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洗い流す

どうして私は突然倒れてしまったんだろう。


こんなことは初めてだった。


人は誰だって体調を崩すことはある。


でも社会に出ると、


体調を崩すことさえ自己管理不足だと思われてしまうことがある。


車で家へ向かう途中、


私は職場へ電話をかけた。


今日、無断で休んでしまったことが気になっていたからだ。


「店長、お騒がせして申し訳ありません。


今、退院して家へ向かっているところです。」


「ジュヒさん、大丈夫ですか?


突然倒れたって聞いて、みんな本当に驚いたんですよ。」


店長の声には、


心配と、それから少しだけ叱るような響きが混じっていた。


「でも、本当に助かりましたよ。


お客様が……いや、うちの売り場のVVIPのお客様が、


責任を持って病院まで連れて行きますって言ってくださって。


あんな立派な方がまだいらっしゃるんだなって、


本当に感動しました。


とにかく、ジュヒさん。


もう体は大丈夫なんですね?」


私は店長の話を黙って聞いていた。


そういえば、


店長ってこんなにおしゃべりな人だっただろうか。


でも、


きっと私を心配してくれているからなんだ。


そう思うと、


嫌な気持ちにはならなかった。


少しだけ寂しい気持ちはあったけれど、


不思議と嫌ではなかった。


「はい。


検査でも大きな異常はないそうです。


一時的なショックだったみたいで。」


「そうですか。


分かりました。


今日はゆっくり休んでください。


また明日。


……明日は出勤できそうですか?」


「はい。


もちろんです。


ご心配をおかけして、本当に申し訳ありませんでした。」


電話を切ると、


少しだけ気持ちが沈んだ。


店長という立場なのだから、


突然部下が倒れたとなれば、


きっと店長にもいろいろ事情はあったんだと思う。


私が倒れていた間に、


私の知らないこともたくさんあったはずだ。


それでも、


ほんの少しだけ寂しかった。


「職場から?」


突然聞こえたハヨンの声に、


私ははっと我に返った。


ハヨンは片手でハンドルを握りながら、


ちらりと私を見た。


「心配してた?」


「……うん。


まあ、そんな感じかな。」


私は無理に笑って頷いた。


家に着くまで、


私たちはほとんど会話をしなかった。


少し長く話したといえば、


「何食べようか。」


「何か食べたいものある?」


そのくらいだった。


恋人が突然倒れて入院したのに、


言いたいことはそれだけなの?


そう思ってしまうくらいには。


「昨日のお昼からだっけ?


今朝もあまり食べてないし、お腹空いただろ?


体は大丈夫?


本当に大丈夫?」


……聞くの、遅いよ。


思わず心の中でそうつぶやいた。


「うん。


大丈夫。


心配してくれてありがとう。」


車を駐車場に停めると、


ハヨンはもう一度確認するように尋ねた。


「歩いててふらついたりしない?


息苦しくない?


どこか痛くない?」


「平気だよ。」


そう答えると、


ハヨンはすぐに車を降り、


助手席のドアを開けてくれた。


「つらかったら肩貸そうか?」


……どうしたんだろう。


こんなハヨン、


今まで一度も見たことがなかった。


「ありがとう。


でも、本当にもう大丈夫。」


エレベーターで部屋まで上がり、


玄関の前に立った、その時だった。


胸の奥が、何かを告げようとしているような、


そんな妙な胸騒ぎを覚えた。


けれど、それが何なのかは、


私にはまったく分からなかった。


玄関のドアを開けて家へ入った瞬間も、


どこか引っかかるような違和感はあった。


でも、


それが何なのかは分からない。


ただ、


どこか落ち着かないハヨンの様子だけが気になった。


「どうしたの?」


ハヨンはぎこちなく笑った。


「え? 何でもないよ。」


「何かあった?」


「いや、本当に何でもない。」


「疲れただろ? 少し休んだら?」


「うん。少し休みたいかな。」


「そ、そうだよな。ゆっくり休んで。」


私は自分の部屋へ向かおうと、ドアノブに手をかけた。


その瞬間だった。


「あ、あのさ!」


慌てたようにハヨンが声を上げた。


「お腹空いてない?何か頼もうか。


昨日の夜から今朝まで、ちゃんと食べてないだろ?


ほら、何か食べよう。


それとも先にシャワー浴びる?」


「そうだね。


でも、お腹空いてるのはハヨンのほうじゃない?


