涙の続きを聞いて
「それと、悪いんだけど。」
私は缶ビールをテーブルへ置きながら言った。
「今日、この家に泊まっていってもいい?」
「えっ……?」
セラは目を丸くした。
次の瞬間、花が咲くように笑った。
「本当ですか?」
「うん。」
「すごく……嬉しいです、お姉さん。」
その笑顔を見た私は、思わず笑ってしまった。
「そんなに喜ぶこと?」
「もちろんです。」
セラは何度もうなずいた。
「誰かと一緒に夜を過ごすなんて、本当に久しぶりですから。」
その一言だけで、胸が少し痛くなる。
段ボールを片づけたり、服を整理したりしているうちに、時計は午後八時を回っていた。
ちょうど予約しておいた料理も届く。
少しぬるくなったビールだけは残念だった。
この部屋には冷蔵庫がないのだから、仕方がない。
私は苦笑した。
「やっぱり冷蔵庫くらいは必要ね。」
「そうですよね……。」
セラも少し照れたように笑う。
床へ透明なビニールシートを敷き、その上へ料理を並べていく。
今日はさっきとは違う。
骨なしの鶏の足。
チヂミ。
トッポッキ。
それにビール。
「いただきます。」
「いただきます。」
乾杯を済ませると、セラは骨なしタッパルを興味津々に見つめた。
「これが……鶏の足ですか?」
恐る恐る指でつまむ。
嫌がる様子はない。
むしろ小さな子どもがおもちゃを眺めるような顔をしていた。
「骨……ないんですね。」
「うん。」
「食べやすいように、骨なしにしたの。」
「ありがとうございます。」
セラはそのまま口へ運ぶ。
ゆっくり噛む。
また噛む。
しばらく黙ったあと、ぱっと私を見た。
「不思議です。」
「え?」
「ゼリーみたい。」
私は吹き出した。
「ゼリー?」
「はい。」
「柔らかいのに、もちもちしてて……。」
「なんて言えばいいんでしょう。」
「初めて食べる食感です。」
「美味しい?」
そう聞くと、セラは大きくうなずいた。
「美味しいです。」
一拍置いて。
「でも……。辛いです。すごく辛いです……!」
真っ赤な顔になりながら水を一気に飲む。
私は笑いが止まらなかった。
「だから言ったじゃない。韓国の辛いは信用しちゃ駄目なんだって。」
「そういう問題じゃないです……。」
涙目になったセラは、それでももう一口タッパルを食べる。
「また食べるの?」
「美味しいですから。でも辛いんでしょう?辛いです。」
「じゃあなんで食べるの?」
セラは少し考えてから、小さく笑った。
「……お姉さんと一緒だからです。」
私は思わず言葉を失った。
この子はきっと。
何を食べるかより。
誰と食べるかのほうが、大切なのだ。
そう思えた夜だった。
「どうして私は、こんなに美味しいものを食べずに生きてきたんでしょう。」
セラは少し照れくさそうに笑った。
「一人じゃ、なかなか食べないものだからね。
もちろん、一人で平気な人もいるけど。」
「どう? 本当に美味しい?」
「はい。すごく……美味しいです。」
そう言って夢中で頬張る姿を見ていると、こちらまで嬉しくなってくる。
「そんなに喜んでくれるなら、連れてきた甲斐があったかな。」
私は冗談半分で口にした。
「ハヨンも呼んであげる?」
するとセラは、箸を止めて小さく首を振った。
「ううん。ハヨンはいいです。」
「どうして?」
「だって。」
少し唇を尖らせる。
「こんな美味しいもの、今まで一人でこっそり食べてたってことでしょう?そう思ったら、なんだか悔しくなっちゃって。」
私は思わず吹き出した。
「セラ。君、本当に面白い子ね。」
「そうですか?」
「うん。たぶん本人は気づいてないんだろうけど。」
ビールが足りなくなり、私は近くのコンビニまで買い足しに出た。
セラも「私が行きます」と言ってくれたけれど、この子を夜道へ一人で行かせる気にはなれなかった。
戻ると、セラはちゃんと私の帰りを待っていた。
まるで置いていかれるのを心配する子どものように。
私は少しだけ胸が痛んだ。
乾杯をもう一度して、他愛もない話を続ける。
笑って。
食べて。
また笑って。
時間だけが静かに流れていった。
けれど、お酒が少しずつ回り始めた頃だった。
セラは缶ビールを両手で包み込みながら、小さく息をついた。
その表情を見た瞬間、私は分かった。
これから彼女は、本当に誰にも話したことのないことを話そうとしているのだと。
「きっと……私のことを知っている人たちは、みんな軽蔑の目で見ていたんでしょうね。」
セラは缶ビールを両手で包み込んだまま、小さく笑った。
「私がどんな気持ちでいるかなんて、誰も考えてくれませんでした。」
少しだけ視線を落とす。
「でも、仕方ないですよね。間違った道を選んだのは、結局私なんですから。」
私は静かに耳を傾けた。
セラは少し酔っているのか、言葉はところどころ途切れながらも、その一つひとつには重みがあった。
「今まで……女友達なんて、一人もできませんでした。仲のいい友達も……誰も。男の人は最初だけ優しいんです。」
