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Epilog. セラ。 完結

この物語も、いよいよ最後の一章となりました。

どうか最後まで、お付き合いいただけますよう、心より願っております。

チャイムの音が、静かな屋敷に穏やかに響いた。


扉を開けたのは、ソニョンではなかった。


「初めまして。シン・セラと申します。本日は突然お伺いしてしまい、申し訳ありません。」


セラ小さく頭を下げた。


「とんでもございません。

どうぞお入りください。クォン・ハヨン先生から事前にお話は伺っております。

あなたが私どもにお会いしたいとおっしゃっていたそうですね。」


セラは静かに頷いた。


広々としたリビングには、誰の姿もなかった。


ハナの姿も見当たらない。


今日、セラがここを訪れた理由は一つだけだった。


ソニョンに会うため。


ゆっくりと息を吸い込み、セラは口を開いた。


「はい。その通りです。どうしても、お伝えしたいことがあって参りました。」


セラは、自分が暮らしていたあのオフィステルをジュヒに譲ることを決めた。


理由は、とても単純だった。


「あの家は、最初から私が住む場所じゃなかったんです。」


そう言って、セラは静かに微笑んだ。


「これから先、その家をどうするかはお姉さんが決めてください。


それも含めて、お譲りします。」


あまりにも突然の話に、ジュヒは言葉を失った。


結局、そのことをハヨンに相談すると、ハヨンも驚きを隠せなかった。


すぐにセラへ連絡を入れると、彼女は事情を説明することもなく、


ただ一つだけ静かに口にした。


「……ソニョンさんとハナさんに、お会いさせてい。」


「もう私が誰なのか、ご存じだと思っています。……そうですよね。」


ソニョンはすぐには答えず、穏やかな微笑みを浮かべた。


「どうぞ、こちらへ。温かいお茶でもいかがですか? 


