少しだけ、家らしく
セラは俯いたままだった。
けれど、床へぽたりと落ちた一粒の涙を見て、私は少しだけ安心してしまった。
艶やかな黒髪が、その涙も、その表情も、きれいに隠してくれていたからだ。
「でも……今になって思うんです。」
小さな声が続く。
「もしかしたら、あの人の言っていたことは……間違っていなかったのかもしれません。」
私は黙って耳を傾ける。
「結局、私はずっと一人でしたから。」
そこでセラは寂しそうに笑った。
「私は、一体何から逃げ続けていたんでしょうね……。」
その瞬間だった。
玄関のチャイムが部屋に鳴り響いた。
張り詰めていた空気を、誰かがそっと切り替えてくれたような音だった。
私は心の中で、小さく息をつく。
よかった。
少しだけでも、この子が違うことを考えられる時間になるかもしれない。
「セラ!」
わざと明るい声を出した。
「ご飯、来たみたい! お腹すいたよ。私が出るから、セラは座ってて。」
「お姉さん……。」
「ん?」
「お金……。」
その一言に、私は思わず振り返った。
こんな時でも、この子は自分より先にそんなことを気にするのか。
少しだけ鼻をすすりながら、セラは申し訳なさそうに私を見ていた。
「もう払ってあるから。」
私は笑って答える。
「そんなこと気にしなくていい。」
玄関から戻ってくると、大きな袋の中には熱々の料理が並んでいた。
私が注文したのは、ジャージャー麺が一つ、チャンポンが一つ、それに酢豚。
本当はジャージャー麺を二つ頼もうかとも思った。
でも、少しだけ。
本当に少しだけ、セラにチャンポンの辛さを知ってほしくなった。
子ども扱いしているのかもしれない。
そんな考えが頭をよぎって、思わず苦笑する。
「どう?」
私はテーブルに料理を並べながら笑った。
「こういうの、食べたことないって言ってたよね?」
「もちろん見たことはありますけど……。」
セラは目を丸くした。
床に並べられていく料理を、一つひとつ確かめるように見つめている。
私は持ってきた透明なビニールシートを床に広げ、その上へ料理を並べていった。
ペットボトルの水やジュース、お菓子は邪魔にならないよう端へ寄せる。
「食べたことはないんです。」
セラは少し身を乗り出した。
「だから、すごく楽しみです。でも、どうしてこんなに温かいまま届くんですか?
こういうものも配達してくれるんですね。」
「もちろん。」
私は笑いながらスマートフォンを軽く振ってみせる。
「今はね、この一台があれば、ほとんど何でも届けてもらえる時代なんだよ。」
「私は使い方がよく分からなくて……電話とメッセージくらいしか使ってないんです。」
「セラって、本当に不思議な子だね。」
思わず笑ってしまう。
「見た目だけなら、専属マネージャーがいてもおかしくないくらいなのに、
意外と知らないことが多いんだ。」
「えっ……私ですか?」
セラは本気で驚いたように自分を指差した。
その仕草が可笑しくて、私まで笑ってしまう。
「よし、見てて。」
私はまだ混ぜていないジャージャー麺を両手で持ち上げた。
「こうやってね……。」
容器ごと大きく揺らしながら、思いきり混ぜる。
「本当は袋を開けてから混ぜる人もいるけど、私はこのほうが楽なの。」
「わあ……。」
セラはまるで手品でも見ているように目を輝かせた。
「すごいです、お姉さん。本当に上手。」
「いやいや。」
私は苦笑する。
「実は私も、ちゃんと混ざったかどうか分からないんだけどね。」
その一言で、二人同時に笑ってしまった。
さっきまでの重苦しい空気が、少しずつほどけていく。
「さあ、食べよう。」
私はジャージャー麺をセラの前へ置き、自分の前にはチャンポンを寄せた。
「これも一口食べてみて。ちょっと辛いけど、大丈夫?」
「はい。食べてみたいです。」
