真っ白な暮らし
家で軽く化粧を直し、私はセラに会いに行く支度をした。
待ち合わせ場所を相談する必要はなかった。
セラのほうから住所を送ってきて、
「そのままうちに来てください。」
と言ってくれたからだ。
むしろ、そのほうが都合がよかった。
セラは電話で笑いながら言った。
「そのまま家に来てください。気に入ったものがあったら全部持って行ってください。」
「じゃあ服だけじゃなくて、バッグとかアクセサリーまで気に入ったらどうするの?」
私は冗談半分で聞き返した。
「それも全部持って行っていいの?」
するとセラは少しも迷わず笑った。
「もちろんです。」
「気に入ったものがあれば、何でも持って行ってください。その代わり、お昼ご飯だけはお姉さんのおごりですよ?すごく高いもの食べますから。」
最後は少し甘えるような口調になって、電話の向こうで楽しそうに笑った。
その笑い声につられて、私も思わず笑ってしまう。
不思議だった。
あそこまで言われると、かえって欲なんて湧いてこない。
「全部持って行っていいなんて……。」
そんなことを言う人が本当にいるだろうか。
もちろん冗談なのだろう。
そう思いながらも、胸のどこかに小さな引っ掛かりが残った。
物を惜しまない人はいる。
でも、自分の持ち物すべてを手放しても構わないような言い方をする人は、そう多くない。
私はスマートフォンをバッグへしまいながら、小さく息を吐いた。
もしかして、セラに何かあったのだろうか。
そんな考えが、ふと頭をよぎった。
セラが教えてくれた住所は、大きなビルの中にある高層マンションだった。
思わず建物を見上げる。
……すごい。
もし今の私がここに住もうと思ったら、一体どれだけお金が必要なんだろう。
そんなことを考えながら、しばらくエントランスの前に立ち尽くしてしまった。
けれど、首を小さく振る。
人にはそれぞれ、自分なりの暮らし方がある。
比べても仕方がない。
オートロックの前まで行き、セラから聞いていた部屋番号を押した。
呼び出しボタンを押すと、モニターにセラの顔が映る。
「こんにちは。」
画面越しに笑うセラへ向かって、私は軽く手を振った。
「こんにちは。」
電子音とともにオートロックが解除される。
私はエレベーターに乗り込み、指定された階のボタンを押した。
静かに上昇するエレベーターの中で、なぜだか少しだけ緊張している自分に気付く。
初めて来る家だからだろうか。
それとも、セラのことをまだ何も知らないからだろうか。
やがて扉が開く。
すると、その先には。
セラが部屋の前で、私を待っていた。
いつから立っていたのかは分からない。
けれど、エレベーターが開くのをずっと待っていたように、穏やかな笑顔を浮かべている。
「いらっしゃい。」
「わざわざ迎えに来なくてもよかったのに。」
「ありがとう。」
そう言うと、セラは首を横に振った。
「来てくださって嬉しかったので。」
そう微笑むと、ごく自然に私の腕へ自分の腕を絡ませた。
「えっ……。」
あまりに自然だったので、私は一瞬だけ目を丸くしてしまう。
セラはまったく気にした様子もなく、そのまま歩き始める。
私は苦笑しながら、その歩幅に合わせた。
腕時計を見る。
もうすぐ午後二時。
昼食には少し遅い時間だった。
「まだ何も食べてないよ。」
「セラは?」
「私もまだです。」
セラは少し困ったように笑う。
「そういえば今日はお休みなんですね。」
「うん。」
赤い絨毯が敷かれたホテルのような廊下を歩きながら、私たちはゆっくりと言葉を交わした。
その廊下は驚くほど静かで、二人の足音だけが柔らかく響いていた。
「考えてみたら、最初にお断りしておくべきでしたよね。」
「いきなり『家に来てください』なんて言ってしまって。」
「すみません、お姉さん。」
お姉さん。
その呼び方があまりにも自然だったので、私は少しだけ笑ってしまう。
そういえば、この子はもう当たり前のように私をそう呼んでいた。
今日のセラも黒を基調とした服装だった。
黒いパンプスに、黒いワンピース。
髪も染め直したのだろうか。
以前よりも深みのある黒になっていた。、光を受けるたびにさらりと揺れる髪は、とても柔らかそうに見えた。
けれど、その反面。
少し痩せたようにも見える。
頬の線が、前より少しだけ細くなっていた。
「そんなこと気にしなくていいよ。それよりセラ、前に会った時よりずっと落ち着いた雰囲気になったね。清楚っていうのかな。なんだかすごく優しく見える。」
思ったままを口にすると、セラは照れたように笑った。
「本当ですか?変には見えませんか?」
「ううん。すごく似合ってる。本当に。」
その言葉を聞いて、セラはほっと息をついた。
「よかった……。実は、それについてお話ししたいこともあるんです。」
その一言に、私は思わず首をかしげた。
髪型を変えたことと、私に話したいこと。
その二つが頭の中で結びつかない。
もしかして……。
ふと、ハヨンの顔が浮かぶ。
まさか、ハヨンのことを私に相談するつもりなのかな。
そんな考えが一瞬だけ頭をよぎる。
けれど、それならそれで悪い気はしなかった。
私はその想像を胸の奥へしまい込み、笑って答えた。
「きっと似合うと思うよ。」
「えっ?」
セラは不思議そうに瞬きをする。
「あ、ううん。何でもない。」
「ふふっ。」
セラは小さく笑うと、玄関の電子ロックに暗証番号を入力した。
カチャリ、と静かな音が響く。
「どうぞ。」
そう言って私を家の中へ招き入れる。
一歩足を踏み入れた、その瞬間。
私は思わず息をのんだ。
「何もなくて、びっくりしましたよね。」
そう言ってセラは少し照れたように笑った。
その言葉どおりだった。
部屋の中には、本当に何もなかった。
白。
最初に目へ飛び込んできたのは、その一色だけだった。
壁も、天井も、床も。
磨き上げられた白い大理石が静かな光を返し、部屋全体がまるで誰も住んでいない展示室のように見える。
リビングにはテレビもソファもない。
本来なら家具が置かれているはずの場所だけが、ぽっかりと空いていた。
冷蔵庫を置くスペースにも冷蔵庫はない。
備え付けのキッチンだけが、この部屋に人が暮らしている証拠のようにぽつんと残されている。
**本当にここで生活しているのだろうか。**
そんな疑問が、自然と胸に浮かんだ。
「もしかして……。引っ越しでもするの?」
そう尋ねると、セラは首を横に振った。
「いいえ。ここには一年くらい住んでいます。」
「えっ……一年?」
思わず聞き返してしまう。
一年。
一年も暮らしていて、この部屋なの?
