『面影』
「私は、あのお姉さんのこと、好きですよ。」
ハナはそう言って、小さく微笑んだ。
「だから、よかったなって思います。」
俺とハナは病室の椅子に並んで腰を下ろし、静かに話をしていた。
「もちろん、先生のことも好きですよ。」
そう言って照れくさそうに笑う。
「私、友達がいないじゃないですか。
それに、年齢イコール彼氏なしですし。」
少しだけ肩をすくめる。
「付き合うって、どんな感じなんですか?
友達とは、やっぱり違うものなんですか?
……まあ、ちゃんとした友達さえできたことないんですけど。」
ハナの話し方は、どこかぎこちなかった。
それでも、そんなふうに言ってもらえたおかげで、少しだけ気持ちが楽になる。
高校も卒業できなかった二十歳の女の子。
もう「お嬢さん」と呼ぶ年齢なのだろうが、俺にはまだ幼く見えた。
……純粋だからだろうか。
「友達とは、やっぱり違うんじゃないかな。」
「やっぱり違うんですね。」
「もちろん違うよ。いろんな意味でね。」
ジュヒが入院している病室は、一人部屋、それもVIP病室だった。
七坪ほどはありそうな広さに、大きな窓が、まず目に入った。
その脇には冷蔵庫やクローゼット、簡単なデスクが並び、家にあるものと変わらない壁掛けテレビまで備え付けられている。
……こういう部屋って、一日いくらするんだろう。
そんなことが気になっていると、ハナがもう一度、俺に尋ねてきた。
「どう違うんですか?」
ハナは真剣な眼差しで尋ねてきた。
冗談で聞いているようには、とても見えない。
それにしても、どうして急にこんなことを聞くのだろう。
恋愛経験がないにしても、二十歳にもなれば、このくらいのことは知っていてもおかしくないはずだ。
「先生は、ジュヒさんといろんなことをしたんですか?」
「いろんなことって?」
「例えば、一緒にご飯を食べたり、買い物に行ったり、映画を観たり、本を読んだり……かな。」
「それなら、友達同士でもできますよね。」
確かに、そのとおりだった。
そんなことなら、友達同士でも十分できる。
「じゃあ……付き合ってる人同士なら、一つのベッドで一緒に寝たりはしたんですか?」
「寝るって……まあ、一緒に寝たことはあるけど。」
俺の答えを聞くと、ハナはしばらく黙り込んだ。
……この子は、俺の口から何を聞きたいんだろう。
くだらない下ネタを期待しているようには、とても思えない。
「女性の体に触れると……」
ハナは静かに口を開く。
「どんな気持ちになるんですか?」
どうして急に、そんなことを聞くのだろう。
いや、きっと今日突然生まれた疑問じゃない。
ずっと胸の奥にしまっていたものを、今になって口にしたのだ。
そして、その小さな囁きを聞いた瞬間、心臓が止まりそうになった。
「私、知ってるんです。」
ハナは俺をまっすぐ見つめた。
「先生がお母さんの胸を盗んだこと。」
俺は言葉を失った。
"お母さんの胸を盗んだ"。
奇妙で、ひどく遠回しな言い方だった。
だが、その言葉だからこそ、ハナは俺とソニョンさんを守ったのだと、そんな気がした。
ハナが倒れた、あの夜。
俺は再び、ハナの家を訪れた。
インターホンを押すまでもなかった。
門番のように立つ黒い大きな鉄門は、何の抵抗もなく俺を中へ通す。
閉めていなかったからだ。
庭を抜け、ベージュ色の玄関扉の前に立つ。
そこでも扉は、ひとりでに開いた。
いや、開けてくれたのはソニョンさんだった。
ハナは薬を飲んで眠っている。
そう思い込んでいたソニョンさんの予想は、外れていたのだ。
「そ、それは……」
俺は思わず、眠るジュヒへと視線を向けた。
何か言い訳をしようとした。
だが、口にできるような言葉は一つも浮かばない。
ただ一つ、不思議だったのは、
今のハナは俺を軽蔑しているわけでも、怒っているわけでもないということだった。
「私、全部見たんです。」
ハナは静かに続ける。
「先生がお母さんの部屋にいたところ。」
低い声だった。
それでも、その一言ははっきりと俺の耳に届いた
「中で何をしていたのかも、全部知っています。
