鉄門の向こう
そうしてセラをカフェに一人残したまま、俺が車を走らせて向かった先は、街中から少し離れた高級住宅街だった。
あちこちにマンションが建ち並ぶ今の時代には珍しく、庭があり、芝生が敷かれた家々が並ぶ場所だった。
車を停めると、俺の身長より二回りほど高い黒い鉄門の前で足を止めた。
スマートフォンを触りながら、しばらくどうするべきか考えた。
そして迷った末、門の横についているインターホンを押すことにした。
すぐに誰かが応答してくれることを期待した。
だが、機械越しに人の声は聞こえてこなかった。
もう一度押そうとして指を持ち上げたが、そのまま止まる。
「……違う。違うだろ」
指先を振るようにして、一歩後ろへ下がった。
その気になれば越えられない高さの塀ではない。
けれど、銃口みたいな監視カメラが冷たい目で俺を見下ろしている。
通りに人影はない。
だが、この無機質な装置だけは、それぞれの家の塀や門の前に当然のように設置されていた。
これを欺くことは、ほとんど不可能に近い。
機械の目を通して世界を見て、誰かを監視する。
機械は持ち主と言葉を交わしたりはしない。
けれど、何かが起きれば、その鋭く見つめ続ける透明なレンズを通して情報を差し出すだろう。
必要なら、周囲の監視カメラたちまで巻き込んで。
それぞれの言葉で、互いに繋がっていく。
もちろん、持ち主が保存された記録を許可したならの話だ。
思っているほど、人のために情報を差し出すことは簡単じゃない。
今の時代は、自分を見せずに隠れて生きる人間が増えたからだ。
鉄門に背を向け、そのまま諦めて帰ろうとした、その時だった。
沈黙していたインターホンから、人の声が聞こえた。
『待って! 少しだけ待ってください!』
まるで待ち構えていたみたいな、焦った響きだった。
俺は慌ててインターホンに向かって声を返した。
「はい。大丈夫です。待っています」
――そう。
この声だ。
俺は今日、この声を聞くためだけに一人でここへ来たのだった。
およそ十秒ほど経った頃だった。
――ガチャリ。
黒い鉄門が自動で開く音がした。
俺は身体が通れるくらいだけ門を開き、中へ入った。
青い芝生を横切ると、玄関の前にはいくつもの鉢植えが並べられていた。
種類は分からない。
花には詳しくない。
黒く大きな鉄門とは違って、玄関の扉は明るい色をしていた。
たぶん、ベージュ色だと思う。
ベージュ色の扉には金色の模様が施されていて、ドアノブも同じ金色だった。
俺はそのドアノブを引いた。
こちらは鉄門とは違って、鍵がかかっていなかった。
まるで俺が来ることを知っていたみたいに。
歓迎されているような気さえした。
「お邪魔します」
持っていた鞄を整え、両手を前で揃えた。
靴も脱がないまま、誰かが迎えに来るのを玄関先で待つことにした。
白い大理石の床。
見たところ埃一つなく、驚くほど綺麗に磨かれている。
こういう床を施工するとしたら、一体いくらくらいかかるんだろう。
そんなことをぼんやり考えていた時だった。
声が聞こえた。
――インターホン越しに聞こえた、あの声ではなかった。
「いらっしゃいましたか。遠いところ、わざわざありがとうございます」
年齢の判断が難しいくらい、上品に化粧をした女性が現れた。
彼女は、この先俺が会うことになる女性の母親だった。
以前、一度だけ会ったことがある。
「いえ、とんでもないです。お母様」
その呼び方を聞くと、彼女は少し目を細めて微笑んだ。
どういう意味なのかは分からない。
けれど、嫌そうには見えなかった。
前にも一度考えたことがある。
俺の予想では、この人はあの人の実の母親じゃない。
――それとも。
まさか俺は、今目の前にいるこの女性のことを、勝手に買いかぶっているだけなんだろうか。
「あら、私ったら。どうぞ中へ。先生」
彼女は俺を家の中へ招き入れると、自分はどこかへ足を向けた。
「とりあえず、そちらのソファに座っていてください」
明るい茶色のソファは少し古びて見えた。
けれど家全体の雰囲気とは不思議なくらい馴染んでいる。
洋風の建物に、木材を活かした内装。
高い天井にはシャンデリアが吊られていて、それが妙に気に入った。
さすが金持ちの家というべきか、テレビもかなり大きい。
「……何インチくらいあるんだろう」
「どうされました? 先生」
離れた場所から、こちらへ歩いてくるお母様の姿が見えた。
彼女は料理を載せたトレーを持って歩いてきた。
歩幅を小さくして早足で向かってくるその姿は、急いでいるようにも見えたし、どこか落ち着かないようにも見えた。
「え? いえ、何でもありません」
「テレビ、大きいでしょう?」
そう言うと彼女は、
「さあ、どうぞ召し上がってください。先生」
と言ってフォークを差し出した。
皿の上には、りんごと蜜餅、それからオレンジジュースとコーヒーが一杯ずつ用意されていた。
「来られる時間に合わせて、先に準備していたんですよ」
間違いなく俺より年上だ。
しかも一人の母親だというのに、笑った時の雰囲気は妙に人を惹きつけるものがあった。
「ありがとうございます。……お母様もご一緒にどうですか」
「私は別に……それに、その“お母様”って呼び方、いつ聞いてもなんだか落ち着かないんです。
それに、こんなに格好いい先生に隣でそんなふうに言われると、余計に変な感じがしてしまって」
俺は気まずそうに笑って、なんとなく前髪を撫でた。
「あ、それからテレビ、あれ100インチなんですよ。
あんまり大きいのはやめてって言ったのに、主人が“テレビは大きい方がいい”なんて言い張って……。
目だってそんなに良くないくせに……」
夫婦って、こういう会話をするものなんだろうか。
そんなことを考えながら、テレビの左上に飾られていた家族写真へ視線を向けた。
――三人で暮らしている家なんだな。
「そういえば、ハナさんの姿が見えませんね?」
確かに声は聞いた。
俺は写真から目を戻し、フォークでりんごを一つ刺しながら尋ねた。
果汁が少し跳ねた。
「ハナですか?
