変わらない香り
俺は勉強が好きでもなかったし、得意な方でもなかった。
もちろん、セラも同じだった。
俺たちは似ていた。
強いて正確に言うなら、成績はセラの方が少し悪かった。
けれど――。
時間が経つにつれて、セラは今とは比べものにならないくらい大人になっていった。
そして、俺がそれまで知っていたシン・セラとはまるで違う、
どこか刺激的な空気を纏うようになっていった。
中学三年の卒業が近づく頃には、セラはもう近所の男子たちの間では有名人だった。
中学生だろうが高校生だろうが関係なかった。
そんなセラの行動で、俺がどうしても理解できなかったことがある。
帰る時間が遅くなった日になると、セラは決まって俺を呼び出して、その日にあった出来事を延々と話し続けるのだった。
場所は公園だったり、近所の遊び場だったり。
それも違えば、コンビニの前にある椅子に座って話し込んだ。
そのせいで、セラとばかり仲が良かった俺は、一度も彼女ができたことがなかった。
もちろん、いつも俺にはセラがいたから、他の奴らのことなんて別にどうでもよかった。
「今日も、まあいつも行くところだけど、カラオケ行って、初めてお酒も飲んでみた。
毎日呼び出されるから面倒ではあるんだけど、もう慣れちゃって、今はむしろ平気。
何より、自分のお金を全然使わないで遊べるから気分いいし」
中学三年で酒を飲むなんて。
しかも相手は高校生だ。
セラはこういう話を、俺が聞いてもいないのによく話した。
問題なのは、いつも似たような話ばかりすることだった。
自慢とも言えないような自慢を。
俺の気持ちなんて分かってないんだろうか。
……いや。
考える必要もないのかもしれない。
そんな風に考える自分が嫌になることもあった。
あいつらに嫉妬している。
でも、本当は。
俺とセラには何の関係もない。
俺たちはただの中学の同級生で、近所の友達。
結局、それだけなんだから。
「そうか。今日は遅いし、早く家に帰って休めよ」
「家? 嫌だよ。帰ったらまた、あの鬱陶しい人がうるさいから」
「それでも鬱陶しい人って……言い方ひどくないか?」
セラが言う“鬱陶しい人”というのは、自分の父親のことだった。
セラには母親がいなかった。
小さい頃に見た記憶はある気がする。
でも、それがいつだったのか思い出せない。
いつから会っていないのかも分からない。
写真も一枚も残っていないから、顔すら知らない。
亡くなったのか。
それとも、自分を置いて出て行ったのか。
そのことさえ分からないと、セラは俺に話していた。
俺は、その頃のセラを見ていて、
どこか不幸な人なんだと思っていた。
「俺の部屋でこっそり寝ちゃダメ?」
「え? 俺の部屋で? ダメだよ。母さんと父さんいるし」
セラは何度か俺の家に来たことがある。
放課後や休日に、勉強するって理由をつけて何度か出入りしていたからだ。
今でも、初めてセラと顔を合わせた時の両親の反応を覚えている。
母さんは開口一番、
「ハヨンがいつの間にこんな可愛い彼女を作ったの?」
なんて大声で言い出して、
俺は顔を真っ赤にして違う、そういうんじゃないって必死に否定した。
父さんはそんな俺を見て、
「女なら彼女だろ? じゃあ男友達か?」
なんて、よく分からない親父ギャグを飛ばした。
そのくせ機嫌よく出前まで取ってくれて、正直ありがたかった。
それと、セラに感謝していることが一つある。
あの時、変に慌てたり否定したりしなかったことだ。
ちゃんと挨拶して、礼儀正く振る舞ってくれた。
「寝た頃に入ればいいんじゃない?
私と一緒にいて遅く帰るか、先に様子見に帰って、それから連絡してくれるとか」
セラがここまで家に帰りたがらない理由は、父親にあった。
普段は違うと言っていた。
だけど、酒を飲んだ日だけは様子が変わるらしい。
距離感がおかしくなったり、嫌な触れ方をしてきたりすることがある――と、セラは話していた。
「少し迷った末、セラの言う通り、俺の部屋で寝かせることにした。
俺はベッドを譲って、その下に布団を敷いて寝ることにした。」
「なあ、セラ。俺、聞きたいことがあるんだけど」
床に寝転がったまま、小さな声で聞いた。
「何?」
少し眠そうなセラの声が返ってくる。
「そのさ……お前、高校生とも仲いいんだろ?
