↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
30/34

傷は誰にも見えない

私はスマートフォンを取り出し、画面を見せながらセラに尋ねた。


「何が食べたい?候補はね、ピザ、チキン、中華、それからハンバーガー。」


セラは画面をのぞき込みながら、一つひとつの料理の写真に目を輝かせていた。


まるで子どもが初めてメニューを見るような顔だった。


「あっ……ハンバーガーはちょっと……。」


「え? ハンバーガー苦手なの?」


「じゃあ、チョッパルは? 豚足とか食べられる?」


「チョッパル……ですか?」


セラは目を丸くしたまま、小さく首を傾げた。


どうやら私が挙げた料理が気に入らないわけではなさそうだ。


それなら、とんかつかお寿司のほうがいいかな。


そんなことを考える。


そういえば、この子は鶏の足なんて見たら、本気で驚きそうだ。


「ピザ……。うーん、違うかな。チキン?」


「そうだ。人って、チキンをよく食べますよね?……あっ。でも私、ジャージャー麺も食べたことがないんです。」


「だから、何がいいのかなって。お姉さんは何が好きですか?」


「チョッパルも、一度くらい食べてみたいです。」


その言葉を聞いて、私はようやく気付いた。


セラは私が挙げた料理を嫌がっていたわけじゃない。


知らなかったのだ。


食べたことがないから、選べなかっただけ。


私はスマートフォンを持つ手を止めた。


……嘘でしょう。


韓国で暮らしていて、


ピザも、


チキンも、


ジャージャー麺も。


今まで一度も?


思わずセラを見つめる。


この子、一体どんな生活を送ってきたの。


さっきまで「何もない部屋」に驚いていた私だったが、その驚きはもう別のものへ変わっていた。


「分かった。今日は私に任せて。初めてなら、おいしいものを選ぶから。」


そう言うと、セラは子どものようにぱっと表情を明るくした。


「本当ですか?ありがとうございます、お姉さん。」


その「お姉さん」という呼び方が、どこかくすぐったい。


「うん。お姉さんに任せなさい。」


私は少し胸を張ってそう言うと、迷わず注文ボタンを押した。


「わあ、本当に楽しみです! 何を頼んだんですか?」


「それは届いてからのお楽しみ。」


「……あっ。でも、うち、お皿もコップも何もないんです。お水も買いに行ったほうがいいでしょうか?」


「そこは心配しなくていいよ。お姉さんがちゃんと全部頼んでおいたから。」


その言葉を聞いたセラは、胸の前で両手を合わせると、目を輝かせながら嬉しそうに微笑んだ。


その表情は少しも作ったものには見えなかった。


本当に、心から喜んでいる。


そんな笑顔だった。


「そういえば、服をくれるって言ってたよね? まだクローゼットも見せてもらってないんだけど。」


「それは、ご飯を食べてからゆっくり見てもらえますか? その前に、お話ししたいこともありますし。」


また、その言葉だった。


「話したいこと」。


いったい何を話そうとしているのだろう。


気にはなったけれど、今ここで聞くことではない気がして、それ以上は追及しなかった。


「うん、分かった。それじゃあ、ちょっとお手洗い借りるね。」


「はい。あちらです。」


洗面所は決して汚いわけではなかった。


けれど、浴槽の縁や床には長い髪の毛が何本か落ちていた。


少しだけ生活感のある、その程度の散らかり方。


それを見た瞬間、私はなぜだか少し安心してしまった。


この家にも、ちゃんと人が暮らしている。


その痕跡だけは、確かに残っていたからだ.


けれど、その"暮らし"は、あまりにも静かだった


歯ブラシはピンク色だった。


それを見て、私は少し意外に思う。


もしかすると、セラは黒よりも、本当はピンクが好きなのかもしれない。


ベッドシーツも、掛け布団も、ぬいぐるみも。


この部屋で色らしい色といえば、どれも淡いピンクばかりだった。


勝手に黒が好きな子なのだと思い込んでいた私は、その印象だけで料理まで選んでしまった。


……もっとも、ピンク色の料理なんてないのだけれど。


そんなことを考えながら洗面所を出ると、セラは部屋の真ん中で立ったまま、自分の長い爪を指先で何度も触っていた。


落ち着かない様子で体を揺らしている。


知らない人が見たら、ここは私の家で、遊びに来ているのはセラのほうだと思うかもしれない。


それくらい居心地が悪そうだった。


「どうしたの、セラ? 何かあった?」


「いえ……。」


小さく首を振ったあと、少し照れくさそうに笑う。


「何だか、不思議で。」


「不思議?」


「はい……。」


一度言葉を飲み込んでから、少しだけ視線を伏せた。


「正直に言うと……。」


「うん。」


「……嬉しいんです。」


「嬉しい。」


その一言だけでは、私には意味が分からなかった。


私がここにいることが嬉しいのか。


誰かと一緒に食事をすることが嬉しいのか。


それとも、また別の理由があるのか。


ただ一つだけ分かったことがある。


ハヨンの前では見せなかった、年相応の少女のような表情を、今のセラは私に見せていた。


その理由を、私はもっと知りたくなっていた.



