秘密
ハナは、本当に賢い子だった。
そして、俺は臆病だったのかもしれない。
「俺は違う。」
そう言ったくせに、
ハナの前で嘘をついたのかもしれない。
……いや、嘘をついた。
「ハナ。タクシーに乗るまで見送るよ。」
夜九時。
俺たちは病室を出た。
病院の前の横断歩道を渡って、タクシーを拾ってやるつもりだった。
「大丈夫ですよ。
私、そんなに子どもじゃありませんから。」
ハナはそう言って笑った。
それでも、俺はそうしたかった。
もう夜だったし、
何より、倒れたジュヒを病院まで運んでくれた恩もある。
これくらいのことは当然だと思った。
「先にお母さんへ連絡しておけばよかったかな。」
俺は歩きながら言った。
「今から帰るって。
心配してるかもしれないし。」
「うちのお母さんなら、たぶん大丈夫ですよ。
言ったじゃないですか。
私、子どもじゃありませんから。」
「それはそうだけど……。」
「先生って、おじさんみたい。」
「俺が? なんで?」
「まだ夜九時ですよ?
そんなに心配ばっかりして。
まるで昔の人みたい。」
「俺、そんなこと言ってた?」
「言ってましたよ。」
そう言われてみれば、その通りだった。
病院の周りには、夜の始まりを告げるネオンが灯り始めていた。
赤、緑、青、黄色。
色とりどりの光が街を照らし、飲食店には酒を楽しもうと集まる人たちの姿も目につく。
「そうか。
俺、そんなにおじさんっぽかったかな。」
俺は苦笑しながら、片方の肩を軽く揉んだ。
「どうしたんですか?
肩、痛いんですか?」
「これ?
いや、痛いっていうより癖みたいなものかな。
肩がよく凝るんだ。」
「そうなんですね。」
そこで、会話がふっと途切れた。
タクシーを止めるなら、手を挙げるなり合図をすればいい。
それなのに、俺はまだそうする気になれなかった.
「どうして肩って凝るんでしょう?」
沈黙を破るように、ハナがぽつりと尋ねた。
「さあな。
いろんな理由があるんじゃないか。」
「いろんな理由……。」
「ああ。
きっと、いろんな理由でね。」
「そうかもしれませんね。
それじゃあ、私はそろそろ帰ります。」
「あっ、ハナ。
待って。
タクシーは俺が拾うから。」
「はい。
じゃあ、また明日の朝、来ますね。」
「明日の朝?
どうして?」
ハナは、それ以上何も言わなかった。
だから俺も、
もう来なくていい、とは言わなかった。
目の前に止まったタクシーへハナを乗せ、
「気をつけて。」
そう言って手を振る。
それだけだった。
そして、タクシーに乗り込む直前、
ハナはふと振り返り、俺にこう言った。
「私たちも、一つ秘密ができましたね。」
その一言に、
心臓が落ちるほど息をのんだ。
それでも同時に、
俺はハナに感謝していた。
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ジュヒが目を覚ましたとき、彼女は病室のベッドに身を起こしたまま座っていた。
「……ここ、どこ?
病院?私、病院にいるの?」
病室のドアを開けた途端、俺に気づいたジュヒが、不思議そうな顔で尋ねてきた。
「えっ、ハヨン?どうしたの?」
そう言いながら、下腹部にそっと手を当て、痛そうに顔をしかめる。
「大丈夫?まだ無理に起き上がっちゃ駄目だよ。」
俺はすぐに駆け寄り、肩を支えるように腕を回した。
「やっと目が覚めたんだな。痛みはどう?」
「大丈夫。
それより……何があったの?」
ジュヒの声は、喉が張りついたようにかすれていた。
俺は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、ジュヒへ手渡した。
「倒れたんだよ。覚えてないのか?」
「倒れた……? あっ、そうだ。
思い出した。
デパートで仕事をしていて……。」
ジュヒは眉をひそめ、まだ辛そうな表情を浮かべた。
そして次の瞬間、ぱっと目を見開く。
「あっ!VIPのお客様!」
「VIPのお客様?」
「うん、そう!
