はじめまして、セラさん
「ハヨン。」
私はフロントガラスの向こうを見たまま口を開いた。
「変な意味で聞いてるわけじゃないんだけど……。」
「うん?」
「百貨店のVIPのお客様ってさ。
今日みたいなクリスマスは、何をして過ごしてるんだろうって。」
「え? 急に?」
ハヨンは運転に気を配りながら、ちらりと私を見た。
「その人たちのこと?」
「うん。」
「そんなこと気にしてどうするんだよ。
お金持ちなんだから、豪華なパーティーでもしてるんじゃない?」
「そうかな……。」
私は小さく首を振った。
「私は、違う気がする。」
少しだけ間を置く。
「それでね。」
「うん?」
私は胸の奥に引っかかっていたことを、思い切って口にした。
「セラさんは……
今頃、何をしてるか知ってる?」
「えっ?」
自分でも不思議だった。
どうして私は、あの人のことが気になるんだろう。
忘れようとしても、ふと思い出してしまう。
考えないようにしても、頭から離れてくれない。
ハヨンの初恋の相手だから。
ただ、それだけなんだろうか。
その瞬間だった。
キキッ。
急ブレーキがかかり、私は思わず前へ体を持っていかれた。
「ご、ごめん!」
ハヨンは慌ててハンドルを握り直す。
「急にどうしたの?
なんで今、セラの話なんかするんだよ。」
眉を寄せたまま、私をちらりと見る。
「そんなに気になる?」
私は少しだけ視線を落とした。
「私にも分からない。」
小さく息をつく。
「でも、不思議なんだよね。
あの人のこと……そんなに嫌いになれないの。」
ハヨンから聞いた話を思い返す。
恵まれなかった子ども時代。
きっと苦労して育ってきたんだろう。
そう思うと、少しだけ胸が痛んだ。
同情なんてする資格はないのかもしれない。
それでも。
そう思ってしまった。
「……ありえない。」
ハヨンは小さく呟き、車をゆっくり走らせた。
幸い、路面は凍っていなかった。
「うん。」
私は苦く笑う。
「本当に、ありえないよね。」
どうして私は。
あの人のことばかり考えてしまうんだろう。
本当なら。
腹を立てて、嫌いになって。
嫉妬しても、おかしくないはずなのに。
なのに私は、
どうしても、そうなれなかった。
車内に、突然着信音が鳴り響いた。
流れてきたのは『雪の華』のサビ。
……あれ?
ハヨンの着信音って、前はこれじゃなかった気がする。
今日、変えたのかな。
それにしても。
男の人って、どうしてこういうところで分かりやすいんだろう。
昔付き合っていた人もそうだった。
SNSの投稿には、そのときの気分がそのまま伝わってくるような曲を流していたっけ。
そんなことを考えていた、そのときだった。
カーナビの画面に映った名前を見てしまった。
**シン・セラ。**
一瞬、息が止まる。
幼稚な嫉妬なのかもしれない。
それでも思ってしまった。
ハートマークも、特別な記号も何もない。
ただ、**シン・セラ**。
それだけだった。
……私の名前は、どんなふうに登録されているんだろう。
同じ画面を見たハヨンは、慌てたようにハンドルの通話終了ボタンを押した。
一度では終わらず、何度も何度も。
そんなに連打しなくても切れるのに、と言いたくなるくらいだった。
「どうして切るの?」
私は静かに尋ねた。
「出ればよかったのに。」
「ったく、あいつ……!」
ハヨンは露骨に顔をしかめた。
「セラってさ、本当に自分の都合がいいときしか電話してこないんだ。
そういうやつなんだよ。
今日くらい空気読めっていうの。」
ぶつぶつ文句を言いながらも、
「気にしなくていいから。」
「本当に。」
「全然気にしなくていい。」
そう何度も繰り返した。
……だから余計に気になるんだけど。
ハヨン。
本当に鈍いんだから。
そういうところ、本人だけが気づいてない。
「分かった。」
私は小さくうなずいた。
「本当に気にしない。
でも、またかかってきたら出てみたら?
どうして電話してきたのか、理由があるのかもしれないし。」
私が言い終わるか終わらないかのうちに、
また『雪の華』が流れ始めた。
画面には、もう一度。
**シン・セラ。**
「うわっ……またかよ!」
「ほら、出てみなよ。」
「いや、運転中だから危ないだろ。」
私は思わず笑ってしまう。
「この渋滞で?
全然動いてないじゃない。」
言われてみれば、その通りだった。
前にも後ろにも車がびっしり並び、
ぴくりとも進まない。
しびれを切らした私は、
助手席から手を伸ばし、
カーナビの通話ボタンを押した。
「ちょっ……!」
ハヨンが目を丸くする。
「何やってるんだよ!
なんで押すんだ!」
『もしもし?』
女性の声が車内に響く。
『もしもし?
ハヨン?
出たならちゃんと返事しなさいよ。』
車内のスピーカーから、セラの声が流れた。
少しだけ不機嫌そうな口調。
それなのに、その声は驚くほど澄んでいた。
耳に心地よく残る声だった。
……声まで綺麗なんだ。
そんなことを思ってしまう。
「えっ、なに?