この家には、とても香りのいいお茶があるんです。


ぜひ召し上がっていただきたくて。」


「ありがとうございます。それでは、お言葉に甘えます。」


セラは静かに頭を下げた。


さらりと流れ落ちた柔らかな黒髪は、そのまま頬を隠している。


彼女はそれを整えようともせず、ただ静かにまばたきを繰り返した。


まだ何も始まってはいない。


それなのに、二人の間には言葉では表せない緊張が静かに張りつめていた。


「以前、クォン・ハヨン先生がお見えになったときにも、


一度お出ししたことがあるんです。


最初は少し飲みにくそうにしていましたけれど、


次からは気に入ってくださって。


香りがとてもいいとおっしゃっていました。


きっとセラさんもお好きになると思います。お二人は長いお付き合いですものね。」


ソニョンはそう言うとキッチンへ向かい、やかんに水を入れて火にかけた。


やがて湯が沸き始めると、リビングまで聞こえるように穏やかな声で話しかける。


「せっかく大切なお客様がお越しくださったのですから、心ばかりのおもてなしをさせてください。」


湯呑みに湯を注ぎ、その上から静かに茶葉を落としていく。


立ち上る湯気とともに、ほのかな香りが部屋いっぱいに広がった。


「もっとも、作法をきちんと学んだわけではありませんので……。


お見苦しいところがありましたら、ご容赦ください。」


お盆に二つの湯呑みを載せ、ゆっくりとセラの前まで運ぶ。


「どうぞ、召し上がってください。セラさん。」


「ありがとうございます。それでは、いただきます。」


セラは湯呑みにそっと息を吹きかけた。


ふう、と白い湯気が揺れる。


恐る恐る口に含んだ瞬間、強い苦みが舌いっぱいに広がった。


思わず顔をしかめそうになる。


薬でも飲んだような苦さだった。


「いかがですか?」


ソニョンは静かに微笑んだ。


「香りは、とても良いでしょう?」


「……はい。」


セラは小さく頷いた。


もう一度、今度は飲まずに湯呑みを鼻先へ運ぶ。


不思議だった。


口に含めば驚くほど苦い。


それなのに、香りだけはどこまでも優しく、甘く、どこか懐かしい。


どうして同じお茶なのに、味と香りはこんなにも違うのだろう。


そう思った。


ソニョンはそんなセラを静かに見つめていた。


「女性には、それぞれ違う香りがあります。


香水の香りではありません。


その人が生まれながらに持っている香りです


その香りに惹かれる人もいれば、一生気づかない人もいます。」


ソニョンは自分の湯呑みへ目を落とした。


「このお茶も同じです。


苦いと言って終わる人もいれば、その奥にある香りまで感じ取れる人もいます。」


少しだけ間を置く。


「セラさんも、とても美しい香りを持っています。


誰にも真似のできない、とても美しい香りを。


……でも。」


その声だけが少しだけ寂しかった。


「その香りを、誰よりも大切にしなければならなかった人が、一番傷つけてしまった。」


セラの指先が止まる。


ゆっくりと湯呑みをテーブルへ戻した。


「……やっぱり。」


「全部ご存じだったんですね。」


「ええ。」


ソニョンは否定しなかった。


「主人とあなたのことは、ずっと前から知っていました。」


「ですが……私たちは、そのような関係ではありませんでした。」


「そのような関係。」


ソニョンは小さく笑う。


「面白い言い方ですね。」


「もちろん、そのことも知っています。」


静かに目を細めた。


「主人は、女性を抱けない人です。


あなたは最初から、そのことを知ったうえで主人のそばにいた。


違いますか。」


セラは俯いたまま答えなかった。


唇を噛み、


長い沈黙だけが流れる。


「……はい。


全部、その通りです。」


そして、


初めてソニョンを真っ直ぐ見た。


「でも。


わざとハヨンに近づいたんですよね。」


ソニョンはゆっくり頷いた。


「ええ。


そうです。


私たちは……」


そこで一度言葉を切る。


セラの目を見る。


その瞳は、


幼い頃に一度だけ見た記憶と、


少しも変わっていなかった。


「同じ香りを宿しているのですから。」


セラの瞳がわずかに揺れた。


この人は。


最初から知っていた。


自分が誰なのかも。


何を失い、


何を背負って、


ここへ来たのかも。


全部。


全部知ったうえで、


お茶を淹れてくれていた。


ソニョンは静かに微笑む。


その笑顔は、


誰かを責めるものではなかった。


ようやく帰ってきた子どもを見るような、


長い長い時間を待ち続けた人の笑みだった。


「さて。」


これから、どうしましょうか。」


そして、


今度は自然に。


まるでずっとそう呼びたかったかのように、


優しく名前を呼んだ。


「……セラ。」


二人の間に、静かな沈黙が流れた。


けれど、不思議なことに。


どちらも声を荒げることはなかった。


怒りもしない。


責めようともしない。


その時間は、もう何年も前に終わっていたからだ。


セラは知っていた。


自分を置いて去った母が、その後、新しい人生を歩み、穏やかな家庭を築いていたことを。


その事実が許せなかった。


だから彼女は、自分自身を壊した。


まるで見せつけるように。


「あなたが捨てた娘は、こんなふうになりました。」


そう叫ぶ代わりに、自分の人生そのものを使って復讐した。


一方で、


ソニョンもまた、長い年月、娘の人生を見続けていた。


決して手を差し伸べず、


決して声も掛けず、


ただ、遠くから。


セラも、その視線には気づいていた。


いつからだったのかは分からない。


けれど母が、自分を見ていることだけは知っていた。


だから、さらに壊れた。


もっと堕ちれば、この人はどうするのだろう。


どこまで見ているつもりなのだろう。


そんな意地にも似た思いで、


彼女は日本へ渡った。


それでもソニョンは知っていた。


娘がどこへ行き、


何をして、


どんな夜を過ごしてきたのか。


すべて知りながら、


それでも見守ることしかできなかった。


セラが本当に望んでいたのは、


今、母が築いている家庭を壊すことだった。


最初は、自分が妊娠すればいいと思っていた。


それが一番確実な復讐になると信じていたからだ。


しかし、


その計画は最初から成立しなかった。


あの家の主人は、女性を抱くことのできない人だった。


そして、


自分自身もまた、


子どもを産めない身体になっていることを知った。


それなら、どうすればいいのだろう。


残された方法は、一つしかない。


ハナを利用すること。


その子を傷つければ、