確か、うちのデパートのVVIPのお客様の前で倒れちゃったんだ。」
「デパートのVVIPのお客様?」
俺は考えた。
倒れたジュヒを見つけ、病院まで連れて来てくれたのは、確かソニョンさんとハナだと聞いている。
ということは、ソニョンさんは、この病院だけじゃなく、ジュヒが勤めるデパートでもVVIPのお客様なんだ。
ふと、穏やかに微笑むソニョンさんの顔が脳裏に浮かんだ。
その瞬間、ジュヒにどう説明すればいいのか分からなくなった。
ジュヒが言うVVIPのお客様は、実は俺の知っている人なんだ。
そう正直に話すべきか。
それとも、すべて隠さず話すべきか。
いや、適当にごまかしてしまうほうがいいのか。
……たぶん、それほど大きな問題にはならない。
それでも、なぜか本当のことは話したくなかった。
だが、さっきハナは言っていた。
「明日も来ますね。」
あの様子なら、きっとソニョンさんも一緒に来るだろう。
そのとき、俺はどうすればいい。
額に冷や汗がにじむほど、頭を悩ませていた。
「「あの……ハヨン?」
いつものように名前を呼ばれたのに、俺は一拍遅れて返事をしてしまった。
「え? あ、俺?」
「うん。
それより、この病室……。
これ、どういうこと?」
声を張り上げたわけでもない。
それでも、かすかに震える低い声だった。
けれど俺には、
ジュヒが何を考えているのか、痛いほど分かっていた。
「あ、その……。
いや、これは……。
えっと……。」
言葉が喉につかえて出てこない。
もう、ごまかせそうになかった。
「……退院するとき、お金いっぱいかかっちゃうね。」
思いもよらない言葉だった。
その一言を聞いた瞬間、
胸の奥が申し訳なさでいっぱいになる。
こんな状況なのに、
ジュヒは自分の身体より先に、入院費のことを心配しているのか。
思わず涙が込み上げそうになった。
「そんなこと気にしなくていい。
全部、俺が何とかするから。」
「……ごめんね。」
ジュヒはそれ以上、何も言わなかった。
その控えめな一言が、
かえって俺の胸を強く締めつけた。
「大丈夫。
本当に大丈夫だから。
今は、とにかく身体を治すことだけ考えよう。」
俺は恋人をぎゅっと抱きしめた。
病室で、体調を崩している相手に変なことを考えるなんて、最低だ。
それでも一瞬だけ、
そんな想像が頭をよぎってしまう。
だからこそ、必死に気持ちを引き戻した。
「それより……。
うちのデパートのVVIPのお客様、
びっくりしただろうな……。
今度お会いしたら、ちゃんと謝らなくちゃ。」
俺はしばらく口を閉ざしていた。
だが、このままいつまでも隠し通せることじゃない。
そう思い、一つだけ話すことにした。
「たぶん、大丈夫だと思う。」
自然とため息が漏れた。
「実は、そのVVIPのお客様がジュヒをこの病院まで連れて来てくれたんだ。
俺はその人たちから連絡をもらって、ここへ来た。」
「えっ、どうして?
私のスマホ、ちゃんとロックしてあったはずなのに。」
「実は、それが……。」
俺はジュヒが病院へ運ばれるまでの経緯を、一つひとつ説明した。
話を聞き終えたジュヒは、肩をすぼめたままベッドの手すりをぎゅっと握りしめていた。
「そっか……。
ハヨンが行くって言ってたお金持ちのお家って、あのお宅だったんだ。」
しばらく沈黙が続いたあと、
ジュヒが静かに口を開いた。
「……でも、私、大丈夫なの?」
「うん!
一番大事なことをまだ言ってなかったね。
担当の先生によると、急性腎炎だそうだ。」
「急性腎炎……?」
助かった。
その瞬間、張りつめていたものが少しだけほどけた気がした。
ジュヒには、もうそれ以上追及するつもりはないように見えたからだ。
「うん。急性腎炎だって。
長時間立ちっぱなしだったことや、水分をあまり取らなかったこと。
それに、トイレも我慢することが多かったのが原因じゃないかって。」
俺はできるだけ明るく説明した。
「いろいろ検査もしたみたいだけど、詳しい結果が出るのは明日か明後日らしい。
先生の話では、特に心配するような異常はなさそうだったよ。」
自然と肩の力が抜けていた。
嘘をついていないというだけで、不思議と落ち着いて話すことができた。
ただ、本当のことを少しだけ伏せただけだ。
「そっか……。
何ともないといいね。」
まるで自分のことではなく、
誰か別の人の話でもしているような口調だった。
だから俺は、
ずっと気になっていたことを聞いてみることにした。
「どうして水も飲まなかったんだ?
本当に、そんなにトイレも我慢してたの?」
ジュヒは、
潤んだような瞳で、それでいてどこか力の抜けた目をしたまま、
しばらく黙って俺を見つめていた。
やがて、小さく頷くと、
静かに視線を床へ落とした。
まるで、そこに何かがあるかのように。
ジュヒは何かを考えているようだった。
けれど俺は、何も言わずにただ痛々しそうに見つめることしかできなかった。
もどかしく思う気持ちもあった。
それでも、ジュヒがそうするしかなかった理由を、俺は知っている。
以前、一度だけ仕事帰りのジュヒを迎えに行き、そのまま少し贅沢な夕食をご馳走しようと、彼女の勤めるデパートを訪れたことがあった。
そこで俺は、まるで時代劇の中でしか見たことのないような光景を目にした。
女中が奥方に仕えるように、
ジュヒは頭を下げ続けていた。
クレーム対応だったのだろう。
俺から見ても、あまりに度が過ぎているように思えた。
『ここまでへりくだる必要があるのか。』
そう思った。
だが同時に、俺も会社勤めを経験した人間だった。
結局、社会とはそういうものだと、自分に言い聞かせるしかなかった。
時代は変わったと言われる。
けれど、人の価値観や立場は、そう簡単には変わらない。
最近は、若い世代は自由すぎるとか、
昔の人間は考え方が古いとか、
そんな言葉をよく耳にする。
けれど本当に問題なのは、
世代の違いなんだろうか。
誰もが、それぞれの立場の中で苦しみながら折り合いをつけて生きているだけなんじゃないか。
ジュヒもそうだった。
会社で働く人たちも、そうだ。
そして、きっと俺も。
じゃあ、俺は。
いったい誰と歩いていくのが、一番自然なんだろう。
その問いにだけは、最後まで答えを見つけることができなかった。