電気が消えていたから、ちゃんとは見えませんでしたけど……
音で分かりました。
先生たち、私が少しだけドアを開けたことにも気づいていなかったみたいですね。」
衝撃だった。
頭に浮かんだのは、たった一つ。
……どうする。
ちゃんと見たわけじゃないと言うのなら、
嘘をつくべきだろうか。
それとも、そんなことはないと言い張って怒るべきなのか。
だが、俺にはできなかった。
「……ごめん。
本当にごめん、ハナ。
本当に……何と言っていいのか分からない。」
ハナは小さく首を振った。
「きっと夢中だったんでしょうね。」
ほんの少しだけ微笑む。
「お互いに、盗み合っていたんですから。」
ハナはソファに座り直すと、両手で髪をそっと整えた。
黒く長いストレートの髪を胸の前へ流し、乱れを丁寧に直していく。
それは身だしなみを整えるというより、自分の気持ちを落ち着かせるための仕草に見えた。
「違います。」
ハナは静かに首を振る。
「私が聞きたいのは、そんなことじゃありません。
謝ってほしいわけでもないんです。」
俺は戸惑った。
……じゃあ、何を聞きたいんだ。
「さっきも聞きましたよね。」
ハナは穏やかな声で言った。
「女性の体に触れると、どんな気持ちになるのか、それが知りたいんです。」
一度だけベッドで眠るジュヒへ視線を向ける。
そして再び、まっすぐ俺を見つめた。
まるで、何か大きな失敗をしてしまった翌日に、
勇気を振り絞って打ち明けようとする子どものような表情だった。
「お父さんは、一度もそんなふうじゃありませんでした。」
ハナは静かに言った。
「先生とお母さんみたいに……少なくとも、私の記憶にはありません。
見たこともありませんし、誰かに教えてもらったこともありません。
自分から聞いたこともないです。
だから、その気持ちをちゃんと知る機会がなかったんです。」
俺は少し考えてから尋ねた。
「……でも、そこまで知る必要があるのかな。」
「お母さんの気持ちを知りたいんです。」
ハナは迷うことなく答える。
「もちろん、先生のことも好きだからです。」
俺は何と返せばいいのか分からなかった。
結局、
「……そうか。」
そう答えることしかできなかった。
女性の体に触れたとき、何を思うのか。
答えようと思えば答えられる。
浮かんだ気持ちを、そのまま言葉にすればいいだけの話だ。
だが今、ハナが求めているのは、そんな単純な答えじゃない。
そんなことくらい、俺にも分かっていた。
あまりにも難しい問いだった。
だからこそハナは、
「盗む」
という言葉と、
「触れる」
という言葉を、慎重に選んだのだろう。
ハナはソニョンさんの本当の娘ではない。
それでも、こんな質問をするのには、きっと別の理由がある。
実の母親ではなくても、
愛する人が別の男の腕に抱かれている。
そんな現実を目の当たりにしながらも、
ハナは責めるのではなく、
その人を理解しようとしていた。
「盗む」
という言葉を選んでまで。
「正直に言うと。」
俺は、自分が感じたことを、そのまま話そうと思った。
そのほうが、今のハナのためになる気がしたからだ。
「体に触れたからって、それだけで何かが変わるわけじゃない。
正直、ハナが本当に知りたいことが何なのか、俺にもまだ分からない。
でも、男と女が同じベッドで寄り添って、お互いに触れ合っていると…… 理性を保つのが難しくなることはある。
正確に言うと、もっとお互いに近づきたくなると言ったほうがいいかもしれない。少しずつ、お互いを求めるようになるんだ。」
「女の人も、そう思うんですか?」
「嫌じゃなければ、そう思う人は多いんじゃないかな。」
「誰でも、ですか?」
その問いに、俺は少しだけ考え込んだ。
ここは慎重に答えなければならない。
「いや。誰でもってわけじゃない。」
俺は静かに首を振る。
「少なくとも、俺は違う。」
ハナの眼差しは、それまで見たことがないほどはっきりしていて、
まるで俺の内側をすべて覗き込もうとしているかのようだった。
「先生は違う?」