お前さ! なんで今日に限って電話してくるんだよ!」
ハヨンは思わず怒鳴った。
その声は、自分でも驚くほど大きかったのだろう。
隣にいる私まで、びくっと肩を震わせてしまった。
どうしたの、そんな大きな声出して。
「もう、びっくりしたじゃない。」
スピーカーの向こうで、セラが少し笑う。
「ハヨン、急に怒鳴らないでよ。
せっかくクリスマスだから、元気かなって思って電話しただけなのに。
そんなに怒ること?」
話だけを聞けば、
間違ったことは言っていない。
クリスマスだから連絡をする。
それ自体は、おかしなことじゃない。
……問題は、その相手だけれど。
「と、とにかく!
俺、今運転中だから!
切るぞ!」
「運転中?」
セラは少し間を置いた。
「へぇ。
彼女とどこか出かけてるの?
それとも、もう帰り?」
ゆっくりとした話し方。
どこか甘く、耳に残る声。
怒られているはずなのに、
少しも取り乱している様子はなかった。
「そうだよ!
だから今日くらい空気読めって言ってるんだ!」
向こうから返事はなかった。
でも、電話は切れていない。
かすかに息遣いだけが聞こえてくる。
「……ごめん。」
セラが静かに口を開いた。
「私、ちょっと空気読めなかったね。」
少し笑うように続ける。
「それじゃ、彼女と楽しいクリスマスを。」
――彼女。
その言葉に、私は少しだけ救われた気がした。
少なくとも。
セラさんは、ちゃんと私を"彼女"として見てくれている。
だからこそ。
私はますます分からなくなる。
どうしてハヨンだけが、
あんなに必死だったんだろう。
普通なら。
好きな相手から電話がかかってきても、
今は一緒にいるから、あとでかけ直すね。
その一言で済む話なんじゃないだろうか。
なのにハヨンは違った。
あんなに必死になって怒鳴って、
追い返そうとしている。
まるで。
好きな子ほど素直になれない、
子どもみたいだった。
「あの……セラさん。」
電話が切れる前に、私は思わず声をかけた。
「ちょっ……何してるんだよ、ジュヒ!」
ハヨンが目を丸くして私を見る。
私は気にせず、そのまま続けた。
「初めまして。
まだ一応、ハヨンの恋人をしているジュヒです。」
ほんの少し間があいて、
スピーカーの向こうから穏やかな声が返ってきた。
「初めまして、ジュヒさん。
シン・セラです。
ジュヒさんって、素敵なお名前ですね。」
その落ち着いた話し方に、
思わず、あの日のことを口にしそうになる。
この人が、私たちの家に来たこと。
でも、それは飲み込んだ。
「この前、ハヨンから少しだけお話は聞きました。」
「少しだけって何だよ!
変な言い方するなって!」
ハヨンが慌てて割って入る。
「ハヨン。」
私は苦笑して彼を見た。
「少し静かにしてて。
さっきから怒ってばかりで、ハヨンらしくないよ。」
「……分かった。」
ハヨンは不満そうに口をつぐんだ。
「ところで。」
セラが静かに切り出す。
「さっきおっしゃっていた『まだ一応、恋人』というのは……
どういう意味なんでしょう?」
さりげない聞き方だった。
私たちの空気を乱さないように、
そっと話題を拾ってくれた気がした。
「大した意味じゃないんです。」
私は小さく笑う。
「ちょっと、そういう時期なだけで。」
「そうでしたか。」
セラもそれ以上は踏み込まなかった。
「それより、本当にごめんなさい。
クリスマスなのに、お電話なんてしてしまって。」
「いえ。」
私は首を振る。
「大丈夫です。
今ちょうど渋滞にはまっていて、車も全然動いてませんから。」
「そうなんですね。」
少しだけ間が空く。
「……それと、もう一つ。
謝らないといけないことがあるんです。」
セラさんの声は、さっきまでとは少し違っていた。
どこか重たくて。
言葉を選んでいるようにも聞こえた。
……緊張しているんだ。
そんなふうに思えた。
「謝りたいことって……何ですか?」
「実は……。」
セラは一度言葉を切る。
「この前、ハヨンの家に遊びに行ったんです。
……いえ。
正確には、お二人が暮らしている家ですね。」
静かな声が続く。
「最初は、本当に知らなかったんです。
ハヨンが誰かと一緒に暮らしているなんて。
それで家の中を見せてもらって……
勝手にジュヒさんのお部屋に入って、
ベッドにも座ってしまいました。」
私は思わずハヨンを見た。
あれだけ隠そうとしていたことを、
本人があっさり話してしまった。
……この人は。
正直な人なんだ。
それとも。
何も考えていないだけなんだろうか。
「そうだったんですね。」
私は静かに答えた。
「実は、今初めて知りました。」
嘘だった。
隣ではハヨンが息を潜め、
ただ黙って成り行きを見守っている。
「えっ?」
セラが驚いたように息をのむ。
「ハヨン、話してなかったんですか?
てっきりお伝えしているものだと思ってました。」
少しだけ声が沈む。
「もしかして……
私のせいで、お二人が喧嘩になったり……。」
私は言葉を失う。
……違う。
この人は、私をからかっているんじゃない。
本気で心配している。
そう思った瞬間。
「うるさい!」
ハヨンが叫んだ。
「喧嘩なんかしてない!
いいから電話切るぞ!」
その必死な様子に、
私はますます分からなくなった。
言っていることと、態度がまるで噛み合っていない。
本当に嫌なら、あんなふうにはならない気がした。
「セラさん。」
気がつけば、私は声をかけていた。
「え?」
「今、どちらにいらっしゃるんですか?
もし、お時間があるなら……。」