だったら他の人に頼めばいいじゃん。
いつも雑談するのも、遅い時間に俺を呼び出すのも。
なんで、いつも俺なの?」
俺にとっては、ほとんど賭けみたいな質問だった。
だけど、返事は返ってこなかった。
もう寝たんだろうか。
そう思って俺も寝ようとした時だった。
小さな声が聞こえた。
「……まだ子どもだから分からないんだよ」
「え?」
「それに、最初に私のこと好きって言ったの、ハヨンじゃん」
それだけ言うと、セラはまた静かになった。
俺にはよく分からなかった。
今日は少し変な日だな。
そのくらいに思って、深く考えないことにした。
眠りかけた頃、セラが俺を呼んだ。
ベッドの上に来いということだった。
今日はいつもより少し変だと思った。
何かあったんじゃないか――そんなことまで考えた。
俺は少し迷った末、結局ベッドの端に遠慮がちに横になった。
セラはしばらく何も話さなかった。
暗闇の中、天井を見上げたまま横になっていた。
すると突然、俺の手を探して握ってきた。
思っていたより冷たい手だった。
俺は驚いて、思わず手を離そうとした。
その時、小さな声が聞こえた。
「クォン・ハヨン。今日は何も言わずにいて」
どういう意味なのかよく分からなかった。
だから聞かないことにした。
セラはしばらく手を離さなかった。
「分かった。じゃあ、おやすみ」
その日、俺たちは何も話さないまま眠りについた。
目を覚ますと、セラはもういなかった。
母も「よく眠れた?」と聞いただけだった。
あの日以降、特別なことは何もなかった。
どちらからも、あの夜のことを口にすることはなかった。
そして翌年、俺たちは高校生になった。
セラとは同じ高校へ進学した。
「一年生の新入生のみなさん! それぞれ自分のクラスごとに並んでください!」
入学式のため、一年生全員が講堂に集まることになっていた。
騒がしく落ち着かない空気の中、先生たちは講堂を歩き回りながら生徒たちを誘導していた。
学年は十クラスまであり、中学校の卒業前に一度学校へ来て、すでにクラス分けは済んでいた。
一番前では担任らしい先生たちが、それぞれ自分のクラスの札を掲げながら番号を呼んでいる。
「はい、一年三組! 一年三組はこちらに集まってくださーい!」
三組だった俺は慌ててそちらへ向かった。
そういえば、今日はセラの姿が見えなかった。
聞いた話では、セラも俺と同じ三組だと言っていたはずだった。
三十分ほど経つと、講堂に集まっていた生徒たちもそれぞれ自分のクラスへ集まり始めた。
さっきまでの騒がしい空気も少しずつ落ち着いていく。
そして午前九時ちょうど。
入学式を始めようとしたその時、講堂の扉が開いた。
男子生徒たちの集団の中から、黒く長い髪を揺らしながらセラが姿を現した。
入学初日から、セラはすでにすごい人気者だった。
俺の目には、その光景が――
まるで一匹の女王蜂が、何十匹もの働き蜂を連れて歩いているように見えた。
「遅れてすみません」
セラは少し大きめの声で、何度も頭を下げながら謝っていた。
三組の担任は、早く席に戻るよう注意した。
「はいはい。遅れて来た生徒は、それぞれ自分のクラスへ戻ってください。急いでくださいね」
講堂に響くマイクの声に合わせて、セラと一緒に入ってきた男子生徒たちも、それぞれ自分のクラスへ戻っていった。
その時だった。
列の真ん中あたりに立っていた俺と、一番後ろにいたセラの目が合った。
セラは何事もなかったみたいに笑って、俺に向かって軽く手を振った。
「……化粧までしてる」
俺は小さく呟きながら正面を向いた。
入学式は無事に終わった。
特にセラも担任に怒られることはなかった。
うちの担任は女性だった。
正確な年齢は分からないけど、三十代前半から半ばくらいに見えた。
気づけば、高校に通い始めて一か月近くが経っていた。
セラとは違い、俺の高校生活は見事なくらい崩れていた。
気づけば、学校ではほとんどいないもの扱いだった。
理由は単純だった。
セラと普通に話していたこと。
近くにいたこと。
それだけだった。
セラは――俺のためだったのかは分からないけど――学校で一番喧嘩が強いと言われていた男子と付き合い始めた。
それからというもの、俺が直接嫌がらせを受けることはなくなった。
ただ、空気みたいに扱われるだけだった。
それでも、ごくたまに。
月に一、二回くらい、セラは俺に声をかけてきた。
「ご飯食べた?」
とか、
「最近どう?」
とか。
聞いてくることは、いつも変わらなかった。
高校二年生になって一年ほど経った頃、セラはいつの間にか色々な男と付き合うようになっていた。
同じ学校だけじゃない。別の学校の人とも付き合っていた。
中にはすでに彼女がいる男と付き合っていたこともあって、そのせいで男同士が揉めることもあった。
セラは「私のせいでごめん」とよく口にしていた。
けれど俺には、それをどこか面白がっているように見えた。
そう思ったのは、久しぶりに夜遅く呼び出されて、コンビニの前で会った時にセラが変なことを言ったからだ。
「今ちょっと気になる男の子がいるんだけどさ。その子、全然人気ないし、喧嘩も弱そうなんだよね。私にも全然興味なさそうなの。
でも、前に付き合ってた子はまだ私のこと好きっぽいんだ。
もしその子の前で、私がその人気ない子に抱きついてキスしたらさ、二人って喧嘩すると思う?
それとも一方的にボコられるかな。
まさか、何も起きないってことはないよね?」
俺は何も答えられなかった。
「まあ、何がどうなってもいいんだけどさ。結局、私は誰を慰めてあげればいいと思う?
ねえ、クォン・ハヨンはどう思う?」
質問とも言えないような質問って、こういうことを言うんじゃないかと思った。
どうして結末が見えているような、こんなくだらないことをやろうとするんだろう。
俺の知っているセラは、もういないんだろうか。
そんなことを考えた瞬間、俺は少しだけセラが怖くなった。
どうして人って、こんなふうに変わってしまうんだろう。
高校を卒業したら、もう連絡は取らないでおこうと思った。
これからは、できるだけ関わらないようにしよう。
――そう思っていた。
けれど、高校三年になった頃。
今度はセラの方が、俺の前から姿を消した。
それから何年か経った。
軍隊を終えて、大人になった頃だった。
知らない番号から電話がかかってきた。
「もしもし?」
『やっほ。私』
「……え?」
『ご飯は食べた? 最近どうしてる?』
その言葉を聞いた瞬間、俺は電話を切ることができなかった。
その声は、ここ数年ずっと聞きたいと思ったこともあったし、二度と死ぬまで聞きたくないと思ったこともある声だった。
なのに、電話越しのはずなのに。
不思議なくらい懐かしい声だった。
「そうか。久しぶりだな。誰かくらい覚えてるよ」
気づけば、少し笑っていた。