私たちは湯気の立つ料理を囲みながら、他愛のない話を続けた。
学校のこと。
流行っているもの。
くだらない失敗談。
そんな話をしているうちに、さっきまで涙を浮かべていたセラの表情にも、
少しずつ笑顔が戻っていく。
やがてセラは、箸を止め、小さく笑った。
「私……。」
少し照れくさそうに頬をかく。
「『お姉さん』って呼ぶのが、こんなに自然だったのは……たぶん、
ずっと前から一度くらい、そう呼んでみたかったからだと思います。」
「私にも、お姉ちゃんがいたら……少しは違っていたのかな。」
セラはジャージャー麺を口に運びながら、小さく笑った。
「お兄ちゃんだと、やっぱり男の人ですし……少し苦手なんです。やっぱり、お姉ちゃんがいいなって。」
そう言って照れくさそうに笑う。
「でも、妹だったら私が守ってあげないといけませんよね。そんな自信はありませんし……。」
少しだけ考え込むように視線を落としたあと、ふっと肩の力を抜いた。
「そう考えると、一人っ子で良かったのかもしれませんね。」
私は思わず箸を止めた。
セラは、本当によく話す。
この前まで、どこか壁を作っていた子と同じ人とは思えないほどだった。
それだけ、誰かとこうして食卓を囲んで話す時間が、久しぶりだったのだろうか。
ふと、ハヨンの顔が頭をよぎる。
きっと今まで、この子の話を黙って聞いてあげていたのは、ハヨンだったのだ。
「そういえば。」
私は思い出したように尋ねる。
「さっき言ってたよね? ハンバーガーとかチキンとか、ほとんど食べたことがないって。」
「どうして?」
「普通なら、一番身近な食べ物じゃない?」
セラは少し困ったように笑った。
「ピザとパスタと、お寿司は何度も食べました。」
「ハンバーガーも食べたことはあります。でも……。」
そこで言葉を切る。
「お姉さんには申し訳ないんですけど、ハンバーガーを見ると、たまにハヨンのことを思い出しちゃうんです。」
照れたように笑うその表情には、作ったところが少しもなかった。
私は思った。
この子、本当に素直なんだ。
少しだけ考える。
ピザとパスタ。
寿司。
どうしてその三つだけなのだろう。
そんな私の表情を見て気づいたのか、セラは静かに続けた。
「そういうお店って……。」
少しだけ視線を伏せる。
「男性と一緒に行くことが多かったんです。」
「だから、よく食べました。」
「ホテルで出てくるステーキも、嫌になるくらい食べました。」
私は思わず苦笑する。
「私とは真逆だね。」
「ふふっ。」
セラも笑った。
「でも、不思議なんです。」
「そういう高い料理って、全然おいしく感じなかったんですよ。」
そう言いながら、セラはジャージャー麺をもう一口食べる。
「おいしい……。」
そして、もう一度。
「本当に、おいしいです。」
その言葉は、料理に向けられたものだけではないような気がした。
誰かと笑いながら食べる時間。
きっと、セラが『おいしい』と言っていたのは、その時間そのものだったのだ。
何を食べるかよりも。
誰と食べるか。
それだけで、同じ料理がこんなにも違って見えることを、私はこの日、初めて知った。
「私が相手をしていたのは、お客様でしたから。」
セラは静かに箸を置いた。
「ほとんどがお付き合い……というか、日本でいう『同伴』みたいなものだったんです。食事に誘われて、お会計は全部お客様が払ってくださるんですけど……。」
少し困ったように笑う。
「でも、私の希望なんて聞かれたことは一度もありませんでした。」
「『いい店を予約してあるから』って、高級レストランとか、有名なお店ばかりで。話すことといえば、下品な冗談ばかり。だから……。」
セラはジャージャー麺を見つめる。
「料理がおいしいかどうかなんて、考えたこともありませんでした。早く終わってほしい。そればかり考えていました。」
