帰り道
「ねえ。」
ジュヒが静かに口を開いた。
「……ってことは、私の勘違いだったのかな。」
「え? 何のこと?」
「実はね。
ハヨンがあのお家に出入りするようになってから、
少し変わった気がしてたの。」
「変わった?」
「どうして?」
「だって、あのお宅の奥様も、ハナも若くて綺麗だ?」
「……それが俺と何の関係があるんだ?」
そう言いながら、
俺の脳裏には、あの夜のソニョンさんの姿が浮かんでいた。
そして、
ついさっきまで、この病室のソファに座っていたハナの姿も。
「ごめんね。
私、勘違いしてたみたい。」
ジュヒはこめかみを押さえながら、小さく首を振った。
まるでひどい頭痛に耐えている人のようだった。
「最近ずっとストレスが溜まってたから……
ハヨンまで変わっちゃったように見えたのかもしれない。」
「うん。
それは完全な誤解だよ。」
俺は苦笑しながら肩をすくめた。
「だってさ。
百貨店のVVIPなんて、俺みたいなの相手にもしてくれないだろ?
考えすぎだよ。」
「……うん。
本当にごめんね。
そんなつもりで言ったんじゃないの。
怒らないで。
私たちを助けてくれた人たちなのに……。」
「違う。」
俺は静かに首を振った。
「怒ってなんかない。」
本当に、怒ってはいなかった。
本当に、怒っていなかったんだろうか。
もしかするとジュヒが真実に近づこうとしたことに、
無意識のうちに苛立っていたのかもしれない。
そんな自分の卑怯さを俺自身が許せなかっただけなのかもしれない。
俺も少しだけ自分自身に後ろめたさを感じていたのだと思う.
「でも、不思議だよね。」
ジュヒがぽつりと言った。
「どうして倒れた日に、わざわざ病院まで連れてきてくれたんだろう。
デパートの人たちは何をしてたのかな。」
「さあ。
それは俺も聞いてないから分からない。
俺も病院に着いてから知ったんだ。
聞く暇もなかったよ。
俺が来た時には、挨拶だけして帰っちゃったから。」
そう。
これも嘘じゃない。
そして、この秘密には守る理由がある。
俺は自分に言い聞かせるように、小さく頷いた。
「優しい人たちなんだね。
今どき珍しいくらい。」
「ああ。
今どき、あんな人たちはなかなかいない。」
ジュヒは小さく笑った。
屈託のない笑顔ではなかった。
それでも、
こうして向かい合って笑い合えたのは、
いったいいつ以来だっただろう。
「疲れただろ。
今日はもう寝な。」
俺はベッドから立ち上がり、ジュヒが横になれるようにそっと体を支えた。
「ねえ、ハヨン。」
「ん?」
「今日は……家に帰るの?」
「いや。
俺はあっちのソファで寝るよ。
広いし、それで十分だから。」
「……よかった。」
ジュヒはほっとしたように微笑んだ。
そして両手を胸の前で合わせる。
「ありがとう。
それと、ごめんね。」
「気にするな。
これくらいで済んで、本当によかった。
どれだけ心配したと思ってるんだ。
今日は何も考えず、ゆっくり休め。」
俺はソファに横になり、
今日一日の出来事を一つずつ思い返していた。
整理のつかないこともあった。
それでも、今はそれでいい。
今日だけは、それでよかった。
その時だった。
俺は、一つだけ伝え忘れていたことを思い出した。
「まずいな……
明日ハナが来るって言ってたのに。」
今さら通知するのも変だし……
「まあ、何とかなるか。」
独り言のようにつぶやき、
俺は静かに目を閉じた。
いつ眠りについたのかも分からないまま、
翌朝になっていた。
病室のドアが開く音で、
俺ははっと目を覚ました。
「朝食をお持ちしました。」
「ありがとうございます。」
眠い目をこすりながらベッドのほうを見ると、
ジュヒはすでに体を起こし、
運ばれてきた朝食の前に座っていた。
朝食を運んできたスタッフは、
「ごゆっくりどうぞ。」
と笑顔を残して病室をあとにした。
「病院のご飯って、美味しくないって聞くけど。
本当なの?」
入院なんて一度も経験したことがない俺は、
少し興味を引かれてベッドへ近づいた。
「私はお腹が空きすぎてるから。
今なら何を食べても美味しい気がする。」
ジュヒはそう言って笑った。
「よかったら、一口食べてみる?」
「じゃあ、少しだけ。」
ジュヒはスプーンでご飯をすくい、
俺の口まで運んでくれた。
続いて箸でおかずをつまみ、
そっと食べさせてくれる。
昨日とは違う。
その表情は、とても楽しそうだった。
「どう?美味しいでしょ?」
お盆に並んでいたのは、
ご飯に味噌汁、
煮干しと黒豆、
それからじゃがいもの煮物に、
ソーセージと野菜の炒め物。
病院食にしては、
思ったよりずっと立派だった。
「思ったより美味しいね。
俺、普段は朝ご飯なんて食べないだろ?
