別れ
明るく笑みを浮かべながら。
まるで他人事のように。
いや、映画やドラマの台詞でも口にするみたいに、ごく自然な口調で言葉を並べるジュヒの姿を見て、俺はふいに恐ろしくなった。
「勢いで言ってるわけじゃないよ。
怒ったから、急にこんなことを決めたわけでもない。
別れたあとでも、ハヨンが私に連絡したいって思うなら、してくれて構わない。
私は、今のこの状況が嫌だから別れたいわけじゃないの。」
「別れる……。」
俺は頭の中が真っ白になり、その言葉だけを何度も繰り返した。
「きっとハヨンは、今でもセラさんのことが好きなんだよ。
私は、その人の代わりにはなりたくない。
それが……私の最後のプライドだから。」
「代わりなんかじゃない!
絶対に違う!
そんなこと、一度だって思ったことはない!
セラとは、まったく関係ない!」
「そう言うんだったら、私も正直に聞くね。」
ジュヒは静かに俺を見つめた。
「ハヨン、私がいつも使ってる香水、何を使ってるか知ってる?
一度でも『買ってみよう』って思ったこと、ある?」
……考えてみれば、なかった。
ジュヒの香りを「いい匂いだな」と思ったことはあっても、それと同じ香水を買おうと思ったことは、一度もなかった。
「ほらね。
やっぱり、ないでしょ?
でも、ハヨンが使ってるその香水。
あれ、セラさんが使ってるものと同じなんだよね?」
……やっぱり、気づいていたのか。
ジュヒは、とっくに俺の香水のことを知っていた。
待てよ……。
じゃあ、ソンヨンさんは……?
「どうしたの?
その顔。」
ジュヒは小さく首をかしげる。
「図星だったんでしょ?
だったら、この機会だから聞いてもいい?」
「ずっと気になってたことがあるの。」
「気になってたこと?」
「あの香水って、どちらかと言えば女性がよく使う香りじゃないよね。
香りも少し強めだし。
もちろん、お店で買おうと思えば誰でも買える香水だけど。」
ジュヒは一度言葉を切った。
「でもね。
百貨店のVIPの親子が同じ香水を使ってるだけでも珍しいのに、
セラさんまで同じだったでしょう?
三人とも同じ香水なんて、さすがに出来すぎだなって思ったの。
だから、ハヨンがプレゼントしたのかなって。
「しかも、その香水をハヨンまで使ってるでしょう?」
「えっ……?」
あまりにも意外な問いに、言葉を失う。
ジュヒは、そんなところにまで思い至っていたのか。
「違う。
本当に違うんだ。
そんなこと、一度も考えたこともない。
誰にもプレゼントなんてしてない。」
「……そっか。」
ジュヒは小さくうなずいた。
「それは、少し安心した。」
彼女の瞳に、少しずつ涙が滲み始める。
「だからって、許したって意味じゃないよ。
友達なら、そういうこともあるのかなって思おうともした。
でも……。」
ジュヒは目を伏せ、小さく息をつく。
「やっぱり分からない。
分からないけど……悲しい。」
一粒の涙が、頬を伝って落ちた。
それを追いかけるように、もう一粒。
やがて堰を切ったように、涙は止まらなくなった。
「……どうして、涙が出るんだろう。」
ジュヒが素早くティッシュを抜き取るのを見て、ふと思った。
……俺が先に取って渡すべきだったんじゃないか。
また、一歩遅れてしまったのかもしれない。
翌朝。
クリスマスの朝になっても、ジュヒはいつも通り仕事へ向かった。
百貨店は、この時期が一年でいちばん忙しい。
休めるはずもなかったのだろう。
この胸に残る寂しさは、何なんだろう。
「やっぱり行かなきゃ。
一番忙しい時期だしね。
一日ゆっくり休んだから、体調もだいぶ良くなったし。」
ジュヒは小さく笑った。
「それに、ハヨンがちゃんと看病してくれたおかげかな。」
綺麗に化粧をして、いつも以上に身なりを整えたジュヒは、穏やかな笑みを浮かべていた。
昨日までとはどこか違う。
少しだけ、大人びて見えた。
……そういえば、もともとジュヒは俺より二つ年上だった。
「それと。
昨日、私が言ったこと。
ちゃんと考えておいてね。」
……あの別れ話は、一方的な通告ではなかったらしい。
「……うん。」
「分かった。」
「今日すぐ別れるって決めても、荷物はすぐには運び出せないから。
そこだけは、許してね。」
玄関先で、少し高めのヒールを履きながら。
ジュヒはいつものように屈託なく笑った。
その笑顔を見ているだけで、胸の奥が締めつけられるように痛んだ。
「……一回だけ。
抱きしめてもいい?」
俺の言葉を聞くと、ジュヒは何も言わずに両腕を広げた。
俺は、かつて俺の隣にいたその人を、力いっぱい抱きしめた。
泣きそうだった。
奥歯を強く噛み締めて、どうにかこらえる。
そんな俺の気持ちを見透かしていたのか、ジュヒはそっと俺の背中を撫でながら、小さな声で囁いた。
「大丈夫。
大丈夫だから。
きっと、大丈夫。」
手をつないだまま、一緒にエレベーターへ乗った。
一階に着くまで、ジュヒは何も言わなかった。
「もう行かないと。
いってきます。」
「うん。
いってらっしゃい。
気をつけてね。
車も、人も。 気をつけてね。」
ジュヒは笑って手を振った。
俺は、その背中を見送った。
人混みに紛れて、その姿が見えなくなるまで。
その場から、一歩も動けなかった。
「いってきます。」
その一言だけが、何度も頭の中で繰り返される。
気づけば、涙が頬を伝っていた。
ティッシュを取ろうとして、手が止まる。
……もう、取ってくれる人はいない。
情けないな。
涙は、なかなか止まってくれなかった。
「いってきます、か……。」
そうだ。
遅れないように。
気をつけて、帰ってこないと。