そんな驚きを隠せなかった。
改めて部屋を見渡す。
この家には浴室以外、扉らしい扉がなかった。
リビングとキッチン、寝室がゆるやかにつながる、広々としたワンルーム。
十坪は優にありそうなのに、不思議なくらい広さだけが際立って見える。
家具がないだけで、こんなにも部屋は静かになるものなのだ。
「ベッドだけは必要だったので買いました。見るものなんてありませんけど、よかったら見てください。」
セラが指差した先には、木製のフレームと白いカーテンでゆるく仕切られた空間があった。
私はそちらへ歩いていく。
カーテンの向こうにあったのは、小さな寝室だった。
そして、その光景に私は少しだけ目を丸くする。
そこだけは、この部屋とはまるで別世界だった。
淡いピンク色のシーツ。
同じ色の掛け布団。
そして、ベッドの上には可愛らしいぬいぐるみがきちんと並べられている。
**セラの印象とは、どこか噛み合わない。**
黒い服ばかり身につける彼女が、眠る時だけこんな優しい色に囲まれている。
そのギャップが、不思議と胸に残った。
普段から几帳面なのだろうか。
それとも、今日私が来るから片付けたのだろうか。
部屋全体を見渡しても埃ひとつ見当たらない。
けれど、それを「きれい」と呼んでいいのか、私には分からなかった。
生活感がない。
まるで、いつでもこの部屋を出て行けるような空間だった。
「なんだか恥ずかしいですね。この部屋に人を呼んだの、お姉さんが初めてなんです。」
セラは照れ笑いを浮かべる。
「そうなんだ……。」
私は短く返事をした。
その言葉が、妙に胸へ残る。
一年間。
誰も、この部屋へ来なかった。
誰も。
その事実だけが、この真っ白な部屋よりもずっと寂しく思えた。
「どうぞ、好きに見てください。本当に何もありませんけど。」
そう笑ったセラだったが、何かを思い出したように「あっ」と小さく声を上げた。
「すみません。」
「まず何か食べに行きませんか?……というか、お水くらい出したいんですけど。」
困ったように笑って肩をすくめる。
「家に、お水もないんです。」
私はしばらく、黙ったままセラの顔を見つめていた。
こんな立派な部屋に住んでいるのに。
この子は、一体どんな暮らしをしてきたんだろう。
それに。
ハヨンが言っていたような、わがままな子にはとても見えない。
むしろ礼儀正しくて、人に気を遣いすぎるくらいだった。
「どうしましょう。一度外に出て、ご飯を食べてから戻ってきますか?」
首を少しかしげながら笑うセラを見ていると、不思議な気持ちになる。
ああ。
男の人は、こういう笑顔に弱いのかもしれない。
派手に着飾っているわけでもない。
特別なことをしているわけでもない。
それでも、その笑顔ひとつで心を揺らされる人は少なくないだろう。
そんなことを思った。
「それなら、何か頼んで食べようか。」
そう言うと、セラは嬉しそうに何度も頷いた。
「本当ですか?えっと……。どこで頼めばいいん
でしょう。ネットで検索すればいいんですか?
最近はスマホで何でもできるって聞いたんですけど……。」
そこまで言って、何かを思い出したように口を止める。
「あっ。ハヨンに……。」
言いかけた言葉を、慌てて飲み込んだ。
「……違う。」
その様子があまりにも慌ただしくて、私は思わず苦笑してしまう。
どうやらセラは、料理の注文方法そのものを知らないらしい。
どのアプリを使えばいいのか。
どこで注文するのか。
そんなことさえ分からないようだった。
「……お姉さん。ごめんなさい。」
その小さな謝罪を聞いた瞬間。
私は静かにスマートフォンを取り出した。
「私が頼むから。気にしなくていいよ。」
その一言だけで、セラはほっとしたように肩の力を抜いた。
その顔を見ていて、私はふと気付く。
ハヨンは以前、こんなことを言っていた。
「セラはさ、自分が困った時だけ俺を頼るんだよ。」
その時は少し冷たい言い方だと思っていた。
でも今なら、その意味が少しだけ分かる気がした。
セラは誰かを利用しているわけじゃない。
ただ、自分一人でできることが、あまりにも少なかった。
だから困るたびに、誰かへ手を伸ばすしかなかったのだ。
その「誰か」が、たまたまハヨンだった。
そんな気がした。
それでも、この部屋は何かを隠している気がした。




