名前
ジュヒの声は、
静かだった。
けれど、
どこか冷たかった。
その声を聞いた瞬間、
俺は真実を話すことができなかった。
いや、
話す必要なんてないと思った。
……違う。
話してはいけない。
そう確信していた。
俺が話さない限り、
ジュヒは何も知らない。
そう思い込もうとしていた。
「昨日のこの時間?
昨日のこの時間は……
ああ、そうだ。
外回りから戻って、
会社へ戻る準備をしてたかな。」
「……そう。」
ジュヒは小さく息を吐いた。
静かで、
長いため息だった。
その音を聞いた途端、
俺は体を起こした。
何となく、
服を着なければいけない気がした。
「男の人って、
本当に嘘が下手なんだね。」
「嘘?
俺は嘘なんてついてないけど。」
「会社へ戻る準備を、
どうして家でするの?
家は会社じゃないよね。」
「何の話?
言ってる意味が全然分からないんだけど。」
「ねえ、ハヨン。」
ただ名前を呼ばれただけなのに、
まるで取り調べでも受けているような気分になった。
「でもね。
一つだけ、おかしなことがあるの。」
「おかしなこと?
急に何の話?」
「あなたの車の中でしていた香水の香り。
それが私の部屋でもするの。
……このベッドは、
もっと強く残ってる。」
何を言ってるんだ。
香水?
何の香りのことだ?
まさか、
俺を揺さぶろうとしているだけじゃないのか。
そう思いながら、
必死に平静を装った。
「何のことを言ってるんだよ。
それのどこがおかしいんだ?」
「だから。
うちのお店のVVIPのお客様。
……ううん。
私を病院まで送ってくださったあの方たちからも、
まったく同じ香りがしてたの。」
……嘘だろ。
どういうことだ。
セラが使っていた香水は、
セニョンさんも使っていた。
娘にも同じものを渡したと言っていた。
……いや。
同じ香りを身につけているのは、
あの三人だけのはずだった。
なのに、
どうしてジュヒが気づく?
香りだけで、
そこまで分かるものなのか。
それとも……。
俺の反応を見ているだけなんじゃないのか。
「ねえ、ハヨン。
私ね……。」
「ちょ、ちょっと待って。
何言ってるんだよ。
セニョンさんは一度も俺の車に乗ったことなんてない。
ハナも同じだ。
だから、それは絶対に違う。
ジュヒの匂いじゃないのか?
そうだよ。
きっとそうだ。」
自分でも、
完璧な結論だと思った。
これでもう、
この話は終わるはずだ。
「……絶対に違う?
それってつまり、
ほかの誰かがあなたの車に乗っていたってこと?
女の人が。」
「ああ、もう!
何なんだよ。
昨日、俺が誰かと会ってたって疑ってるの?
女物の香水なんて、
どれも似たようなものだろ。
ジュヒはいつも俺の車に乗ってるんだから、
その匂いに慣れてるだけじゃないのか?」
俺はジュヒの肩へそっと手を置いた。
落ち着け。
ここで取り乱したら終わりだ。
セラは昨日、
ここへは来ていない。
「それに、
VVIPのお客様が病院まで送ってくれたんだろ?
そのときに服へ香りが移っただけだよ。」
「ねえ。
私ね、
怒ってるわけじゃないの。」
ジュヒは静かに俺を見つめた。
「でも、
間違いない。
私をごまかすことはできないよ。
その香水……
ハヨンも持ってるよね?
結構高い香水だったから、
よく覚えてる。」
その言葉を聞いた瞬間、
自分の愚かさに気づいた。
……しまった。
そうだ。
俺が持っている香水だと言えば、
それで済んだ話だったじゃないか。
俺は強く拳を握り締めた。
「ハヨン。
それより、
もっと分からないことがあるの。」
「何だよ。
今度は何?」
「うちの百貨店のVVIPのお客様の名前を、
ハヨンが知ってることは分かるよ。
家まで訪問してるんだから。」
ジュヒは一度言葉を切り、
静かに続けた。
「でも、
どうしてそんなに親しそうに名前で呼ぶの?
