↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
20/34

名前

ジュヒの声は、


静かだった。


けれど、


どこか冷たかった。


その声を聞いた瞬間、


俺は真実を話すことができなかった。


いや、


話す必要なんてないと思った。


……違う。


話してはいけない。


そう確信していた。


俺が話さない限り、


ジュヒは何も知らない。


そう思い込もうとしていた。


「昨日のこの時間?


昨日のこの時間は……


ああ、そうだ。


外回りから戻って、


会社へ戻る準備をしてたかな。」


「……そう。」


ジュヒは小さく息を吐いた。


静かで、


長いため息だった。


その音を聞いた途端、


俺は体を起こした。


何となく、


服を着なければいけない気がした。


「男の人って、


本当に嘘が下手なんだね。」


「嘘?


俺は嘘なんてついてないけど。」


「会社へ戻る準備を、


どうして家でするの?


家は会社じゃないよね。」


「何の話?


言ってる意味が全然分からないんだけど。」


「ねえ、ハヨン。」


ただ名前を呼ばれただけなのに、


まるで取り調べでも受けているような気分になった。


「でもね。


一つだけ、おかしなことがあるの。」


「おかしなこと?


急に何の話?」


「あなたの車の中でしていた香水の香り。


それが私の部屋でもするの。


……このベッドは、


もっと強く残ってる。」


何を言ってるんだ。


香水?


何の香りのことだ?


まさか、


俺を揺さぶろうとしているだけじゃないのか。


そう思いながら、


必死に平静を装った。


「何のことを言ってるんだよ。


それのどこがおかしいんだ?」


「だから。


うちのお店のVVIPのお客様。


……ううん。


私を病院まで送ってくださったあの方たちからも、


まったく同じ香りがしてたの。」


……嘘だろ。


どういうことだ。


セラが使っていた香水は、


セニョンさんも使っていた。


娘にも同じものを渡したと言っていた。


……いや。


同じ香りを身につけているのは、


あの三人だけのはずだった。


なのに、


どうしてジュヒが気づく?


香りだけで、


そこまで分かるものなのか。


それとも……。


俺の反応を見ているだけなんじゃないのか。


「ねえ、ハヨン。


私ね……。」


「ちょ、ちょっと待って。


何言ってるんだよ。


セニョンさんは一度も俺の車に乗ったことなんてない。


ハナも同じだ。


だから、それは絶対に違う。


ジュヒの匂いじゃないのか?


そうだよ。


きっとそうだ。」


自分でも、


完璧な結論だと思った。


これでもう、


この話は終わるはずだ。


「……絶対に違う?


それってつまり、


ほかの誰かがあなたの車に乗っていたってこと?


女の人が。」


「ああ、もう!


何なんだよ。


昨日、俺が誰かと会ってたって疑ってるの?


女物の香水なんて、


どれも似たようなものだろ。


ジュヒはいつも俺の車に乗ってるんだから、


その匂いに慣れてるだけじゃないのか?」


俺はジュヒの肩へそっと手を置いた。


落ち着け。


ここで取り乱したら終わりだ。


セラは昨日、


ここへは来ていない。


「それに、


VVIPのお客様が病院まで送ってくれたんだろ?


そのときに服へ香りが移っただけだよ。」


「ねえ。


私ね、


怒ってるわけじゃないの。」


ジュヒは静かに俺を見つめた。


「でも、


間違いない。


私をごまかすことはできないよ。


その香水……


ハヨンも持ってるよね?


結構高い香水だったから、


よく覚えてる。」


その言葉を聞いた瞬間、


自分の愚かさに気づいた。


……しまった。


そうだ。


俺が持っている香水だと言えば、


それで済んだ話だったじゃないか。


俺は強く拳を握り締めた。



「ハヨン。


それより、


もっと分からないことがあるの。」


「何だよ。


今度は何?」


「うちの百貨店のVVIPのお客様の名前を、


ハヨンが知ってることは分かるよ。


家まで訪問してるんだから。」


ジュヒは一度言葉を切り、


静かに続けた。


「でも、


どうしてそんなに親しそうに名前で呼ぶの?