でも今日は普通に食べられる。」
「そう?
それならよかった。」
昨日より少しだけ明るいジュヒの笑顔を見ることができて、
俺もほっとした。
その時、病室のドアが開いた。
「チェ・ジュヒさん。
脈と熱を測りますね。」
入ってきた看護師は、
慣れた手つきで手際よく検温と脈拍の確認を済ませると、
薬をお盆の上に置いた。
「お食事が終わりましたら、お薬を飲んでください。
それから九時半ごろに担当の先生がいらっしゃいますので。」
看護師はそう言うと、病室を出ていった。
時計を見ると、まだ朝の八時だった。
食べ終えたお盆を持って病室を出る。
廊下に置かれた返却台へ静かに戻している間に、
ジュヒは点滴スタンドを引きながらトイレへ向かっていた。
俺はもう一度時計を見た。
ハナとソニョンさんは、いつ頃来るんだろう。
そんなことばかりが気になっていた。
午前九時半ちょうど。
昨日診てくれた担当医が病室を訪れ、
丁寧に挨拶をすると、幸い大きな異常は見つからなかったと説明してくれた。
ただ、
「これからは体調管理に気をつけてくださいね。」
と穏やかに付け加えた。
「ありがとうございます、先生。」
俺とジュヒはそろって頭を下げた。
「あ、それから。
今日中に退院していただいて大丈夫ですよ。」
「はい。分かりました。
ありがとうございます。」
俺はもう一度礼を言った。
退院と聞いて、
担当医と一緒に来ていた看護師が口を開く。
「点滴だけは最後まで終わらせましょう。
ビタミン剤も入っていますので。」
「分かりました。」
俺が答えると、
ジュヒも静かに頷いた。
十時を少し回った頃、
俺たちは退院の支度を始めた。
荷物はそれほど多くない。
ジュヒが着替えている間に、
俺は入院費の支払いを済ませるため一階の受付へ向かった。
歩きながら何度も時計を見て、
気づけばスマートフォンを手に取っていた。
「ご精算はすでにお済みです。」
「……え?」
「チェ・ジュヒ様ですね。
本日午前九時二十分に、お支払いは完了しております。」
その瞬間、
真っ先に思い浮かんだのはハナだった。
「まさか……。」
ハナは昨日、
もう一度病院へ来ると言っていた。
でも、
病室へ来るとは一言も言っていない。
そういうことだったのか。
俺はスマートフォンを取り出し、
ハナとソニョンさんの連絡先を交互に見つめた。
「……電話、してみるか。」
周囲を見回しながら少し迷ったものの、
結局スマートフォンをポケットへしまい、
病室へ戻ることにした。
「入院費、払わないと。」
「もう済ませてきたよ。」
「えっ?
入院費って結構かかるんじゃ……。」
「心配しなくていい。」
「……そう?」
これ以上この話は続けたくなかった。
俺は話題を変えることにした。
「そうだ。
薬をもらいに行こう。
さっきナースステーションで聞いたら、
退院の手続きを済ませたあと、
院内の薬局で薬を受け取ってくださいって。」
ジュヒと一緒に処方箋を受け取り、
病院のスタッフへ挨拶を済ませると、
俺たちは院内の薬局へ向かった。
薬局では二週間分の薬を受け取り、
薬代はジュヒが自分で支払った。
「一緒に帰ろう。
今日は会社を休むって言ってたし、
俺の車で送るよ。」
「私のせいで、本当にいいの?」
「もちろん。
気にするな。」
俺たちは駐車場へ向かい、
俺が乗ってきた車で家へ戻ることにした。
帰り道、
特に会話はなかった。
ただ一つ、
頭から離れなかったことがある。
昨日、
あの家で、
しかもジュヒのベッドに、
セラが座っていたことだった。