私は胸の奥が少しだけ苦しくなった。
「一人で食べに行くことは?」
そう聞くと、セラは小さく首を横に振った。
「勇気がありませんでした。」
「一人でお店に入るのって、私にはすごく難しくて。」
「そうだったんだ……。」
私はようやく理解できた気がした。
「意外と、セラって気が小さいところがあるんだね。」
「そうなんでしょうか?」
そう言って笑った拍子に、口元へジャージャー麺の黒いソースが少しだけついた。
本人は気づいていない。
その無防備な笑顔が妙に可愛らしくて、私は思わず笑ってしまう。
まるで、外の世界をまだよく知らないお姫様みたいだ。
そんなことを思ってしまった。
「さっきも少し話しましたけど……。」
「うん?」
「何でも話して。」
「実は……。」
セラは少し照れくさそうに笑う。
「ハンバーガーだけは、よく買って食べていたんです。」
「だから、さっきハンバーガーの話で驚いてたの?」
「はい。」
「持ち帰れますし、すぐ食べられますから。」
「一週間ずっとチーズバーガーだけだったこともあります。」
「えっ?」
私は思わず声を上げた。
「そんなに好きだったの?」
「好き……なのかな。」
少し考えてから、セラは静かに首を振る。
「違うかもしれません。」
「一番最初に。」
ほんの少しだけ目を細めた。
「ハンバーガーって、買ってくれたのが、ハヨンだったんです。」
食べ終えたあとの容器や空き箱は、床に敷いていた透明なビニール袋へまとめて入れた。
食べ残しも、割り箸も、紙ナプキンも、そのまま一つにまとめてしまう。
「洗わなくていいんですか?」
セラが不思議そうに尋ねた。
「うん。むしろ洗っちゃうと、お店の人が嫌がるっていう話もあるんだよ。」
「え?」
「ほら、日本でもあるでしょ? 変な縁起担ぎみたいなの。」
そう言うと、セラは小さく笑った。
「そういうものなんですね。」
時計を見ると、いつの間にか午後五時を過ぎていた。
「ごちそうさまでした。本当においしかったです。」
丁寧に頭を下げたあと、セラは少し考えるような表情になった。
「それで……次は何をしましょうか。」
そう言いかけてから、思い出したように顔を上げる。
「あっ、そうでした。私の荷物、お見せします。」
寝室の奥へ案内されると、大きな段ボール箱がいくつも積まれていた。
「どうして全部箱に入れたままなの?」
私は思わず声を上げた。
「服だけじゃない……靴も、バッグも全部?」
「持って帰ってきたときのままなんです。」
「じゃあ、一度も使ってないってこと?」
「何着かは一、二回だけ着ました。でも、ほとんど新品です。」
箱を一つ開ける。
丁寧に畳まれたワンピース。
その下には、一度も履かれていない靴。
また別の箱を開けば、今度はバッグ。
新品のまま、時間だけが止まっているようだった。
私は箱の中へ手を伸ばすことすらためらった。
一着で85万円を超える服。
日本でも簡単には手に入らない限定のバッグ。
店頭ではもう見ることもできないような品ばかりが、静かに眠っていた。
「ごめんね、セラ。」
私はそっと箱の蓋を閉じた。
「これは受け取れない。」
「え……どうしてですか?」
「いくらなんでも、これは違う気がする。」
セラは私の表情を見つめ、小さくうなずいた。
「高い物だから……ですよね。」
「うん。」
私は正直に答えた。
「それもある。」
でも、本当はそれだけじゃない。
値段が重かったんじゃない。
セラが歩いてきた時間まで、一緒に受け取ってしまう気がした。
そんな気がしてしまったのだ。
「でも……。」
セラは静かに一つのバッグを撫でた。
「これも。」
今度は靴を見る。
「これも。」
少しだけ笑う。
「全部、あの頃の私なんです。」
