まだ知らない
ユ・ハナ。二十歳になった彼女は、高校さえ卒業できなかった、まだ若い少女だった。
幼さが残っている――そう言ってしまえば簡単だ。けれど彼女には、一生消えることのない痛みがある。
ひどく痩せていて、背も小さい。そんな彼女は、学生時代にいじめを受けた。
その時間は、卒業や季節の移ろいだけでは終わらなかった。心に残された傷は、その後も長く彼女の中に居座り続けた。
強い恐怖と記憶の揺り返しに苦しみ、二度、自ら命を絶とうとしたことがある。
ハナの母親は、少し変わっていた。
俺と会ってあれこれ話をしたときも、娘のことより先に、なぜか俺の名前ばかり気にしていた。
不思議ではあった。だが、そのときは何か事情があるのだろう、とそれ以上は考えなかった。
ともかく、俺がこの家を訪れるのは今日が初めてだった。
事前に母親から送られてきた書類には、一通り目を通してある。そこには、ハナが今も精神科で治療を受け続けていることが記されていた。
もっとも、こんな裕福な家に、なぜ俺が必要なのかとは思った。
だが、依頼は向こうから来た。対象者本人がこちらに申請してきた以上、俺はそのために選ばれてここにいる。
何を、どこまで踏み込むべきなのか。
それは実際にハナと話してみなければ分からない。
まずは相談を通して、彼女の空気を知るところから始めるつもりだった。
若い女性の部屋を訪れるなんて、いったいどれくらいぶりだろう。
セラと知り合っていた頃、それが最初で最後だった気がする。
当時のセラの部屋は、驚くほど物が少なかった。
学生なのに机ひとつ置かれていなかったし、服が並んでいそうなハンガーラックにも、ほとんど何も掛かっていなかった。
記憶に残っている私物といえば、せいぜい化粧品が数点ほど。
今はどうしているだろう。
そんなことを考えた瞬間、ふいにセラのことを思い出していた。
「片づけたんですけど……」
ハナの部屋は、扉のすぐ横に机が置かれていた。
壁際にはベッドがあり、布団はきちんと整えられている。
もっと華やかな、いかにも若い女の子らしい部屋を勝手に想像していた俺の予想は外れた。
以前に見たセラの部屋と比べても、思ったほど違いはない。
違うものがあるとすれば、机とベッド、それからドレッサーに並んだ化粧品が少し増えたくらいだった。
……もともと、こんなものなんだろうか。
そう考えたとき、不意に何かの香りが鼻先をかすめた。
匂いと呼ぶには少し違う気がした。
どこかで、一度だけ嗅いだことのある香りだった。
「そういえば、先生って、正確にはどんなお仕事をしてるんですか?」
香りを追っていたせいで、俺はハナの質問を聞き逃していた。
するとハナが、少し声を張った。
「クォン・ハヨン先生。どうしたんですか?」
「……あ、ごめん。悪い。何て言った?」
「先生のお仕事です」
「俺の仕事?」
「はい。そうじゃないと、これから何をするか、一緒に決められないじゃないですか」
少し意外だった。
受け身で話を聞くだけの子だと思っていたわけじゃない。
けれど、彼女は最初から自分で話を進めるつもりでいるらしかった。
「そうですね。確かに、その通りです」
俺が笑って返すと、ハナも小さく笑った。
少し意外だった。
書類の中で読んだ彼女より、その笑顔はずっと自然に見えた。
「まず、先生は私のことを知っていますよね。だから、少しくらいは信用してもいいです」
「そうですね」
そう答えかけて、言葉が止まる。
ハナは続けた。
「でも、全部じゃないですよね?」
「全部じゃない?」
「はい。先生が知ってるのって、結局、お母さんから聞いたことだけじゃないですか」
言われてみれば、その通りだった。
本人の口から聞いた話は、まだ何ひとつなかった。
「先生も気づいてると思いますけど、下にいるお母さんは、私の本当のお母さんじゃないんです」
唐突だった。
「実の母は、貧乏なお父さんが嫌で、私を置いて出て行ったって聞いてます」
「……貧乏なお父さん?」
一瞬、聞き間違えたのかと思った。
何の話だろう。
この家は、どう見ても裕福に見える。
父親が後から成功したということなのか。そこまで考えかけたところで、
俺の顔に出ていたのかもしれない。
ハナはすぐに続けた。
「下にいるお母さん、お金持ちなんです」
予想していた答えとは、まるで違っていた。
俺の考えは、あっさり外れた。
下で会った女性は、母親と呼ぶには思っていたより若かった。
だから勝手に、この家の主人と結婚して暮らしている人なのだと思っていた。