あの女はきっと苦しむ。


そう思っていた。


だが、


ハナという少女のことを知った瞬間、


その復讐は終わった。


学校ではいじめを受け、


やがて退学し、


自ら命を絶とうとまでした少女。


その事実を聞いたとき、


セラの胸には怒りにも似た感情が込み上げた。


皮肉だった。


血のつながらない娘であったとしても、


長い年月をかけて育ててきた子どもが、


そこまで追い詰められていた。


それなのに、


ソニョンは、あまりにも静かだった。


その姿が、


幼い頃の自分と重なって見えた。


誰にも救われず、


誰にも抱きしめられず、


ただ壊れていくしかなかった少女。


その少女が、


今度はハナという名前になって、


目の前に立っているような気がした。


その瞬間、


セラは気づいた。


自分が壊したかったのは、


この家ではない。


誰かが、もう二度と自分のようになってほしくなかったのだと。



もっと壊れれば。


もっと堕ちれば。


そのときこそ母は振り向いてくれるのではないか。


そんなことを何度考えただろう。


けれど、


そんなことをしてくれる母ではないことも、


セラはずっと前から知っていた。


「……私は。」


セラはゆっくり息を吐いた。


「本当は、奥様に復讐したかった。


苦しんでいる顔が見たかった。


なのに、何なんですか。


全然苦しそうじゃない。


ハヨンは今でも私を見ると胸をときめかせてる。


ジュヒお姉さんは、私を憎みもしない。


この家のご主人は、女を抱くことすらできない。


それに……


私のことまで、あっさり諦めてしまった。」


セラは震える声で続けた。


「一体、何なんですか。


どうして。


ハナは、あんなふうになってしまったんですか。


全部、あなたはのせいじゃないですか!」


部屋に沈黙が落ちる。


ソニョンは怒らなかった。


悲しむこともなかった。


ただ、


ほんの少しだけ寂しそうに微笑んだ。


「……あの頃はね。


私のまだ若くて、弱かったの。


今も、あまり変わっていないけれど。」


ハヨンの名前が頭をよぎる。


あの人なら、


きっと『それでも親でしょう』と言ったはずだ。


けれど、


セラはその言葉を飲み込んだ。


責めたいのに、


責めきれない。


そんな自分が、一番苦しかった。


「そんな答え……」


唇が震える。


涙が頬を伝う。


「そんな答え、ずるいよ。」


そして、


子どもの頃に一度も呼べなかったその呼び名が、


ようやく口からこぼれ落ちた。


「……お母さん。」


ソニョンは静かに頷く。


「ええ。


だから。


セラ。


本当に言いたいことを聞かせて。」


「これからは、この家で暮らします。」


セラは静かに言った。


「お母さんの娘としてじゃありません。


何でもいいんです。


家政婦でも、居候でも。


何でもない存在として、この家にいます。


洗濯をしろと言われればします。


掃除をしろと言われれば掃除もします。


部屋なんて余っているでしょう?


それに、ご主人ももう帰ってこない。


帰ってきたとしても、私は気にしません。


来るなら来ればいい。


一度くらい居心地の悪い思いをしてもらえばいいんです。」


セラはソニョンを真っ直ぐ見た。


「お母さんなら、もう全部ご存じでしょう?


経験も、おありですから。」


ソニョンは少しも表情を変えなかった。


「そう。


好きになさい。」


その一言だけだった。


セラは眉をひそめる。


「……私は。


お母さんの、そういう何事もなかったみたいな顔が嫌いです。」


「それで終わり?」


ソニョンは静かに湯呑みを置いた。


「それなら、ハナを呼んでこなくてはね。


新しい家族が増えたと伝えないと。」


「ハナのことは、これから私が面倒を見ます。」


セラは即座に言い返した。


「もう、お母さんなんて呼びません。」


その瞬間だった。


ソニョンの手が止まる。


細めていた目がゆっくり開き、


娘の顔を真っ直ぐ見つめた。


セラもまた、一歩も引かなかった。


長い沈黙のあと、


ソニョンは小さく息を吐く。


「近くで見ると……本当に大きくなったわね。」


そして穏やかに続けた。


「でもね。


ハナは、権ハヨン先生のことが大好きなの」


もし、あの子が結婚したいと言うのなら、私は反対しないわ。


もちろん。


ハヨン先生があなたを選ぶのか。


ハナを選ぶのか。


それとも、まったく別の誰かを選ぶのか。


それは誰にも分からないことだけれど。」


ソニョンは茶碗を持ち直し、


静かに締めくくった。


「人の心だけは、無理に変えようとしてはいけないものよ。」



◇


「先生。」


「うちに、とてもきれいなお姉さんが来たんです。」


「名前は、シン・セラさん。」


「お母さんが、これからは本当のお姉ちゃんみたいに仲良くしなさいって。」


「まだ少し緊張するけど……」


「私は、あのお姉ちゃんが好きです。」


「だって、とてもきれいな人なんですもの。」



◇



それから二年後。


ハヨンは結婚した。


式場には、


ソニョンがいて、


ハナがいて、


セラがいて、


ジュヒもいた。


かつて、


決して同じ場所に立つことなどないと思っていた人たちが、


一枚の写真の中で笑っていた。


花嫁が投げたブーケは、


ジュヒの腕の中へと舞い降りた。


歓声が上がる。


ハヨンは照れくさそうに笑っていた。


そして、


彼の隣で微笑む花嫁は、


ハヨンとどこか似た響きの名前を持つ女性だった。


集合写真の中央で、


誰よりも眩しく笑っているのは、


もちろん花嫁だった。


その笑顔を見ながら、


セラは静かに思った。


もう、自分が立つべき場所を探さなくてもいいのだと。


帰る場所は、


いつの間にか、


ちゃんとできていたのだから。


「帰る場所は、いつの間にか、ちゃんとできていたのだから。」




皆様、本当にありがとうございました。

長い旅に最後までお付き合いいただき、心から感謝しております。

どうか皆様も、自分だけの居場所を見つけ、幸せな日々を歩んでください。

そして、どうぞお体を大切に。

またどこかで、お会いできる日を願っています。

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― 新着の感想 ―
最後は想像もしない展開になった感じでびっくりしました! ずっと楽しく読ませていただきありがとうございました!(´▽`)
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