その笑顔は、どこか寂しかった。
「だから、もう持っていたくないんです。」
少し間を置いて続ける。
「そういう仕事をしていた頃にもらった物だから。」
「クローゼットを開けるたびに、思い出してしまうんです。」
「だから……。」
「もう、私には必要ないんです。」
その言葉を聞いた瞬間、私は何も言えなくなった。
捨てたいのは服じゃない。
バッグでも、靴でもない。
あの日々そのものを、手放したいのだ。
そう思うと、胸が締めつけられた。
しばらく考えたあと、私は口を開く。
「でも、セラ。」
「その服を私が着るっていうのも、少し違う気がしない?」
「え?」
セラは目を丸くした。
その意味を理解した瞬間、みるみる頬が赤くなっていく。
「お姉さん……ごめんなさい。」
深く頭を下げる。
一度で十分なのに、二度、三度と。
「本当にごめんなさい。」
「そんなつもりじゃ……。」
「私、何も考えていませんでした。」
謝ることが癖になってしまった人は、きっとこんなふうに謝るのだろう。
その姿が痛々しくて、私は慌てて肩へ手を置いた。
「セラ。」
「怒ってるわけじゃないよ。」
「それに、あげる側がそこまで謝る必要なんてないでしょう?」
「でも……。」
「もういい。」
私は笑って首を振る。
「それより聞くけど。」
「この服も、バッグも、靴も。」
「全部処分するつもりなの?」
「はい。」
セラは迷わず答えた。
「できれば全部。」
「でも、自分で買った物もあるでしょう?」
「あっ。」
少し考えてから笑う。
「じゃあ、それだけ今から選びます。」
私は部屋をぐるりと見回した。
積み上げられた段ボール。
新品のまま眠る服やバッグ。
それらを見つめているうちに、一つ思いついたことがあった。
「セラ。」
「はい?」
「ちょっとだけ待ってて。」
「服、自分で買ったものだけ選んでおいて。」
「私、少し下へ行ってくる。」
「えっ?」
セラは不思議そうに首をかしげた。
「どこへ行くんですか?」
「内緒。」
そう言って私は部屋を出た。
二十分ほどして戻ると、両手いっぱいに買い物袋を抱えていた。
「お、お姉さん?」
「はい、これ。」
テーブルの上へ一つずつ並べていく。
マグカップが二つ。
白いお皿。
お箸とスプーン。
コップ。
ティッシュ。
小さな観葉植物。
それから、薄いピンク色のスリッパ。
「え……?」
セラは目をぱちぱちさせていた。
「これ……全部?」
「うん。」
「だって、この家。」
私は部屋を見渡した。
「モデルルームみたいなんだもん。」
「人が暮らす家っていうより、誰かが今日から住む予定の部屋って感じ。」
セラは困ったように笑った。
「そう……ですか?」
「そうだよ。」
私はピンク色のスリッパを差し出す。
「これ、セラの。」
「え?」
「黒じゃないほうが似合うと思って。」
その瞬間だった。
セラの表情が一瞬だけ固まる。
「……黒は。」
静かな声だった。
「仕事のときだけなんです。」
その一言だけで十分だった。
今まで見てきた黒い服も、黒い靴も、黒いバッグも。
全部、仕事のためだったのだと分かった。
「本当は……。」
セラは少し照れくさそうに笑う。
「ピンクが好きなんです。」
私は思わず笑ってしまった。
「知ってる。」
「え?」
「ベッドもシーツも、お人形も全部ピンクだったでしょう?」
「あっ……。」
セラは耳まで真っ赤に染めた。
「見られてましたか……。」
「全部見ちゃった。」
「恥ずかしいです……。」
そう言いながらも、セラは嬉しそうに笑っていた。
私は買ってきた観葉植物を窓際へ置いた。
「ほら。」
「少しだけ、人が住む家らしくなった。」
セラはしばらくその小さな鉢植えを見つめていた。
「……ありがとうございます。」
その声は、小さかった。
けれど、とても温かかった。