けれど、逆だった。
裕福なのは父親ではなく、彼女のほうだった。
そこでようやく、自分がどれだけ雑に人を見ていたのかに気づいた。
真っ先に浮かんだのは、若かった。 男側の家だと思っていた。
違った。先入観だったのかもしれない。
「そんなに驚かないでくださいよ」
ハナは少し笑った。
「その顔、ちょっと面白いです」
からかうような言い方だった。
「まあ、私も最初はよく分からなかったですけど」
そう言って、少し考えるように視線をずらす。
「お母さん、中二のときにお父さんと会ったらしいんです」
「それで、いろんな話をしてくれました」
「私、聞いたことあるんですよ」
ハナは笑った。
「うちのお父さん、格好いいわけでもないし、面白い人ってわけでもないのに、なんで好きになったんですかって。」
一拍置いて、
「そしたら、それがいいって言ってました」
少し肩をすくめる。
「変な人ですよね。うちの新しいお母さん」
話が少し、周りの人の話に寄りすぎている気がした。
ハナ自身の話を聞いてみたいと思った。
けれど、それが彼女にとって苦しいことなのか、それとも必要なことなのかは、まだ分からない。
だから順番を変えることにした。
「そうなんだ」
俺は一度うなずいた。
「それと、さっきの質問だけど。俺は福祉士なんだ」
「福祉士の先生?」
「うん。だから、一方的に聞くだけじゃなくて、一緒に考える仕事かな」
「なるほど」
ハナは小さくうなずいた。
「だから、俺にも少し聞きたいことがある」
「はい。何でも聞いてください」
俺は少しだけ間を置いた。
「ハナは、今も病院に通って治療を続けてるんだよね」
「はい。そうです」
ハナはあっさり答えた。
「お母さんが登録してくれてたから行ってたんです。でも、最近は行ってません」
「……え? どうして?」
「前はお母さんと一緒に通ってたんですけど、最近は少し大変みたいで」
そこで一度言葉を切る。
「だから先生を探したんだって言ってました」
少し考えてから、続けた。
「あと、私みたいな子は国の何か……そういう支援とか教育みたいなのを受けたほうがいいって言ってた気がします」
「だから、結局は先生みたいな人が必要だったんじゃないですか」
俺は思わず笑った。
「詳しいね」
「そうですか?」
「うん。だったら、説明することは少なくて済みそうだ」
話を聞いているうちに気づいた。
ハナは、下にいる女性のことを自然に「お母さん」と呼んでいた。
俺の感覚では、血のつながらない相手をそんなふうに呼ぶのは、簡単なことじゃない気がしていた。
けれど、ハナはそんなことを少しも気にしていないように見える。
……これも、俺の先入観なんだろうか。
明るいから大丈夫。
そんなふうに考えるのも、きっと違う。
俺はまだ、ハナのことを何も知らない。
「じゃあ、これからよろしくお願いします、先生」
話していて、不思議と気が楽だった。
もっと慎重に言葉を選ばないといけない相手だと思っていた。
けれど、少なくとも今のハナは違った。
また勝手に決めつけていたのかもしれない。
「いや」
俺は少し笑った。
「むしろ、よろしくお願いするのは俺のほうかもしれない」
ハナは、自分がやってみたいことや、これまでできなかったことを話してくれた。
ほとんどは外に出ることだった。
時間があれば、勉強も少し教えてほしいと言った。
本来なら、そこは俺の担当じゃない。
俺がここへ来た目的は別にある。
社会に戻るための支援をしたり、生活について話したり、必要なら環境を整えたり。
それが、俺の仕事だった。
なのに。
「私、先生が男の人でよかったです」
ハナは笑った。
「本当に、安心しました」
その言葉を聞いた瞬間、
ここへ来る前、センター長に言われたことを思い出した。
「うちのセンターでは、クォン・ハヨン先生が一番若いですし、体力もありますから」
センター長は出発前、そう言っていた。
「相手はまだ若い子です。できれば目線を合わせてあげてください無理のない範囲でいいので、やりたいことがあるなら一緒にやってあげてください」
一拍置いて、
「それに、今回はうちにとって大事な依頼ですから」
話を終え、部屋を出ようとしたときだった。
ハナが何か言いたそうに俺を見た。
「どうしたの。まだ何かある?」
「その……」
ハナは少し迷ってから言った。
「匂いのことなんですけど」
「匂い?」
「はい。先生、部屋に入ったとき、何か探すみたいに匂いを気にしてましたよね」