『ソンヨンさん』って。」


……しまった。


思わずそう呼んでしまった。


どうして俺は、


わざわざ『ソンヨンさん』なんて口にしたんだ。


焦っていたせいか。


「俺が?


あ……それは……。」


俺が言葉に詰まると、


ジュヒはそのまま続けた。


「私が言いたいのはね。


ハヨンの車に乗っていた人は、


あの二人じゃないってこと。


だって話が噛み合わないもの。


それに……。」


「それに?」


必死に頭を回転させていた、その時だった。


ピンポーン。


玄関のチャイムが鳴った。


……助かった。


注文していたピザが届いたんだ。


俺は慌てて服を身につけると、


何も言わず部屋を飛び出した。


今日だけは、


配達員に心から礼を言いたい気分だった。


「本当にありがとうございます。


思ったより早かったですね。


ピザもまだ温かいです。


いただきます。」


今まで何度もデリバリーを頼んできたが、


こんなにも丁寧に頭を下げたのは初めてだった。


「ありがとうございます。


ごゆっくりどうぞ。」


配達員はピザと一・五リットルのコーラを俺へ手渡すと、


用は済んだと言わんばかりに、


そのまま足早に立ち去っていった。


俺はその後ろ姿を、


ほんの少しだけ見送っていた。


「ピザ持ったまま、


そこで何してるの?」


後ろから声がした。


振り返ると、


ジュヒが部屋から出てきていた。


「え?


ああ、いや……


今日は注文がかなり混んでたらしいけど、


うちは思ったより早く届いたんだなって。」


「そうなの?


早く持ってきて。


食べよう。


私、お腹ぺこぺこ。」


「うん。


まだ温かいよ。」


箱を開けた瞬間、


ステーキとプルコギソースの濃厚な香りが部屋いっぱいに広がった。


とろけたチーズが具材に絡みつき、


焼きたての熱をそのまま閉じ込めているようだった。


「とにかく食べよう。


私、本当にお腹すいた。」


ジュヒがそう言った。


「俺も同じだよ。


本当に腹が減った。


久しぶりだったからかな。


結構疲れたし。」


わざと軽く冗談めかして言ってみた。


何か話さなければならない。


でも、


何をどう話せばいいのか、


まったく分からなかった。


俺はピザを一切れ手に取ったまま、


口へ運ぶこともできず、


ただ指先でもてあそんでいた。


……いや。


待て。


もしジュヒが本当に全部知っているなら、


今日の態度は何なんだ。


違う。


きっと俺を試しているだけだ。


そうに違いない。


俺は小さく唾を飲み込んだ。


こんな状況なのに、


腹だけは正直だった。


「どうしたの?


食べないの?」


ジュヒが少し呆れたように言った。


「そんな顔でずっとピザを眺められたら、


食べてる私まで美味しくなくなっちゃう。」


そう言いながらも、


ジュヒはピザを一口ずつ口へ運んでいた。


俺には、


この状況がまったく理解できなかった。


「いや……


そういうわけじゃなくて。


俺は――」


そこまで言いかけた瞬間だった。


パンッ。


ジュヒの手のひらが、


テーブルを軽く叩いた。


「だから、


まずは食べよう。


話はそのあと。


私も、


ハヨンも、


少し頭を整理してから話したほうがいい。


……分かる?」


「……分かった。」


気づけば、


俺の口調はすっかり弱々しくなっていた。


気がつけば、

俺は急に大人しくなっていた。


強く出られると、

なぜか俺のほうが弱くなってしまう。

あの頃から、そうだった。


「やっぱり、


温かいうちに食べるピザは美味しいね。」


「うん。


トッピングの組み合わせもいい。


私はこういう、


生地にさつまいもとチーズが入ってるのが好きなんだ。


これって追加したんでしょ?」


「うん、そう。」


「こういう気が利くことはできるんだ。


美味しいけど……


太るのは仕方ないのかな。」


「大丈夫だよ。


病院でもちゃんと食べろって言われたし。


一日や二日くらい平気だから。


それに……


太ったって……。


いや、そんなこと気にしなくていい。」


「太ったって?」


「本当に大丈夫だよ。」


俺はピザを持っていない左手で、


テーブルを指先で何度も軽く叩いた。


その合間にも、


何度となくジュヒの表情をうかがってしまう。


「太ったっ気にしなくていいってこと。」


「わかった。


今は最後まで食べよう。


余計なこと考えないで。


お腹すいたって言ってたでしょ?