私は病院で一応食べたし。」


「それだけじゃ足りないよ。


俺、何か注文するから。」


「うん。


ありがとう。」


部屋へ入った瞬間、


玄関で感じたあの違和感の正体がすぐに分かった。


ぞくりと鳥肌が立つ。


「……女の人の匂い。」


部屋には、


私のものではない香りが残っていた。


香水。


それに化粧品の香り。


百貨店で働いている私が、


間違えるはずがない。


照明をつけ、


ベッドへ腰を下ろした瞬間、


その香りはいっそうはっきりと感じられた。


そして、


ピンク色の枕の上に、


一本の長い髪の毛を見つけた。


「……茶色い、長い髪。」


私の髪じゃない。


長さも違う。


その時になって、


ようやく分かった。


玄関に入った時から、


ハヨンがあんなにも落ち着かなかった理由を。


「……急に、お風呂に入りたくなっちゃった。」


私はリビングへ出ながら言った。


どうしてだろう。


体だけじゃない。


心まで洗い流したくなるような、


そんな気分だった。


ハヨンはリビングを落ち着きなく歩き回っていた。


その様子だけでも、


十分に不自然だった。


「お風呂? い、今から? そ、そうか。


昨日も入れなかったもんな。


ゆっくり入っておいで。


その間に何か注文しておくから。」


「ううん。」


私は静かに首を横へ振った。


「ハヨンも一緒に入ろう。」


「……え?」


「今日は、


ハヨンと一緒にお風呂に入りたい。」


衝動なんかじゃなかった。


病院まで駆けつけてくれたことへのお礼でもない。


考えてみれば、


私が倒れたあの日、


ハヨンは私の部屋で、


私のベッドにいた。


そこに、もう一人の女性がいた。


二人が何をしていたのかなんて、


どうでもいい。


知りたいとも思わない。


ただ、


この部屋に残った香りも、


私たちの体に残った香りも、


全部洗い流してしまいたかった。


私は浴室の前で立ち止まり、静かに言った。


「週末、天気がよかったら、シーツでも洗おうかな。」


「せっかくだから、きれいに洗って。


……本当に、きれいになるくらい。」


私は何も身につけないまま、


浴室の前に立って言った。


「えっ?あ、そう?でも急にどうして?」


「ううん。


ずっと洗ってなかったし、


ちょうどいいかなって。」


「そっか。


そうしよう。


病院にも行ってきたし、


新しい気持ちでやり直そう。」


浴室では、私たちはほとんど顔を合わせなかった。


ただ黙って、それぞれ自分のすることをしていた。


「ねえ、ジュヒ。


背中、洗ってあげようか?」


「背中?」


私は少しだけ迷った。


でも、静かに頷いた。


「うん。お願い。


せっかくだから、


タオルでしっかりこすって。


……きれいに。


本当にきれいになるくらい。」


「分かった。」


ハヨンはタオルをお湯で軽く温めると、


両手で優しく広げ、


ゆっくりと私の背中を洗い始めた。


「痩せたね。


少し体重、落ちたんじゃない?」


「そうかな。


自分じゃ分からないけど……。」


そう答えながらも、


私の頭の中は、


別のことでいっぱいだった。


いったい、


誰がこの家に来たんだろう。


どうして私の部屋で、


どうして私のベッドで……。


そんなことばかり考えていた。


「今度は私が洗ってあげる。


後ろ向いて。」


私はタオルをお湯ですすいだ。


ハヨンは何も言わず、


私の言葉どおり静かに背中を向けた。


「俺、


垢、結構出そうだけど……。」


ぎこちない笑いだった。


「いいじゃない。


そういう日もあるよ。」


私はハヨンの広い背中を、


タオルでゆっくりと洗い始めた。


もし今、思っていることを全部ぶつけられたら。


「昨日、誰と一緒にいたの?


私が何も気づかないとでも思った?


私のこと、そんなに馬鹿だと思ってるの?


ねえ、ハヨン。


どうして私の部屋だったの?


どうして私のベッドだったの?


家に連れてくるなら、せめて自分の部屋にすればよかったじゃない。


……この、大馬鹿。」


そんなことを口にしてしまったら、


私たちは、


もう今までのようには戻れない気がした。


「どう?


垢、いっぱい出てる?」


もしかしたら、


全部私の思い込みなのかもしれない。


私の勘違いなのかもしれない。


でも、


あの髪の毛も、


あの香りも、


嘘じゃない。


だったら、


あれは何だったんだろう。


「……ジュヒ?


大丈夫?


聞こえてる?」


そういえば、


私の手はずっと動いていたのに、


考え事ばかりしていて、


ハヨンが何を話していたのか、


まったく耳に入っていなかった。


「ごめん。


ちょっと考え事をしてた。


もういいよ。


そろそろ出ようか。」


「え?


あ、うん。


じゃあ軽く流して先に出るよ。


ジュヒは、


もう少しゆっくり入ってて。」


その優しい声を聞いたのは、


いったいいつ以来だっただろう。


「じゃあ、先に出て。


まだ注文してないんでしょ?


お腹、空いちゃった。」


「分かった。


じゃあ先に出るね。


ジュヒはもう少しゆっくりしてて。」


「うん。


ごめんね。


後片づけ、お願い。」


ハヨンは振り返り、


少しだけ笑った。


その笑顔が、


どうしてだろう。


どこか不自然に見えた。


少し前までは、


無理やり私を抱き寄せようとするくらいだったのに。


それなのに、


どうして急にこんなに優しくなったんだろう。


やっぱり……


私に隠していることがあるからなんだろうか。


涙がこぼれそうだった。


でも、


泣くことだけはできなかった。


私は両手ですくったお湯を、


そっと顔へとかけた。


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