誰にも言えなかったこと
ジュヒの突然の一言は、俺とセラの二人を十分すぎるほど動揺させた。
「女の私が見れば分かるの。
ハヨンがセラを見る目は、他の人を見る時とは全然違う。
あの目だけは、今までたくさんの人を見てきた私でも、ごまかされないわ」
「おい、ジュヒ! 急に何言い出すんだよ!なんで俺たちが別れるんだ。
まだ別れたわけじゃないだろ!
それに、俺がセラを好きだなんて、そんなわけないだろ!」
俺は勢いよく冷蔵庫の扉を閉めると、二人の間へ割って入った。
「本当に飲みすぎたな。ほら、もう終わりだ。
今日はもう寝よう。」
「まだ飲めるもん……。」
「飲めない。」
「飲めるってば。」
「その呂律で言われても説得力ないから。」
ジュヒは頬を膨らませ、不満そうに俺を見上げた。
「ハヨン、ひどい。」
「ひどくない。」
「私の話、ちゃんと聞いて。」
「聞いてる。でも続きは明日にしよう。」
「……。」
ジュヒは何か言い返そうとしたものの、小さくため息をつくだけだった。
その様子を見ていたセラが、静かに口を開いた。
「……その前に。」
俺とジュヒが同時に振り返る。
「一つだけ、お話ししたいことがあります。」
少しだけ間を置いて、セラは静かに続けた。
「私の体のことです。」
その言葉だけが、妙に耳に残った。
何の話だ。
そう思ったのに、その場はあまりにも慌ただしかった。
「違う……違う……。」
ジュヒが首を横に振る。
「私、酔ってないもん……。」
「いや、完全に酔ってる。」
「酔ってない……大丈夫……。」
「大丈夫じゃない。」
「大丈夫なの……。」
最後まで言い切ることもできず、ジュヒはそのままテーブルへ突っ伏した。
「……寝ちゃった。」
セラが苦笑する。
「ごめん。ちょっと待ってて。」
俺はジュヒをそっと抱き上げた。
思っていたよりも、ずっと軽い。
「……。」
この細い体で、毎日立ち仕事をしていたのか。
軽すぎるその体が心配になって、俺は思わず腕に力を込めた。
「ごめんな、セラ。」
「うん。」
「普段はこんな人じゃないんだ。」
セラは少しだけ笑った。
「知ってる。」
「え?」
「優しい人なんだなって、見てれば分かるから。」
その一言に、俺は返す言葉を失った。
ジュヒをベッドへ寝かせ、静かに扉を閉める。
リビングへ戻ると、そこにはセラだけが残っていた。
「これだけ飲んだら、私は帰るね。」
「帰るって、どこに?」
俺は思わず苦笑した。
「セラも結構酔ってるだろ。
この時間に帰るなんて無理だよ。
今日はここに泊まっていけ。」
セラはしばらく黙ったまま俺を見つめていた。
やがて小さく微笑むと、自分が飲んでいた日本酒の杯を俺の前へ差し出した。
「じゃあ、ハヨンもこれだけ飲んだら寝に行って。」
「セラ。」
「ん?」
「それ以上は飲むなよ。」
「うん、分かった。」
セラは俺の杯に酒を少しだけ注ぐと、自分はビールのグラスを持ち上げた。
「乾杯。」
澄んだ音が静かなリビングに響く。
俺は黙って杯を飲み干した。
そんな俺を見つめながら、セラはふっと笑った。
「……そうだね。今日だけ。」
「?」
「だから、もう忘れて。」
「何を?」
「このバカ、クォン・ハヨン。」
俺は眉をひそめた。
「また急に何言い出すんだよ。」
セラは答えず、しばらく指先で杯をなぞっていた。
そして静かに口を開く。
「私が気づいてないとでも思ってた?」
「何が。」
「ハヨンが、まだ私のことを忘れられてないこと。」
胸の奥がどくりと鳴った。
「……何言ってるんだ。」
「言葉にしなくても分かるよ。」
セラはどこか寂しそうに笑った。
「だから、もうやめて。」
「どうして。」
セラはゆっくりとうつむく。
沈黙が流れたあと、小さく息を吐いてから言った。
「私……子どもを産めない体だから。」
その一言で、時間が止まった。
「……え?」
「もしジュヒお姉さんの言うことが本当なら。」
セラは無理に笑顔を作る。
「もう忘れて。お願い。」
「セラ……。」
「私みたいなのを、いつまでも引きずっちゃ駄目だよ。」
俺は思わず立ち上がった。
「待てよ。それ、どういう意味なんだ。」
「……。」
「子どもを産めないって、何があったんだよ。」
セラは答えなかった。
代わりに遠くを見るような目をして、ぽつりと呟く。
「それとね。」
「?」
「ハヨンのお父さんとお母さんのこと、今でもちゃんと覚えてる。」
「俺の両親?」
「……あの日の朝。」
俺は息をのんだ。
「私がこっそりハヨンの家を出ようとしたとき、玄関でお母さんと鉢合わせしたの。」
俺は目を見開く。
「何も聞かなかったの?」
「ううん。」
セラは懐かしそうに微笑んだ。
「『もう帰るの? 朝ご飯くらい食べていきなさい。』って。」
「……。」
「まるで何事もなかったみたいに笑ってくれて。」
セラはゆっくりとうつむいた。
「その瞬間、私は逃げるように家を飛び出した。」