私、まだ話したいことが残ってるから。


それに……


思ってるほど怒ってないよ。」


「怒って……ないの?」


俺の問いに、


ジュヒは思わず吹き出した。


もしかすると、


今の質問はよほど間の抜けたものだったのかもしれない。


……いや。


「かもしれない」じゃない。


間違いなく、


間抜けだった。


食べ終わったあとの片づけは、


全部俺が引き受けた。


食器を洗いながら、


何度も考え直した。


確かに、


セラはこの家へ来た。


それも、


ジュヒの部屋へ。


だけど、


結局のところ、


俺はセラに何一つしていない。


「そうだ。


本当のことじゃないか。


どうしても信じられないなら、


セラ本人に電話して聞けばいい。」


それに、セラが座っていたのはジュヒの部屋だったとはいえ、


セラは幼い頃からの友達だ。


本当に、俺は何もしていない。


だから……


「ああ……


何を言いたいんだ、俺は。」


「つまり、


大丈夫ってことなのか。


それでいいってことなのか。」


……分からない。


まったく分からなかった。


ピザを食べ終えたジュヒは部屋へ戻り、


三十分ほど姿を見せなかった。


俺は相変わらず、


ダイニングテーブルにぼんやり座ったままだった。


ジュヒがどんな答えを持って部屋から出てくるのか。


それを待ちながら、


頭の中では、


その答えへの言い訳ばかりを何度も繰り返していた。


「さあ。


今度は少し話そうか。」


俺は小さく身構えた。


……今度は何を言われるんだ。


「ねえ。


これ、知ってる?」


部屋から出てきたジュヒは、


まるで何でもないことのように言った。


「ベッドと枕に、


長い髪の毛が落ちてたの。


しかも一本じゃない。


何本も。」


そう言いながら、


ジュヒは一本の髪を指先でつまみ、


俺の前へそっと差し出した。


「これは、


どう見ても私の髪じゃない。


ね?


ハヨンが見ても、


そう思うでしょ?」


……終わった。


何でこんなことになるんだ。


別れるとか、


そんなことよりも、


この先どうすればいい。


……いや、


それより分からない。


全部気づいていたはずなのに、


どうしてさっき、


俺を抱き寄せようとしたんだ。


どうして、


俺の体温を確かめるようなことをした。


何なんだよ。


本当に、


何なんだ……。


「ちょっと待って。」


「しーっ。」


ジュヒは人差し指を唇に当てた。


「結論は最後に話すから。


だから、


最後まで私の話を聞いて。」


俺の言葉は、


あっさり遮られた。


「……分かった。」


俺は小さくうなずいた。


「間違いない。


昨日、


ハヨンはあの二人以外の女の人と会ってた。


その人が誰なのかまでは分からない。


でも、


その人を車に乗せて、


この家まで連れてきた。」


「連れ込んだわけじゃない。」


「最後まで聞いて。」


「……分かった。」


「この部屋で二人が何をしたのかは分からない。


本当は、


知りたいとも思わなかった。


でも今は……


知りたくなっちゃった。


どうして私の部屋に入ったの?


二人で何をするつもりだったの?


部屋で何かするなら、


自分の部屋に連れて行けばよかったじゃない。」


……もう駄目だ。


ここまで来たら、


全部話そう。


これ以上言い訳を続けても、


もう自分でも耐えられない。


それに、


本当にセラとは何もなかったんだから。


「分かった。


全部、本当のことを話す。


信じられないなら、


今すぐセラに電話して確認してもいい。


俺が言うことは全部本当だから。」


「……セラ?」


「そう。


セラ。


実は……。」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。