自分の部屋にいますよ。
さっき先生が来たって分かって、門を開けてくれたんですけど、そのあと急に部屋に駆け込んじゃって」
「そうだったんですか」
「たぶん、お化粧でもしてるんじゃないですか?」
彼女は何でもないことのように言うと、自然な動作でコーヒーカップに手を伸ばし、そのまま口元へ運んだ。
飲むというより、香りを楽しんでいるようにも見えた。
ふう、と小さく息を吹きかける音。
続いて静かにコーヒーを飲む音が聞こえる。
俺の視線は、彼女がカップを置くところまで追ってしまった。
カップの縁には、赤い口紅の跡が残っていた。
「あら、先生にもコーヒーを用意すればよかったかしら?」
「あ、いえ。ちょうど冷たい飲み物が飲みたかったところです。
それと――送っていただいたハナさんの資料、確認しました」
「そうだったんですか?
そういえば最初、センターから担当が“ハヨン”さんだと聞いていたので、てっきり女性の先生だと思っていたんですよ。
こんなに素敵な男の先生だなんて思わなくて。
私、ずいぶん適当でした。
こんなことなら、もう少しちゃんと準備しておけばよかったですね」
「え? 僕ですか? いえ、そんな……」
最後に“お母様”と付け加えそうになった。
でも、あまりその呼び方は好きじゃないみたいだったから、言葉を飲み込んだ。
それに、適当だったと言うけれど、これ以上どこを気にする必要があるんだろうとも思った。
もしあるとしたら――化粧や服装、あるいは身につける装飾品くらいだろうか。
静かな沈黙の中、俺はハナが来るのを待っていた。
それと同時に、変に気まずくならないよう、ハナのお母さんに話しかけてみることにした。
「ところで、ハナさんは大丈夫なんですか?」
「ハナですか?
ああ、先生も普通にハナって呼んでください。
“さん”とか“氏”とか付けると、なんだか変な感じだから」
「はい。分かりました」
「先生が何を考えてるのか、私は分かっています。
でも、ハナは明るくて優しい子ですから。
今は家でも、特に目立ったことはしなくなりましたし」
「そうですか」
「先生は先生のやり方で接してください。
あの子のこと、あんまり気にしすぎなくていいです。
その方がハナのためにもなると思うから」
「分かりました。
本来なら保護者の方と相談しながら進める形になるんですが、それではそういう方向で進めても大丈夫でしょうか?」
「ええ、そうしてください。
――クォン・ハヨン先生」
目の前の人は、俺の名前を何度か口の中で繰り返したあと、
「そういえば、ハヨンとハナって名前、少し似てるわね」
そう独り言みたいに呟いて笑った。
――そうだ。
今になってようやく思い出した。
ハナのお母さんを表すなら、この言葉だった。
艶っぽい。
身体から漂う匂いは香水というより、化粧品の香りの方が強かった。
「先生! 先生!」
二階から若い女性の声が聞こえた。
俺は、その声の主がハナだと直感した。
ハナのお母さんは、
「じゃあ」
とだけ言って席を立った。
そのあと、ハナが階段を下りてきた。
「えー。本当だ。先生、男の人だったんだ」
高校生くらいに見える女の子は、珍しいものを見るみたいに俺を左右から眺めた。
「クォン・ハヨン先生……って聞いてたけど」
「はい。私がクォン・ハヨンです」
若いからといって、初対面でため口を使うのは失礼にあたる。
俺は丁寧な口調のまま、鞄から名刺を取り出して見せた。
「本当なんだ?
お母さんが話してくれた時は、てっきり嘘だと思ってたのに……」
目の前の少女の表情は、無表情というわけでもなかった。
かといって、笑っているわけでも泣いているわけでもない。
どこか曖昧で、掴みどころのない顔をしていた。
「あっ! 今日、何か相談をするって言ってませんでした?」
「はい、そうです。
難しいことではありません。
これから私とハナさんが仲良くなるための方法――そんな感じに考えてもらえれば大丈夫です」
「分かりました。
じゃあ私の部屋に行きましょう。
部屋で話しましょう、先生。
なんだか楽しそう。
それに先生、本当に格好いいですね」
「……あ、ありがとうございます」
俺は薄く笑うだけだった。
本来なら相談は保護者と一緒に進めることも多い。
けれど、当人の意思を大切にしたい俺は、あらかじめ決めていた通り、その形で進めることにした。
ハナの後ろについて階段へ向かう前、なぜだか少しだけ母親のことが気になった。
けれど、階段を上る音に紛れるように、ハナのお母さんは静かに頭を下げた。
「よろしくお願いします、先生」
そう言った。
さっきまでとは違う、落ち着いた空気だった。




