
見た目だけじゃない。
ニューヨークチーズケーキなんて選ぶところまで、どこか若い。
……まさか、俺のために。
そんな考えが頭をよぎって、すぐに苦笑した。
その発想自体、少し若すぎる気がした。
「一口どうですか?」
「じゃあ……そうします」
普通なら遠慮しそうなものなのに、彼女はそうしなかった。
俺が使っていたフォークで小さく切り分けると、そのまま口へ運んだ。
すぐ隣だった。
ふわりと微かな香りがして、それが妙に意識に残った。
「あ、そういえばハナを呼ばないといけませんね。ハナ、先生が来てるわよ」
別に惜しむものなんて何もない。
なのに、この感じは何だろう。
返事はなかった。
ハナのお母さんは二階を見上げて、もう一度声をかけた。
「ハナ?」
俺はオレンジジュースを飲み、ケーキを口に運びながら、ハナの声を待った。
けれど、返事は聞こえてこなかった。
「返事がないわね。寝てるのかしら。まだ寝る時間じゃないと思うんだけど……」
彼女は耳たぶに軽く触れながら、不思議そうに首を傾げ、ソファから立ち上がった。
「先生、少し召し上がっていてください。私、様子を見てきます」
「はい。分かりました。俺は気にしないでください」
そう言って笑うと、彼女はそのまま二階へ上がっていった。
彼女が姿を消すと、広い空間に俺だけが残された。
さっきまで空気に溶けていた香りさえ、どこかへ消えてしまった気がした。
その途端、家の中に妙な空気があることに気づいた。
俺はこの家にとって何なんだろう。
勝手に入り込んだ侵入者か。
招かれた来客か。
それとも――客。
考えてみれば、どれも少し違う気がした。
自分がひどく曖昧な場所に立っているような、そんな感覚があった。
居心地の悪い姿勢のまま、俺は部屋のあちこちへ視線を巡らせた。
前に来た時と比べて、特に変わったところはなさそうだった。
広い家なのに、妙なくらい整っている。
綺麗というより、きちんと整えられている――そんな印象だった。
そうして五分ほど、一人で待っていた。
やがて、二階のほうから足音が聞こえてきた。
「すみません、先生」
少し早足で階段を下りながら、ハナのお母さんは言った。
「ハナ、どうも体調が良くないみたいなんです。今日はこのまま休ませたほうがいいかもしれません」
「そうなんですか」
「少し風邪みたいな症状もあるみたいで。それに、左腕の痺れも強く出ているみたいなんです」
「痺れ、ですか?」
「はい。その話はまだしていませんでしたね。
前に一度、大きな怪我をしたことがあって……その後から、時々腕が思うように動かないことがあるって、ハナは言っているんです。
病院では特に異常はないと言われているんですけど……」
俺は少し記憶を辿ってみた。
前にハナと会った時、そんな様子は感じなかったはずだ。
だから、少し引っかかった。
ハナは、一体どんなものを抱えているんだろう。
「お医者さんの話では、トラウマとか、事故の後遺症みたいなものかもしれないって」
「そういうこともあるんですね」
「たぶん、そうなんでしょうね。
私も理解はしているつもりです。
……いろいろありましたから」
俺は何も言えなかった。
どこかで、そういう話なのかもしれないとは思っていたからだ。
「もしよければ、俺が一度見に行きましょうか」
そう口にしかけた時だった。
ハナのお母さんは、ふと思い出したように言った。
「そういえば、ハナが食べたいものがあるみたいなんです」
「食べたいものですか?
あ……でしたら、俺が買ってきます。
何がいいんですか?」
「まあ、先生がですか?」
彼女はごく自然に笑った。
ただ笑っただけなのに、なぜか胸が少し落ち着かなかった。
「駄目ですか?」
俺はもう一度聞いた。
「駄目じゃありませんよ。
でも、作ってほしいって言うんです。
私が作ったものを食べたいって」
「あ……そうなんですね」
「でしたら、この機会に買い物も兼ねて、一緒に出かけませんか?」
――行きませんか。
疑問形のその一言が、不思議なくらい耳に残った。
柔らかく上がって、そのまま静かに落ちていくような声だった。
「はい。でしたら、荷物くらい持ちます」
そうして俺は、彼女と一緒に買い物へ出ることになった。
外に出てから、俺たちは少し不思議な時間を過ごしていた。
一緒に笑いながら果物を選んだり、通りがかりにおでんを一つずつ食べたり。
途中でカフェにも入り、コーヒーを飲みながら他愛のない話をした。
そして彼女は、俺の好きな食べ物や果物、趣味のことまでいろいろと聞いてきた。
話題が途切れそうになると、好きな映画や最近読んだ本について尋ねてきたりもした。
どこか面接みたいだと思った。
なのに、不思議と堅苦しさはなかった。
むしろ――初対面同士が、ぎこちなく距離を測っている時間に少し似ている気がした。
不思議だった。
こうして外に一緒に出てみると、ますます彼女の年齢が分からなくなった。
果物を選ぶ時も、野菜を見る時も迷いがない。
一つひとつ確かめるように見て、その中から自然に良いものだけを選び取っていく。
慣れているんだと思った。
けれど、その手つきを見たあとで彼女の顔を見ると、どうにも落ち着かなかった。
そこだけ時間の流れ方が噛み合っていないような気がした。
駄目だ。
彼女は、ハナのお母さんなんだから。
「そろそろ帰りましょうか」
「買うものは全部買えましたか?」
「はい。重くないですか?」
俺の手には、肉や牛乳、それにいくつかの食材とお菓子が入った袋。
ハナのお母さんの手には、りんごとみかん、それから桃が収まっていた。
「大丈夫です」
家へ戻る道の途中、ハナのお母さんは、その後に予定がないなら一緒に夕飯を食べていかないかと誘ってくれた。
けれど、俺は遠慮した。
別に嫌だったわけじゃない。
ただ、何となく違う気がした。
まだ二日目だ。
俺がこの家で何をする立場なのか、まだ自分でもはっきり分かっていない。
だから、ここで当然みたいに食卓に混ざるのは、少し違う気がした。
――なのに。
彼女は、俺がそんなことを考えているのを知っているみたいだった。
「もっと気楽にしてください。ただの家族だと思って。
今日は静かに帰してあげます。
でも、次は駄目ですからね。
今度は一緒に夕飯を食べるって約束してください」
「は、はい……分かりました。ハナの、お……お母さん」
うまく口が回らなかった。
当たり前の呼び方のはずなのに、前に一度注意されたことを思い出してしまった。
俺の返事を聞くと、彼女は少し目を細めた。
「私の名前は、ソニョンです。
二人の時は、“お母さん”じゃなくて、ソニョンさんって呼んでもいいですよ」
笑っていた。
笑っていたはずなのに、なぜか断る余地がないようにも聞こえた。
「……じゃあ、そう呼ぶようにします。ソニョンさん」