苦笑いを浮かべる。
「慰めてくれるふりをしても、その目を見れば分かるんです。どうにかして私と関係を持ちたいって思ってることくらい。
一度や二度会っただけなのに、『ホテルへ行こう』とか、『酔ってるから俺について来い』とか……。
そのくせ、断れば『お前から誘ったくせに』なんて言われたり。
……どうして、そんなことが言えるんでしょうね。」
最後は、一緒に呆れたように笑った。
私はその笑顔が痛々しくて仕方なかった。
「セラ。」
私はそっと彼女の名前を呼ぶ。
「大丈夫?つらいなら、無理に話さなくてもいいのよ。そんなふうに自分を責めなくてもいい。」
私は缶ビールを静かに床へ置いた。
「人は誰だって、間違える。私もそう。
大事なのは、そのあとどうするかだと思う。
立ち止まってもいい。
遠回りしてもいい。
でも、自分の人生を諦めないこと。
私は、それが一番大切だと思ってる。」
しばらく沈黙が流れた。
セラはゆっくりとうなずく。
「……ありがとうございます。」
目元を少し赤くしながら微笑んだ。
「お姉さん。
そんなことを言ってもらえたの、初めてです。
私なんかに……本当にありがとうございます。」
暖房の効いた部屋は思っていた以上に暖かかった。
お酒も入っていたせいだろう。
「暑いですね。」
そう言ってセラは上着を脱いだ。
黒で揃えた部屋着姿になると、どこか肩の力が抜けたように見える。
私は思わず見とれてしまった。
綺麗だと思った。
それは誰かを誘惑するための美しさではない。
ようやく誰にも怯えず、自分のままでいられる、一人の女の子の姿だった。
「私も暑くなってきちゃった。」
私は笑いながらカーディガンを脱いだ。
やけになったわけじゃない。
この部屋だけは、お互い少しだけ素直でいられる。
そんな空気が、自然と生まれていたからだった。
「ああ……お姉さん。こうして何も考えずに薄着でいるだけなら、こんなに楽なのに……。どうしてみんな、そんなに私を欲しがるんでしょう。でも、本当は分かってるんです。原因は、私自身だったんだって。」
女の私ですら、思わず見とれてしまうほどだった。
張りのある白い肌。
無駄のないしなやかな曲線。
まるで丁寧に彫刻されたような美しさ。
こんな姿を目の前にして、何もせず平静でいられる男が本当にいるのだろうか。
そういえば、ハヨンはあの時、セラとは一線を越えたことは一度もないと、はっきり言い切っていた。
「でも、それが全部セラのせいだとは、私は思わないけどな。どうして自分だけが悪いなんて思うの?」
そう言いながら、私は彼女の体に目を向けた。
そこで初めて気づく。
白く美しい肌のあちこちに、小さな傷跡が残っていた。
幼い頃に受けた暴力の痕なのだろうか。
それとも、仕事の中で負った傷なのだろうか。
胸元には、まるで煙草の火を押しつけられたような、小さな火傷の跡まで残っていた。
私は思わず息をのんだ。
「ハヨンって……男なのに女の子みたいな名前でしょう? だから私にとっては、たった一人の友達だったんです。
誰にも言ったことはありませんでしたけど、あの呼びやすい名前が好きだったんです。
女の子みたいな名前なのに、本当は男の子。そのギャップが不思議で……。
それに昔のハヨンって、少し女の子っぽいところがありませんでした? 今はもう違うみたいですけど。」
私は何も言わなかった。
きっと、この子もハヨンのことが好きだったのだ。
それなのに、どうして突然姿を消してしまったのか。
ハヨンは「あいつは何も言わずにいなくなった」と、どこか寂しそうに話していた。
「ねえ、セラ。あなた、ハヨンのことが好きなの?」
セラはすぐには答えなかった。
胡坐をかいて座っていた彼女は、そのままごろんと仰向けになった。
ぼんやりと天井を見つめながら、人差し指で何度も宙に文字を描く。
私は黙って、その指先を目で追った。
最初は何を書いているのか分からなかった。
けれど何度も繰り返すうちに、それが名前なのだと気づく。
『チェ・ジュヒ』。
『クォン・ハヨン』。
二つの名前を、まるで消えないように確かめるように、何度も何度も空へ書き続けていた。
「……違います。」
そう小さく答えたあと、セラは人差し指で何度か宙へ名前を書いた。
そして静かに口を開く。
「好きじゃありません。もし私がハヨンを好きになっていたら……きっと、ハヨンは不幸になっていました。
あのとき私が姿を消さなかったら、今頃ハヨンがどこで何をしていたのか……どうなっていたのか、私にも分かりません。
だから私は、私がいなくなることだけが、ハヨンを幸せにできる方法なんだって……そう信じていたんです。」
「それ……どういうことなの、セラ?」
返事はなかった。
部屋には静かな沈黙だけが流れる。
やがてセラはゆっくりと立ち上がると、寝室のほうへ歩いていった。
私はその場でしばらく彼女の背中を見つめていたが、少し間を置いてから後を追う。
セラはベッドへ潜り込み、布団を胸元まで引き上げていた。