「急にそんなこと言われても分からないよ。もう少し詳しく話してくれる?」


私はネイルの施された長い爪を落ち着きなく触っているセラの手をそっと取り、そのまま隣へ座らせた。


「大丈夫。ここには私しかいないんだから。」


少し笑ってから続ける。


「全部じゃなくてもいい。話せることだけでいいから聞かせて? 力になれるかどうかは分からないけど、話くらいならいくらでも聞くよ。」


セラはしばらく俯いたまま黙っていた。


やがて、小さく息を吐いて口を開く。


「……お姉さん、お名前はチェ・ジュヒさんでしたよね。」


「うん。」


「お姉さんは、本当に優しい人です。」


そこで言葉を切ると、自嘲するように笑った。


「私は……悪い人なのに。」


「そうかな。」


私は首を横に振った。


「少なくとも私は、セラのことを悪い子だなんて思ったこと、一度もないよ。」


もちろん、最初は少しだけ複雑な気持ちもあった。


ハヨンの初恋の相手。


そんな肩書きを聞けば、穏やかではいられない。


でも、それはもう過ぎた話だった。


今、目の前にいるセラは、私が想像していた子とはまるで違っていたから。


「でも、お姉さんは全部知ってますよね。」


セラは静かに言った。


「私がどこで、どんな仕事をしてきたのか。」


「うん。ハヨンから少しだけ聞いた。」


私は慎重に言葉を選ぶ。


「あの日、うちに来た時も……あ、"うち"って言うのも変か。」


思わず苦笑が漏れる。


「とにかく、その……動画のこととか、今はお店で働いてることとか。そのくらいは聞いてる。」


「……そうです。」


セラは小さく頷いた。


「だから、お姉さんは私とこうして一緒にいるの、嫌じゃないんですか?」


その声は、どこか怯えているようにも聞こえた。


「本当に、平気なんですか?」


私は少し考えてから、正直に答えた。


「うーん……どうだろう。」


そして笑う。


「正直、そんなこと考えたこともなかった。」


セラが驚いたように顔を上げる。


「どうして私が嫌だと思わなきゃいけないの?」


その一言に、セラは目を丸くしたまま固まってしまった。


しばらくの沈黙。


やがて小さく唇を動かす。


「……あのね。」


その一言は、胸の奥にしまい込んでいた記憶の蓋を、ゆっくり開けるような声だった.


「どうして私が居心地悪く感じなきゃいけないの?」


セラは答えなかった。


俯いたまま、指先だけが小さく動いている。


私は何も言わず、テーブルの上のコップを手に取った。


一口だけ水を飲む。


「それで?」


そんなふうに話を急かすこともしなかった。


話したくなれば話せばいい。


話せないなら、それでもいい。


今のセラに必要なのは、問い詰められることではなく、安心して口を開ける時間なのだと思ったからだ。


しばらくの静寂が流れる。


やがてセラは、小さく息を吸い込んだ。


「……あの。」


「そうじゃないんですけど……。」


セラは一度息を整えてから、静かに話し始めた。


「中学三年の夏休み頃からです。高校生や大学生くらいの人たちと一緒にいることが多くなって……いろんな場所を転々としていました。」


少しだけ目を伏せる。


「寝る場所は、安いホテルばかりでした。お金もありませんでしたし、私にとっては、そこしか居場所がなかったんです。」


私は黙って続きを待った。


「ハヨンから少し話は聞いていたけど、詳しくは知らなかったの。」


私はできるだけ穏やかな声で尋ねる。


「ご家族は? セラは、ご両親を亡くしたわけじゃなかったよね。」


セラは小さく首を横に振った。


「……家には帰れませんでした。」


その一言だけで十分だった。


それでも私は何も言わず、続きを待つ。


「父は……私にとって、父親なんかじゃありませんでした。」


その声には怒りも恨みもなく、ただ諦めだけが残っていた。


「暴力を振るうこともありましたし、お酒を飲んで帰ってきた日は……子どもが経験しなくてもいいことまで、私に強いました。」


部屋の空気が静かに凍りつく。


「だから、家へ帰るくらいなら……外にいたほうが、まだましだと思ってしまったんです。」


その言葉に、私は息をのんだ。


ニュースや相談現場で耳にしたことはあった。


けれど、それが今、目の前で穏やかに笑っている一人の女の子の口から語られている。


その現実を、私はすぐには受け止めきれなかった。


「あの人、お酒を飲んで帰ってくるたびに、決まって同じことを言うんです。」


セラは感情を押し殺したような声で続けた。


「『お前の母親は、お前も俺も捨てて逃げた。お前もいつかそうなるんだろう。やっぱり血は争えないな』って。」


私は言葉を失った。


それが、まだ中学生の娘に向ける言葉なのだろうか。


そんなことを口にする資格が、その人間にあったのだろうか。


娘を傷つけていたのは、その男自身だったはずなのに。


胸の奥から熱いものが込み上げる。


怒りだった。


けれど、その怒りを今ここでぶつけても、セラの傷が癒えるわけではない。


私は静かに息を整え、できるだけ穏やかな声で尋ねた。


「……警察や相談機関には、相談しなかったの?」


セラはゆっくり首を横に振る。


「しませんでした。」


少しだけ笑う。


その笑顔は、笑顔とは呼べないものだった。


「お姉さんもご存じでしょう? 相談したところで、全部が解決するわけじゃありません。」


「……。」


「むしろ、傷つくのは私のほうでした。家に帰ればもっと酷くなるかもしれない。そう思うと、怖くて何もできませんでした。」


静かな声だった。


だからこそ、その言葉は重かった。


「弱い人を守る仕組みなんて、本当はそんなに強くないんです。」


私は何も言い返せなかった。


その言葉を簡単に否定することなどできなかった。


もちろん助けられた人もいる。


救われた子どもたちもいる。


それでも、間に合わなかった子がいることも知っている。


その現実を、私は嫌というほど見てきた。


だから、「そんなことないよ」とは言えなかった。


あの頃。


私が何も知らず、友達と笑いながら学校へ通っていた頃。


目の前にいるこの子は、生き延びるために、毎日必死で答えを探していたのだ。


私は俯いたまま話し続けるセラを見つめた。


その姿は、大人になった今のセラではなく。


誰にも助けを求められなかった、中学三年生の少女そのものに見えた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。