「セラ……。」
「外で、どれだけ泣いたか分からない。」
俺は言葉を失った。
母さんが……そんなことを。
あの日、母さんはまるでセラのことなんて何も知らないように振る舞っていたのに。
「そんな人たちを、どうやって裏切れるの。」
セラは自嘲するように笑う。
「高校も卒業できなくて。」
「……。」
「こんな仕事ばかりして生きてきて。」
「……。」
「今だって、お酒を出す店で働いてる。」
俺は思わず彼女の名を呼んだ。
「……セラ。」
セラは静かに首を横へ振った。
「だからね。」
少しだけ笑って、けれど泣きそうな目のまま言った。
「私は最初から、ハヨンの隣に立てるような人じゃなかったの。」
「……セラ。」
俺の声は、自分でも分かるくらい震えていた。
セラは何も答えなかった。
ただ唇を強く噛みしめ、俯いたまま肩を小さく震わせている。
ぽたり。
一粒の涙が膝の上へ落ちた。
そして、もう一粒。
俺は息をのんだ。
セラが泣く姿を見るのは、これが初めてだった。
子どもの頃もそうだった。
転んだ時も。
誰かと喧嘩した時も。
家庭のことをからかわれた時でさえ。
セラは一度も泣かなかった。
いや。
泣かないようにしていただけだったのかもしれない。
それを、俺は今になってようやく知った。
「……ごめん。」
何に対して謝っているのか、自分でも分からなかった。
それでも、その言葉しか出てこなかった。
セラは首を横に振る。
「謝らないで。」
かすれた声だった。
「謝られたら……もっとつらくなるから。」
俺はゆっくりと一歩、セラへ近づいた。
何か言葉を掛けようとした。
大丈夫だ、と。
もう心配するな、と。
でも、どんな言葉も今のセラには軽すぎる気がした。
だから俺は何も言わず、そっと両腕を伸ばした。
そして、壊れ物に触れるように静かにセラを抱きしめた。
その細い肩が、びくりと震える。
振りほどかれるかと思った。
けれど、セラは逃げなかった。
押し返すこともしなかった。
やがて、おずおずと俺の服を握りしめる。
その小さな温もりに触れた瞬間。
幼い頃の思い出が、胸いっぱいによみがえった。
毎日のように俺の家へ遊びに来ていたセラ。
くだらないことで喧嘩して。
俺を困らせて。
それでも気づけば、いつも隣で笑っていた。
そんな何気ない日々が、一気によみがえってくる。
「……ハヨン。」
初めてだった。
セラがこんなにも弱々しい声で、俺の名前を呼んだのは。
そして、張りつめていた糸が切れたように、静かに泣き始めた。
「私……本当に、つらかった。」
嗚咽に言葉が途切れる。
俺は何も言わず、ただ背中を優しくさすった。
「本当に……本当に苦しかったんだから。」
セラは俺の服をさらに強く握りしめる。
「……ハヨン。」
涙で震える声が、耳元で小さく響く。
「あなたに……私の気持ちなんて分かる?」
しばらくの沈黙のあと。
セラは泣き笑いのような表情を浮かべ、小さく呟いた。
「……このバカ、クォン・ハヨン。」
その言葉を最後に、セラは糸が切れたようにその場へ横たわった。
俺はしばらく何も言えず、ただ彼女を見つめていた。
まるで、その一言を伝えるためだけに、今日まで気丈に耐えてきたように思えた。
「子どもを産めない体なんです。」
その言葉だけが、何度も頭の中で繰り返される。
いったい、何があったんだ。
セラは目を閉じたまま、小さく息を吐いた。
「……ごめん。」
眠りに落ちる寸前のような、かすかな声だった。
「……ごめんね、ハヨン。」
俺は思わず身を乗り出した。
「セラ?」
返事はない。
その代わり、セラの唇がもう一度だけ、かすかに動いた。
「……置いていかないで。」
あまりにも小さな声だった。
聞き間違いだったのかもしれない。
けれど、その一言だけは、はっきりと俺の胸に残った。
やがて規則正しい寝息が聞こえ始める。
本当に眠ってしまったらしい。
俺は静かに立ち上がり、彼女の周りを片づけ始めた。
空になった酒瓶をまとめ、割れ物を脇へ寄せる。
それからセラをそっとソファへ寝かせ、押し入れから毛布を持ってきて肩まで優しく掛けてやった。
眠っている顔は、さっきまで涙を流していた人とは思えないほど穏やかだった。
リビングの明かりを消す。
間接照明だけが部屋をぼんやり照らしていた。
俺はソファの前に座り込み、膝を抱えたまま、長いことセラの寝顔を見つめていた。
「……俺の前から突然いなくなってから、お前に何があったんだ。セラ。」
答えは返ってこない。
静かな寝息だけが、小さく部屋に響いていた。
社会福祉士として、人を助けたいと思うことは何度もあった。
けれど今、胸の奥から込み上げてくるこの気持ちは、それとは少し違う。
一人の人間として。
幼い頃から知っている友達として。
もう二度と、こいつを一人にしたくない。
そう、心の底から思った。