言われてみれば、そんな顔をしていたかもしれない。
「ああ、それ?」
俺は少し笑った。
「実は、どこかで嗅いだことがある気がして」
「あ、はい」
ハナは軽くうなずいた。
「今朝、お母さんと一緒に部屋を片づけたんです」
「そのとき、お母さんが使わない香水があるって言って、部屋のあちこちに少しかけていって」
少し笑う。
「私も最初は、ちょっと落ち着かなかったです」
「そっか」
俺は最後にもう一度部屋を見回した。
「じゃあ、これから少しずつやっていこうか」
「はい」
ハナはうなずいた。
「気をつけて帰ってください。ハヨン先生」
階段を下りながら、いろいろなことを考えた。
リビングでは、ハナのお母さんがソファに腰掛けて、ゆっくりお茶を飲んでいた。
「あら、お疲れさまでした」
こちらを見る。
「もう終わりましたか?」
「はい」
俺は少し考えてから答えた。
「思っていたより、普通に話せました」
女性は少し笑った。
「うちのハナは明るい子なんです」
一度、カップを置く。
「だから、どうしてあんなことになったのか……私も分からなくて」
「そうですか」
俺は軽く頭を下げた。
「これからよろしくお願いします」
女性は首を振った。
「その言葉は、こちらが言うものですよ」
「では、失礼します。お母さん」
挨拶をして玄関へ向かおうとした。
「……少し、お待ちください」
呼び止められて振り返る。
「何か、お話でも?」
彼女は財布から一枚のカードを取り出し、俺へ差し出した。
「これからは、こちらを使ってください」
一瞬、意味が分からなかった。
俺は反射的に首を振った。
「いえ、そういうのは受け取れません」
すると彼女は困った様子も見せず、ただ微笑んだ。
「それなら、ハナに預けましょうか?」
その言葉で、ようやく分かった。
どうやら、俺は何か勘違いしていたらしい。
これは俺へのものじゃない。
ハナと過ごす時間のためのものだった。
けれど結局、俺はカードを受け取らなかった。
家を出て、歩きながらスマートフォンを取り出した。
出る前には、誰かから一件くらい連絡が来ている気がしていた。
けれど、何もなかった。
俺はセラに送ったメッセージを開いた。
既読はついている。
返事はなかった。
少しだけ画面を見て、それを閉じる。
何を考えたかったのか、自分でもよく分からない。
その代わり、不意に腹が減った。
「久しぶりに緊張したからかな」
思わず笑う。
「急に腹減ったな」
車を止められそうな場所を探しているうちに、即席トッポッキの店を見つけた。
昔と違って、こういう店も随分減った気がする。
好きな具を好きなだけ入れて、最後に鍋の底をこそげるようにして炒め飯を食べる。
あれが良かったのに。
店に入った俺は、ラーメン、春雨、キムマリ、それからホルモンまで追加した。
やりすぎかもしれないと思ったけれど、今日はそういう日だった。
料理が運ばれてくる。
熱い。
辛い。
なのに箸が止まらない。
頬を伝ったものが汗なのか、別の何かなのかは考えなかった。
ただ、驚くほど美味かった。
最後はチーズと海苔をかけた炒め飯まで全部食べた。
鍋に張りついた少し焦げたところまで、きれいに。
セラは、こういうものが食べたかったんだろうか。
今日、一緒に食べたいと言っていたセラのことを思い出した。
財布からカードを取り出したところで、指が止まった。
少し考えて、それを戻す。
現金を払った。
理由はよく分からない。
ただ、今日はそうしたかった。
汗を冷ますついでに、少し歩いた。
そのままセラに電話をかける。
出ないと思っていた。
けれど、意外なほど早く繋がった。
少し驚く。
聞こえてきた声は、まだ機嫌が悪そうだった。
それに、少し眠そうでもあった。
どうやら起こしてしまったらしい。
「悪かった」
俺は少し笑った。
「じゃあ、もう少し寝て」
けれど、電話をしている間ずっと口の中が妙だった。
少しひりつく。
血の味がする気もした。
そういえば、熱いものを食べるとき、俺はあまり冷まさない。
そのまま口に入れてしまうことがある。
多分、またやった。
上あごか、舌か。
どこかが少し切れたんだろう。
久しぶりだった。
帰る途中、香水専門店に寄った。
それで、前にセラが教えてくれた香水を買った。
考えてみれば。
ハナの部屋で感じた匂いは、セラから香るものと少し似ていた。
店を出て、小さな紙袋を見る。
少し考える。
「今日は」
誰に言うでもなく呟く。
「寝る前に、枕と布団に少しかけて寝ようかな」