『ソンヨンさん』って。」
……しまった。
思わずそう呼んでしまった。
どうして俺は、
わざわざ『ソンヨンさん』なんて口にしたんだ。
焦っていたせいか。
「俺が?
あ……それは……。」
俺が言葉に詰まると、
ジュヒはそのまま続けた。
「私が言いたいのはね。
ハヨンの車に乗っていた人は、
あの二人じゃないってこと。
だって話が噛み合わないもの。
それに……。」
「それに?」
必死に頭を回転させていた、その時だった。
ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴った。
……助かった。
注文していたピザが届いたんだ。
俺は慌てて服を身につけると、
何も言わず部屋を飛び出した。
今日だけは、
配達員に心から礼を言いたい気分だった。
「本当にありがとうございます。
思ったより早かったですね。
ピザもまだ温かいです。
いただきます。」
今まで何度もデリバリーを頼んできたが、
こんなにも丁寧に頭を下げたのは初めてだった。
「ありがとうございます。
ごゆっくりどうぞ。」
配達員はピザと一・五リットルのコーラを俺へ手渡すと、
用は済んだと言わんばかりに、
そのまま足早に立ち去っていった。
俺はその後ろ姿を、
ほんの少しだけ見送っていた。
「ピザ持ったまま、
そこで何してるの?」
後ろから声がした。
振り返ると、
ジュヒが部屋から出てきていた。
「え?
ああ、いや……
今日は注文がかなり混んでたらしいけど、
うちは思ったより早く届いたんだなって。」
「そうなの?
早く持ってきて。
食べよう。
私、お腹ぺこぺこ。」
「うん。
まだ温かいよ。」
箱を開けた瞬間、
ステーキとプルコギソースの濃厚な香りが部屋いっぱいに広がった。
とろけたチーズが具材に絡みつき、
焼きたての熱をそのまま閉じ込めているようだった。
「とにかく食べよう。
私、本当にお腹すいた。」
ジュヒがそう言った。
「俺も同じだよ。
本当に腹が減った。
久しぶりだったからかな。
結構疲れたし。」
わざと軽く冗談めかして言ってみた。
何か話さなければならない。
でも、
何をどう話せばいいのか、
まったく分からなかった。
俺はピザを一切れ手に取ったまま、
口へ運ぶこともできず、
ただ指先でもてあそんでいた。
……いや。
待て。
もしジュヒが本当に全部知っているなら、
今日の態度は何なんだ。
違う。
きっと俺を試しているだけだ。
そうに違いない。
俺は小さく唾を飲み込んだ。
こんな状況なのに、
腹だけは正直だった。
「どうしたの?
食べないの?」
ジュヒが少し呆れたように言った。
「そんな顔でずっとピザを眺められたら、
食べてる私まで美味しくなくなっちゃう。」
そう言いながらも、
ジュヒはピザを一口ずつ口へ運んでいた。
俺には、
この状況がまったく理解できなかった。
「いや……
そういうわけじゃなくて。
俺は――」
そこまで言いかけた瞬間だった。
パンッ。
ジュヒの手のひらが、
テーブルを軽く叩いた。
「だから、
まずは食べよう。
話はそのあと。
私も、
ハヨンも、
少し頭を整理してから話したほうがいい。
……分かる?」
「……分かった。」
気づけば、
俺の口調はすっかり弱々しくなっていた。
気がつけば、
俺は急に大人しくなっていた。
強く出られると、
なぜか俺のほうが弱くなってしまう。
あの頃から、そうだった。
「やっぱり、
温かいうちに食べるピザは美味しいね。」
「うん。
トッピングの組み合わせもいい。
私はこういう、
生地にさつまいもとチーズが入ってるのが好きなんだ。
これって追加したんでしょ?」
「うん、そう。」
「こういう気が利くことはできるんだ。
美味しいけど……
太るのは仕方ないのかな。」
「大丈夫だよ。
病院でもちゃんと食べろって言われたし。
一日や二日くらい平気だから。
それに……
太ったって……。
いや、そんなこと気にしなくていい。」
「太ったって?」
「本当に大丈夫だよ。」
俺はピザを持っていない左手で、
テーブルを指先で何度も軽く叩いた。
その合間にも、
何度となくジュヒの表情をうかがってしまう。
「太ったっ気にしなくていいってこと。」
「わかった。
今は最後まで食べよう。
余計なこと考えないで。
お腹すいたって言ってたでしょ?