「うん。世の中には、本当にいろんな人がいる。
ハナが言ったみたいに、相手が誰でも構わないって人もいるし……
そういう考え方を嫌う人だっている。」
「どうして、誰でもいいなんて思えるんですか。」
ハナは少しだけ眉を寄せた。
「それって、本当に好きってことなんでしょうか。
……まるで獣みたい。
汚い。」
ハナはぞくりとしたのか、自分の腕を両手でこすった。
そう感じてしまうのも、無理はないのかもしれない。
世の中にはいろんな人間がいて、まだ俺の知らない種類の人間だっている。
自分のことすらよく分かっていないのに、他人の内側なんて分かるはずがない。
「じゃあ先生は、どうしてお母さんと……」
ついに来た、と思った。
ここまで来た以上、逃げるわけにはいかない。
俺は小さく息を整えた。
「……強いて言うなら、揺れていたんだと思う。
そうだな、ハナの言う通りだ。
俺は盗んだのかもしれない。
だから、汚い人間なのかもしれない。
本当に、ごめん。」
隣で、俺は静かに頭を下げた。
それは紛れもない本心だった。
「先生。」
ハナはすぐに首を振った。
「私は、まだそうは思っていません。
汚いっていうことです。
さっきから何度も言ってますよね。
私は先生のことも好きだし、お母さんのことも好きです。
それに……あの人のことも。」
ハナの視線が、ベッドの上のジュヒへと向かうのが分かった。
「じゃあ、むしろ私の方が謝るべきなんでしょうか……」
小さく呟く。
ハナは困ったような顔をして、自分の長い髪の毛先を握りしめた。
「実を言うと、初めて会った瞬間から胸が高鳴ってた。
そんな感じだった。
どうしてなのかは、本当に自分でもよく分からない。」
ハナは俯き、ぎゅっと口を閉ざした。
両腕を伸ばし、ソファの端を強く握りしめている。
「……そうですよね。
きっと、そうだったんでしょうね。
最初に盗んだのは、お母さんのほうですね。
継母は、とても綺麗な人ですから。」
「こんな姿を見せてしまって、本当にごめん、ハナ。
家庭教師は別の先生に替えてもらえるよう、お願いしておくよ。」
俺は心から謝った。
まだ二十歳になったばかりの少女の前で、大人として見せるべきではない姿を見せてしまった。
もう、この家を訪れるのもやめたほうがいいだろう。
家庭教師としても、完全に失格だ。
「え?」
ハナは目を丸くした。
「そんなことしないでください、先生。
……それと、手を貸してもらえますか?」
「手?」
俺はそっと左手を差し出した。
するとハナは、その手を優しく取ると、自分の胸元へと導いた。
「なっ……何してるんだ、ハナ?」
「少しだけ、このままでいてください。
それで、どんな気持ちになるのか教えてほしいんです。
お母さんと同じ気持ちになるのか……私も確かめてみたいんです。」
俺は腕の力を抜いた。
そのまま胸の上に手を置き、何かを感じようとした。
だが、何も感じなかった。
この状況で、それもジュヒが眠る病室では、何かを感じられるはずもなかった。
「駄目だ……。
こんなことしちゃ駄目だ、ハナ。」
「どうしてですか?
私には女として魅力がないからですか?
それとも……小さいから?」
「違う。そんな理由じゃない。絶対に違う。」
俺はそっとジュヒの眠るベッドへ目を向けた。
「あっ……!」
ハナは我に返ったように慌てて俺の手を放すと、胸元を両腕で隠した。
思わず腕を交差させ、胸を抱きかかえるような格好になる。
「ご、ごめんなさい、先生。
私、少しおかしくなってたみたいです。」
「いや。謝るのは俺のほうだ。」
不思議なほど何も感じなかった。
胸に触れているはずなのに、
俺の中に浮かんだのは、セラだった。
「先生は違うんですね。……ひとまず、信じます。
でも、クォン先生。」
「ん?」
「お母さんとジュヒさんと……。
ううん、何でもありません。」
俺は何も答えなかった。
ハナが何を聞きたかったのかは、分かっていたからだ。
目の前にいるのはハナだった。
それなのに俺の目には、
好奇心だけで真っ直ぐだった、
幼い頃のセラの面影が映っていた。