顔だけを少しのぞかせる姿は、どこか幼い子どものようにも見えた。
私はベッドの端に腰を下ろす。
「眠い? 眠いなら、もう無理して話さなくてもいいよ。」
「……お姉さん。」
「うん?」
「ハヨンは……ハヨンは……。」
その名前を口にした瞬間だった。
セラの肩が小さく震え始める。
涙をこらえるように唇を噛み締め、それでも震える声で続けた。
「私のせいで……人を殺しかけたんです。」
「……え?」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「殺しかけたって……どういうこと?」
「私のお父さんを殺して、それから……あの高校生も殺すって……。」
私は息をのんだ。
ハヨンにそんな一面があったなんて、一度も想像したことがなかった。
これが本当なのか。
それとも、セラの思い込みなのか。
その答えを知っているのは、きっと二人だけなのだろう。
「お姉さん……。」
セラは私を見つめた。
「ハヨンが……私を自分の部屋で寝かせてくれたこと、知っていますか?」
「……少しだけ。」
「あのとき……私は先に、ここを出ていくってハヨンに話したんです。
どうしてなのかって何度も聞かれて……私は自分が抱えていたことも、このままいなくならなきゃいけない理由も、全部話しました。
するとハヨンは急に変わってしまったんです。
今まで見たこともない顔で、小さな声で『殺してやる』って……。
私は、本気なんだと思いました。
あんなハヨンを見るのは初めてだったから。
目も……すごく怖くて。
あんなに怒る人だったんだって、そのとき初めて知りました。
今にも飛び出していきそうな勢いで……。
だから私は、必死で止めました。
……ごめんなさい、お姉さん。急にこんな話をして。」
「ううん。気にしなくていいよ。私とハヨンは、もう終わった関係だし。それに……私がハヨンから聞いていた話とは、少し違っていたから。」
セラは小さく息を吐いた。
「たぶん……あのときのハヨンも、普通じゃなかったんです。
私まで怖くなるくらいだったんです。
このままだと、本当に誰かを傷つけてしまうって思いました。
だから必死で止めたんです。
あのとき私にできたことは、それしかありませんでした。
でも……。
ハヨンは、無意識に私を拒んでいたような気がします。」
私は何も言わなかった。
静かにベッドへ横になると、セラの細い背中へ腕を回し、そっと抱き寄せる。
言葉よりも、その温もりのほうが必要だと思った。
しばらくして、セラが小さくつぶやく。
「……私、本当に悪い女ですよね。」
その一言が胸に重く落ちた。
心の奥が、静かに沈んでいくような感覚だった。
「そんなふうに、自分のことを言わないで。
悪い人なんかじゃない。
ただ……少しだけ、道を間違えてしまっただけ。」
セラは私の腕の中で目を閉じた。
「……ありがとうございます。
最後まで聞いてくれて。
お姉さんなら、きっと最後まで聞いてくれるって思っていました。」
囁くような声だった。
私は少し笑って答える。
「もう終わったことなんだから。これから先のことだけ考えればいい。
それよりさ。
ついこの前まで付き合ってた元彼の初恋の女の子の家で、一緒に寝てる私のほうが、よっぽど変じゃない?」
その瞬間。
セラはくすっと吹き出した。
「……あっ、ごめんなさい、お姉さん。」
セラがこちらへ顔を向けた瞬間、私は容赦なく脇腹をくすぐった。
「これは罰!」
「きゃっ……お、お姉さんっ!」
身をよじって笑うセラを見ていると、つられて私まで笑ってしまう。
考えてみれば、こんなふうに誰かへ本気で悩みを打ち明けられたことも、誰かの悩みを最後まで聞いたことも、今まで一度もなかった気がする。
まして同じベッドに寝転びながら、こんな子どもみたいにはしゃいだ夜なんて、きっと生まれて初めてだった。
「……楽しい。」
「楽しいですか?」
「うん。すごく楽しい。今日は本当にいい一日だった。」
私は天井を見上げたまま、小さく笑う。
「明日からは、少しずついい日が増えるのかな。」
隣から、ふっと力の抜けたような息遣いが聞こえた。
「……おやすみなさい、お姉さん。」
少し間を置いて、セラは悪戯っぽく笑う。
「本当は今すぐ食べちゃいたいくらいですけど……今日は特別に許してあげます。」
「えっ? 私を食べるの? それ、私のセリフじゃない?」
私はもう一度セラの脇腹をくすぐる。
「やっ……だめっ、お姉さん!」
どうやら、そこが弱点らしい。
笑い声が静かな部屋いっぱいに広がっていく。
その夜。
眠りにつくまで、私はセラの手をそっと握ったまま離さなかった。
セラも、一度も振りほどこうとはしなかった。
翌朝。
私が帰る支度をして玄関へ向かうと、セラは姿勢を正し、静かに口を開いた。
「お姉さん……。」
「はい?」
「また……来てくれますか?」
「当たり前でしょう。」
「だって、私たち友達じゃない。」
「……はい。」