私、まだ話したいことが残ってるから。
それに……
思ってるほど怒ってないよ。」
「怒って……ないの?」
俺の問いに、
ジュヒは思わず吹き出した。
もしかすると、
今の質問はよほど間の抜けたものだったのかもしれない。
……いや。
「かもしれない」じゃない。
間違いなく、
間抜けだった。
食べ終わったあとの片づけは、
全部俺が引き受けた。
食器を洗いながら、
何度も考え直した。
確かに、
セラはこの家へ来た。
それも、
ジュヒの部屋へ。
だけど、
結局のところ、
俺はセラに何一つしていない。
「そうだ。
本当のことじゃないか。
どうしても信じられないなら、
セラ本人に電話して聞けばいい。」
それに、セラが座っていたのはジュヒの部屋だったとはいえ、
セラは幼い頃からの友達だ。
本当に、俺は何もしていない。
だから……
「ああ……
何を言いたいんだ、俺は。」
「つまり、
大丈夫ってことなのか。
それでいいってことなのか。」
……分からない。
まったく分からなかった。
ピザを食べ終えたジュヒは部屋へ戻り、
三十分ほど姿を見せなかった。
俺は相変わらず、
ダイニングテーブルにぼんやり座ったままだった。
ジュヒがどんな答えを持って部屋から出てくるのか。
それを待ちながら、
頭の中では、
その答えへの言い訳ばかりを何度も繰り返していた。
「さあ。
今度は少し話そうか。」
俺は小さく身構えた。
……今度は何を言われるんだ。
「ねえ。
これ、知ってる?」
部屋から出てきたジュヒは、
まるで何でもないことのように言った。
「ベッドと枕に、
長い髪の毛が落ちてたの。
しかも一本じゃない。
何本も。」
そう言いながら、
ジュヒは一本の髪を指先でつまみ、
俺の前へそっと差し出した。
「これは、
どう見ても私の髪じゃない。
ね?
ハヨンが見ても、
そう思うでしょ?」
……終わった。
何でこんなことになるんだ。
別れるとか、
そんなことよりも、
この先どうすればいい。
……いや、
それより分からない。
全部気づいていたはずなのに、
どうしてさっき、
俺を抱き寄せようとしたんだ。
どうして、
俺の体温を確かめるようなことをした。
何なんだよ。
本当に、
何なんだ……。
「ちょっと待って。」
「しーっ。」
ジュヒは人差し指を唇に当てた。
「結論は最後に話すから。
だから、
最後まで私の話を聞いて。」
俺の言葉は、
あっさり遮られた。
「……分かった。」
俺は小さくうなずいた。
「間違いない。
昨日、
ハヨンはあの二人以外の女の人と会ってた。
その人が誰なのかまでは分からない。
でも、
その人を車に乗せて、
この家まで連れてきた。」
「連れ込んだわけじゃない。」
「最後まで聞いて。」
「……分かった。」
「この部屋で二人が何をしたのかは分からない。
本当は、
知りたいとも思わなかった。
でも今は……
知りたくなっちゃった。
どうして私の部屋に入ったの?
二人で何をするつもりだったの?
部屋で何かするなら、
自分の部屋に連れて行けばよかったじゃない。」
……もう駄目だ。
ここまで来たら、
全部話そう。
これ以上言い訳を続けても、
もう自分でも耐えられない。
それに、
本当にセラとは何もなかったんだから。
「分かった。
全部、本当のことを話す。
信じられないなら、
今すぐセラに電話して確認してもいい。
俺が言うことは全部本当だから。」
「……セラ?」
「そう。
セラ。
実は……。」




