ぬくもりに、さよなら
私は久しぶりにハヨンの家へ向かうことにした。
直接会って、どうしても聞いておきたいことがあったからだ。
仕事の休憩中、私はハヨンへ電話をかけた。
「ハヨン、今日の夜って時間ある?」
『うん、大丈夫。仕事が終わったら、そのまま家においで。』
短いやり取りだった。
それだけで約束は決まった。
仕事を終えると、私はまっすぐハヨンの家へ向かった。
約束はしていたけれど、突然訪ねるのも何となく気が引けて、家の近くまで来たところでもう一度電話をかける。
「今から行っても大丈夫?」
『うん。ちょうど家にいるよ。』
少し間を置いて、ハヨンが続ける。
『晩ご飯は食べた? まだなら一緒に食べよう。俺もまだだから。』
時計を見ると、夜の八時を少し回っていた。
……きっと私が来るから、待っていてくれたんだろう。
昔から、そういう人だった。
「じゃあ、久しぶりに一緒に食べようか。」
『うん。ジュヒが来るって聞いたから、さっき買い物にも行ってきた。』
やっぱり。
思わず笑ってしまう。
別れたというのに、こういうところは何も変わっていない。
ほどなくして家へ着くと、ハヨンはいつもの笑顔で迎えてくれた。
恋人ではなくなった。
それなのに、不思議なくらい気まずさはなかった。
「おかえり……って言うのも変か。」
「ふふっ。確かに。」
「とりあえず手、洗ってきなよ。もう準備するから。」
そう言ってハヨンは私を急かすと、自分は冷蔵庫の前へ立った。
買ってきたばかりの牛肉を取り出し、きのこ、パプリカ、アスパラガスを次々と並べていく。
ソースだけは市販のものらしかった。
私は食卓に腰を下ろし、手際よく料理を始める後ろ姿をぼんやり眺めていた。
包丁の音だけが静かな部屋に心地よく響く。
やがてハヨンは振り返り、少し笑って私に尋ねた。
「それで、話があるって言ってたよね? 何の話?」
「それは……ご飯を食べながら、ゆっくり話そう。」
「そっか。」
ハヨンは小さく頷くと、何かを思い出したように冷蔵庫を開けた。
「そうだ。ワインがあるけど、少し飲む?」
「ワイン?」
思わず笑ってしまう。
「今日はずいぶん準備がいいじゃない。」
「まあ、その……。」
照れくさそうに頭をかくハヨンを見ていると、思わず頬が緩んだ。
「じゃあ、少しだけもらおうかな。」
「うん。」
肉が焼き上がる音と一緒に、部屋の中へ香ばしい匂いが広がっていく。
「はい、できた。食べよう。」
ハヨンは嬉しそうに笑った。
その笑顔は、昔と何も変わっていなかった。
「ありがとう。」
「ワインも注ぐね。」
「うん。少しだけ。」
グラスへ静かに赤ワインが注がれる。
「帰るときは送っていくから。」
「ありがとう。でも飲み過ぎないでね。」
「分かってる。」
グラスを軽く合わせる。
乾いた音が静かな部屋に小さく響いた。
照明は柔らかく、窓の外には冬の夜景が広がっている。
ハヨンとこうして食卓を囲むのは、久しぶりだった。
一緒に暮らしていた頃でさえ、こんな穏やかな時間は案外少なかった気がする。
幸せだった、と胸を張って言える日々ではなかった。
それでも、あの頃の私は確かに安心して眠ることができた。
別れてしまった今になって、あの何気ない時間の温かさを思い出している。
恋人ではなくなったからこそ、肩の力を抜いて向き合えることもあるのだろうか。
そんなことを考えている自分が、少しだけ可笑しかった。
食事をしながら、このところの体調や仕事のことを少しだけ話した。
私は、セラの家へ行ってきたことだけは話さなかった。
……
食後。
温かい緑茶を口に含みながら、私は静かに切り出した。
「ハヨン。ひとつだけ、真面目に聞きたいことがあるんだけど。」
「ん?」
湯飲みを持ったまま、ハヨンが顔を上げる。
「ちゃんと正直に答えてくれる?」
「そんなに改まって……。
俺が答えられる質問ならいいけど。」
私は一度だけ息を整えた。
「セラが初恋だったって、前に言ってたよね。」
「……うん。」
一拍遅れて返事が返ってくる。
「そうだった。」
私はハヨンの目を見つめた。
「二人で一緒に寝た、あの夜のこと。
覚えてる?」
その瞬間だった。
ハヨンの表情が、ほんのわずかに固まった。
「……え?」
湯飲みを持つ手が止まる。
視線だけが落ち着かず、小さく泳いでいた。
「俺が……そんな話したっけ。」
照れ隠しのように頭をかきながら笑う。
けれど、その笑顔はどこかぎこちなかった。
「責めるつもりじゃないの。
ただ、少し気になっただけ。」
私はできるだけ穏やかな声で言った。
ハヨンは少し黙り込んでから、小さく首を横に振る。
「悪い。
覚えてない。
あの日は……
本当に何もなかった。」
「そっか。」
私はそれ以上、何も聞かなかった。
「分かった。
ありがとう。」
そう言って湯飲みに視線を落とす。
けれど私の胸の中には、別の疑問だけが残った。
ハヨンは、本当に覚えていないのだろうか。
それとも……
覚えていて、話したくないだけなのだろうか。
もし違うのだとしたら。
あの日の話を、私に聞かせてくれたセラが嘘をついていたことになる。
静かな部屋の中で、お茶の湯気だけがゆっくりと揺れていた。
「ありがとう。そろそろ帰るね。
もう九時を過ぎちゃったし。」
「送っていくよ。」
私は、その申し出を断らなかった。
「……じゃあ、お願い。」
夜道を並んで歩く。
お互い、しばらく何も話さなかった。
冬の夜風だけが、静かに二人の間を通り過ぎていく。
しばらく歩いたところで、不意にハヨンが口を開いた。
「……あの夜さ。」
私は足を止めず、その続きを待った。
「確かに、セラとは一緒に寝た。
でも、本当に何もなかった。
何もしてない。
……本当に、それだけなんだ。」
その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
"強く否定する人ほど、本当は何かを隠している。"
そんな言葉を、ふと思い出す。
セラの話は……やっぱり本当だったのかもしれない。
「着いたね。」
私は立ち止まり、小さく笑った。
「送ってくれてありがとう。」
「うん。
おやすみ。」
「ハヨンも気をつけて帰ってね。
おやすみ。」
ハヨンは何か言いたそうに立ち止まった。
けれど結局、何も言わなかった。
その姿を見ていると、不思議と胸が締めつけられる。
私は小さく笑って言った。
「……一回だけ、抱きしめてもいい?」
返事を待つことはしなかった。
一歩近づき、そのまま静かにハヨンを抱きしめる。
恋人としてではない。
ありがとう、と伝えたかった。
それだけだった。
ハヨンは少し驚いたように固まっていたが、やがて静かに私の背中へ手を添えた。
けれど胸の奥では、何かが静かに終わっていく音がした。




