↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
33/34

ぬくもりに、さよなら

私は久しぶりにハヨンの家へ向かうことにした。


直接会って、どうしても聞いておきたいことがあったからだ。


仕事の休憩中、私はハヨンへ電話をかけた。


「ハヨン、今日の夜って時間ある?」


『うん、大丈夫。仕事が終わったら、そのまま家においで。』


短いやり取りだった。


それだけで約束は決まった。


仕事を終えると、私はまっすぐハヨンの家へ向かった。


約束はしていたけれど、突然訪ねるのも何となく気が引けて、家の近くまで来たところでもう一度電話をかける。


「今から行っても大丈夫?」


『うん。ちょうど家にいるよ。』


少し間を置いて、ハヨンが続ける。


『晩ご飯は食べた? まだなら一緒に食べよう。俺もまだだから。』


時計を見ると、夜の八時を少し回っていた。


……きっと私が来るから、待っていてくれたんだろう。


昔から、そういう人だった。


「じゃあ、久しぶりに一緒に食べようか。」


『うん。ジュヒが来るって聞いたから、さっき買い物にも行ってきた。』


やっぱり。


思わず笑ってしまう。


別れたというのに、こういうところは何も変わっていない。


ほどなくして家へ着くと、ハヨンはいつもの笑顔で迎えてくれた。


恋人ではなくなった。


それなのに、不思議なくらい気まずさはなかった。


「おかえり……って言うのも変か。」


「ふふっ。確かに。」


「とりあえず手、洗ってきなよ。もう準備するから。」


そう言ってハヨンは私を急かすと、自分は冷蔵庫の前へ立った。


買ってきたばかりの牛肉を取り出し、きのこ、パプリカ、アスパラガスを次々と並べていく。


ソースだけは市販のものらしかった。


私は食卓に腰を下ろし、手際よく料理を始める後ろ姿をぼんやり眺めていた。


包丁の音だけが静かな部屋に心地よく響く。


やがてハヨンは振り返り、少し笑って私に尋ねた。


「それで、話があるって言ってたよね? 何の話?」


「それは……ご飯を食べながら、ゆっくり話そう。」


「そっか。」


ハヨンは小さく頷くと、何かを思い出したように冷蔵庫を開けた。


「そうだ。ワインがあるけど、少し飲む?」


「ワイン?」


思わず笑ってしまう。


「今日はずいぶん準備がいいじゃない。」


「まあ、その……。」


照れくさそうに頭をかくハヨンを見ていると、思わず頬が緩んだ。


「じゃあ、少しだけもらおうかな。」


「うん。」


肉が焼き上がる音と一緒に、部屋の中へ香ばしい匂いが広がっていく。


「はい、できた。食べよう。」


ハヨンは嬉しそうに笑った。


その笑顔は、昔と何も変わっていなかった。


「ありがとう。」


「ワインも注ぐね。」


「うん。少しだけ。」


グラスへ静かに赤ワインが注がれる。


「帰るときは送っていくから。」


「ありがとう。でも飲み過ぎないでね。」


「分かってる。」


グラスを軽く合わせる。


乾いた音が静かな部屋に小さく響いた。


照明は柔らかく、窓の外には冬の夜景が広がっている。


ハヨンとこうして食卓を囲むのは、久しぶりだった。


一緒に暮らしていた頃でさえ、こんな穏やかな時間は案外少なかった気がする。


幸せだった、と胸を張って言える日々ではなかった。


それでも、あの頃の私は確かに安心して眠ることができた。


別れてしまった今になって、あの何気ない時間の温かさを思い出している。


恋人ではなくなったからこそ、肩の力を抜いて向き合えることもあるのだろうか。


そんなことを考えている自分が、少しだけ可笑しかった。


食事をしながら、このところの体調や仕事のことを少しだけ話した。


私は、セラの家へ行ってきたことだけは話さなかった。


……


食後。


温かい緑茶を口に含みながら、私は静かに切り出した。


「ハヨン。ひとつだけ、真面目に聞きたいことがあるんだけど。」


「ん?」


湯飲みを持ったまま、ハヨンが顔を上げる。


「ちゃんと正直に答えてくれる?」


「そんなに改まって……。


俺が答えられる質問ならいいけど。」


私は一度だけ息を整えた。


「セラが初恋だったって、前に言ってたよね。」


「……うん。」


一拍遅れて返事が返ってくる。


「そうだった。」


私はハヨンの目を見つめた。


「二人で一緒に寝た、あの夜のこと。


覚えてる?」


その瞬間だった。


ハヨンの表情が、ほんのわずかに固まった。


「……え?」


湯飲みを持つ手が止まる。


視線だけが落ち着かず、小さく泳いでいた。


「俺が……そんな話したっけ。」


照れ隠しのように頭をかきながら笑う。


けれど、その笑顔はどこかぎこちなかった。


「責めるつもりじゃないの。


ただ、少し気になっただけ。」


私はできるだけ穏やかな声で言った。


ハヨンは少し黙り込んでから、小さく首を横に振る。


「悪い。


覚えてない。


あの日は……


本当に何もなかった。」


「そっか。」


私はそれ以上、何も聞かなかった。


「分かった。


ありがとう。」


そう言って湯飲みに視線を落とす。


けれど私の胸の中には、別の疑問だけが残った。


ハヨンは、本当に覚えていないのだろうか。


それとも……


覚えていて、話したくないだけなのだろうか。


もし違うのだとしたら。


あの日の話を、私に聞かせてくれたセラが嘘をついていたことになる。


静かな部屋の中で、お茶の湯気だけがゆっくりと揺れていた。


「ありがとう。そろそろ帰るね。


もう九時を過ぎちゃったし。」


「送っていくよ。」


私は、その申し出を断らなかった。


「……じゃあ、お願い。」


夜道を並んで歩く。


お互い、しばらく何も話さなかった。


冬の夜風だけが、静かに二人の間を通り過ぎていく。


しばらく歩いたところで、不意にハヨンが口を開いた。


「……あの夜さ。」


私は足を止めず、その続きを待った。


「確かに、セラとは一緒に寝た。


でも、本当に何もなかった。


何もしてない。


……本当に、それだけなんだ。」


その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。


"強く否定する人ほど、本当は何かを隠している。"


そんな言葉を、ふと思い出す。


セラの話は……やっぱり本当だったのかもしれない。


「着いたね。」


私は立ち止まり、小さく笑った。


「送ってくれてありがとう。」


「うん。


おやすみ。」


「ハヨンも気をつけて帰ってね。


おやすみ。」


ハヨンは何か言いたそうに立ち止まった。


けれど結局、何も言わなかった。


その姿を見ていると、不思議と胸が締めつけられる。


私は小さく笑って言った。


「……一回だけ、抱きしめてもいい?」


返事を待つことはしなかった。


一歩近づき、そのまま静かにハヨンを抱きしめる。


恋人としてではない。


ありがとう、と伝えたかった。


それだけだった。


ハヨンは少し驚いたように固まっていたが、やがて静かに私の背中へ手を添えた。


けれど胸の奥では、何かが静かに終わっていく音がした。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
派手な展開ではなく、静かな会話を通して登場人物の心情が丁寧に描かれている点が印象に残りました。ハヨンの変わらない優しさに触れながらも、ジュヒが過去の出来事の真実を確かめようとする姿には切なさを感じまし…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。