もう恋人じゃないけれど
年が明けて数日後、私はハヨンの家を出た。
大晦日と元日を一緒に過ごせただけでも、それで十分だったと思う。
少なくとも、一人きりで新年を迎える寂しさだけは味わわずに済んだから。
玄関の扉を閉める直前、私はもう一度だけ部屋の中を振り返った。
つい数日前まで自分の居場所だったはずなのに、不思議なくらい遠く感じる。
「じゃあね。」
小さく呟いたその言葉は、誰にも届かなかった。
荷物を持ち直し、私は静かに歩き出した。
胸の奥では、どうしても消せない不安が渦巻いていた。
私が出て行ったあと、セラさんがこの家に住むことになるのかな。
そんなことを考えてしまう自分が嫌だった。
ほんの数時間、一緒にお酒を飲んだだけ。
それなのに私は、まだあの人のことを何一つ知らない。
分かったような気になっているだけで、本当は何も知らないのだ。
セラさんは、心の奥底に何か大切なものをしまい込み、その扉を何重にも閉ざしてしまった人のように見えた。
鍵を掛けた本人ですら、その鍵がどこにあるのか分からなくなってしまった。
そんな印象だった。
もしかしたら、その鍵は。
子どもの頃、どこかへ落としてしまったのかもしれない。
そう思うと、胸が締めつけられる。
男の人は、彼女を見て最初に何を思うのだろう。
やっぱり、その綺麗な顔なんだろうか。
それとも、スタイル。
あるいは、あの妖艶な雰囲気。
ハヨンは、何に惹かれたんだろう。
顔?
性格?
それとも……。
そこまで考えて、私は小さく首を振った。
そんなことを考えたところで、答えなんて出るはずがない。
同じ女性として羨ましいと思うところは、正直たくさんある。
でも。
羨ましいだけでは終わりたくなかった。
私はもう一度、セラさんのことを知りたいと思った。
もっと話してみたい。
もっと笑っている顔を見てみたい。
そして、できることなら。
今度は友達として、ちゃんと仲良くなりたい。
あの日、三人で過ごした夜を境に、ハヨンは目に見えて変わった。
以前ならセラの名前を出すだけで、慌てて話題を変えたり、不機嫌そうな顔をしたりしていたのに。
今では自分から、何度も彼女のことを口にするようになった。
食事をしている時も。
テレビを見ている時も。
ふとした沈黙が訪れるたびに、決まって同じ名前が出てくる。
「……ジュヒ。」
ある日の夕食中だった。
箸を止めたまま、ハヨンがぽつりと呟く。
「セラってさ……一体、どんな人生を送ってきたんだろう。」
私は黙って耳を傾けた。
「子どもを産めないって……あれ、本当はどういう意味なんだろう。」
その声は、自分に問いかけているようでもあった。
私は素直に考えれば、その言葉通りの意味なのだろうと思った。
でも、どこか引っかかる。
あの夜のセラさんは、何か別のことまで一緒に飲み込んでしまったようにも見えた。
本当に伝えたかったことは、あの一言だけではなかった気がする。
だから私は、静かに言った。
「そんなに気になるなら。」
ハヨンは顔を上げた。
「ハヨンが直接会って聞けばいいじゃない。」
「……俺が?」
「うん。ずっと考えてるだけじゃ、答えなんて出ないでしょ。」
ハヨンは困ったように笑った。
「そんな簡単に会えるかな。」
「会いたいなら、きっと会えるよ。」
そう言ったものの、私自身もその答えに自信があったわけではない。
それから数日。
私たちは答えの出ない話を何度も繰り返した。
そしてある日の午後。
突然、私のスマートフォンが小さく震えた。
画面に表示されていた名前を見て、私は思わず目を見開く。
『シン・セラ』
私は一瞬だけハヨンの顔を見たあと、静かに通話ボタンを押した。
「もしもし。」
「……あ、もしもし。」
いつものセラとは少し違う。
受話器の向こうから聞こえてきた声は、どこか遠慮がちで、小さかった。
「……あれ?」
私は思わずスマートフォンを耳に押し当て直した。
「お姉さん、こんにちは。」
「……どちら様ですか?」
ほんの少し沈黙が流れる。
それから、小さく笑う声が聞こえた。
「私です。セラです。」
「……あっ、セラ?」
「はい。」
その返事を聞いて、私はようやく胸をなで下ろした。
「よかった。」
「え?」
「もしかして番号を登録してないのかと思って、ちょっと緊張しちゃいました。」
その言葉に、私は思わず吹き出した。
「そんなわけないじゃない。ちゃんと登録はしてあるよ。ただ……あの日は私、かなり酔ってたみたいで。」
「そうですよ。」
セラはくすっと笑う。
「お姉さん、本当にたくさん飲んでましたから。」
「そんなに?」
「はい。」
「全然覚えてないなぁ。」
「途中からは、同じ話を何回もしてましたよ。」
「えっ、本当に?」
「はい。三回くらい。」
「うわぁ……恥ずかしい。」
思わず顔を覆うと、電話の向こうでセラが楽しそうに笑った。
その笑い声につられて、私も自然と笑ってしまう。
不思議だった。
まだ一度しか会ったことがないのに、電話越しの空気は思っていたよりずっと柔らかい。
「それで?」
私は笑いを収めながら尋ねた。
「今日はどうしたの?」
すると、さっきまで軽やかだったセラの声が少しだけ静かになった。
「……その。」
「うん?」
「急に電話しちゃって、迷惑じゃなかったですか?」
「え?」
「なんとなく……。」
「急に連絡したら、困らせるかなって。」
私は首を横に振った。
もちろん電話では見えないけれど。
「そんなことないよ。」
「むしろ、電話してくれて嬉しかった。」
しばらく沈黙が続いたあと、小さな吐息が聞こえた。
どこか安心したような息だった。
「……よかった。」
その一言が、妙に胸に残った。
それからセラは、少しだけ明るい声に戻って言った。
「実は、この前約束したことを思い出して。」
「約束?」
「着なくなった服、お姉さんにお譲りするって言ったじゃないですか。」
「あっ……。」
その瞬間、クリスマスの夜のことが頭によみがえった。
玄関先でセラがそう言っていたこと。
そして私は、それをお酒の勢いで言った冗談だと勝手に思い込んでいた。
「ちゃんと覚えてたんだ。」
「もちろんです。」
セラは迷いなく答えた。
「私は、本気で言ったんです。」
その言葉に、私は思わず笑みを浮かべる。
「じゃあ遠慮なくもらおうかな。セラちゃんの服なら、どれも高そうだし。」
そう言いながら、心のどこかでは別のことも考えていた。
もしサイズが合わなかったら……売ったら結構いい値段になるかもしれない。
百貨店で働いているせいだろうか。
そんな現実的なことを考えてしまう自分に、思わず苦笑した。
そのときだった。
「お姉さん。」
「うん?」
「服だけじゃなくて……。」
セラは一度言葉を切った。
「少し、お話ししたいこともあるんです。」
ハヨンと一緒に、何軒もの部屋を見て回った。
けれど、新年が明けたばかりということもあって、条件の合う部屋はなかなか見つからなかった。
見つかったとしても、今度は家賃が高すぎる。
現実は思っていた以上に厳しかった。
不思議なことに、別れ話をしたあとも、ハヨンは私の新しい住まいのことばかり気にしていた。
休みの日になれば一緒に不動産屋を回り、気になる物件があれば車を出してくれる。
「急がなくてもいいよ。」
「次が決まるまで、あの家にいても構わないから。」
そう何度も言ってくれた。
それでも、首を縦に振らなかったのは私だった。
もう恋人ではない。
そんな相手の家に、これ以上甘えるわけにはいかなかった。
それに、一緒に暮らしている限り、私はきっと前へ進めない。
そう思っていた。
それから数日が過ぎても、これといった部屋は見つからなかった。
不動産屋を出た帰り道だった。
運転していたハヨンが、何度も何かを言いかけては口を閉じている。
何か迷っている。
そんな様子が横顔から伝わってきた。
やがて信号待ちで車が止まると、ハヨンは小さく息を吐いた。
「……なあ。」
「うん?」
「もしジュヒが嫌じゃなかったらさ。」
そこでまた言葉が止まる。
私は首を傾げた。
「何?」
ハヨンは右のこめかみを人差し指で掻きながら、どこか気まずそうに笑った。
「ハナの家に住むっていうのは……どうかな。」
「……ハナ?」
思わず聞き返してしまう。
「うん。」
「百貨店の、あのVIPのお客さん。」
一瞬、意味が理解できなかった。
「……え?」
「私が? あのお宅に?」
あまりにも突拍子もない話で、頭が真っ白になる。
「いや、その……。」
ハヨンは視線を泳がせながら言葉を探していた。
「実は、一度お願いしてみたんだ。」
「……お願い?」
「うん。」
「ハナさんに。」
私は思わずハヨンの顔を見つめた。
「どうして?」
その言葉しか出てこなかった。
どうしてそこまでしてくれるのか。
もう私たちは恋人じゃない。
なのに、どうして私の住む場所まで必死になって探してくれるの?
その気持ちが、私にはどうしても理解できなかった。
もしかしたら。
私より、ハヨンのほうが別れを受け入れられていないのかもしれない。
「実はさ、ジュヒのことを話したら、部屋が一つ空いてるから使ってもいいって言ってくれたんだ。」
「……いや、いやいや。」
私は思わず首を振った。
「私が言いたいのはそういうことじゃないの。」
「え?」
「どうして部屋が空いてることと、私がそこに住むことが結び付くの?」
あまりにも話が飛躍しすぎていて、頭が追いつかなかった。
ハヨンは困ったように笑う。
「そんなに怒るなよ。」
「怒るよ。」
私は思わずため息をついた。
「私はジュヒのためを思って言っただけなんだ。」
「それに、ハナさんも全然嫌そうじゃなかったよ。」
「むしろ面白そうだって笑ってたし。」
「……もう。」
私は額を押さえた。
この人は、本当に。
「ハヨンって、そういうところあるよね。」
「え?」
「悪気がないのは分かる。」
「でもね。」
私はハヨンを真っすぐ見た。
「そういう話は、相手に気を遣わせるの。」
「私が住む場所までお願いするなんて、迷惑以外の何ものでもないでしょ。」
「そんなことないって。」
「あるの。」
少し強い口調になってしまった。
「だからもう、二度と勝手に私のことをお願いしたりしないで。」
「……分かった。」
ハヨンは素直にうなずいた。
少し肩を落としている。
その様子を見ていると、怒っていたはずなのに、今度は私のほうが申し訳ない気持ちになってしまう。
本当に損な性格だ。
「その代わり。」
ハヨンは少しだけ笑って言った。
「引っ越すなら、できれば俺の家の近くにして。」
「何かあったらすぐ行けるし。」
「……。」
私は返事をしなかった。
この人は、本当に変な人だ。
もう恋人でもない私のことを、どうしてここまで気にかけるんだろう。
名前は女の子みたいなのに。
いや、だからなのだろうか。
人一倍心配性で、人一倍優しい。
慎重さだけは少し足りないけれど。
私は小さく笑ってから、心の中でそっと毒づいた。
「だから私をこんな目に遭わせたんでしょう、このバカ。」




