すれ違う視線
俺が期待していた展開とは裏腹に、セラはそのまま家へ帰ってしまった。
拍子抜けするくらい、あっけなかった。
「なんか急にすごく疲れちゃったし、遊ぶ気もなくなっちゃった。」
「ずるいだろ。セラ! 今さら何だよ。『帰る』なんてさ。」
セラに頼まれていたバッグを持って戻ってきた頃には、もう手錠は外されていた。
期待が大きければ大きいほど、それが崩れたときの落胆も大きくなるのは当然だ。
人をその気にさせておいて、さっさと帰るなんて。
俺だけじゃない。ここへ来るまでは、セラだってあんなに楽しそうにしていたくせに……。
ここまで来ておいて、自分勝手に帰るなんて。
考えてみれば、セラはもともとそういう女だった。
何もかも自分の思いどおりにしてしまう、そんな人だった。
二人で初めて一夜を過ごしたあの日の朝も、セラは俺の隣にはいなかった。
自分勝手に姿を消してしまった。
それも、俺の前から永遠に。
再会したのは、それから十年も経ってからだった。
今回だって、セラは何事もなかったかのように俺の家へやって来て、(連れて来たのは俺だけど。)そしてまた、自分勝手に帰ってしまった。
「俺がおかしいのか? それとも、セラがおかしいのか?」
俺にはわからなかった。
いや、自分のことすら理解できなかった。
俺は何をしようとしていたのか。
俺はどんな人間なのか。
何一つわからなかった。
「……急に、ジュヒの顔が見たくなった。」
俺はジュヒのベッドに腰を下ろした。
そのまま靴を脱いでベッドへ上がると、布団を胸の中へ引き寄せる。
ぬいぐるみを抱くみたいに布団をくるりと丸めて抱きしめていると、まるで誰かを腕の中に抱いているような気がした。
ふわりと漂うのは、どこか落ち着く香り。
化粧品だろうか。
香水かもしれない。
……いや、シャンプーの香りかな。
「ジュヒって、こんな匂いがしてたんだな。」
その香りに包まれているだけで、不思議と肩の力が抜けていく。
俺は布団を抱いたまま横になると、抗う間もなく眠りへと落ちていった。
目を覚ましたのは、夜の七時ごろだった。
けたたましく鳴り響く着信音に起こされたのだが、それでも最初は夢の中の出来事だと思っていた。
それほどまでに深く眠っていた。
こんな眠りに落ちたのは、本当に久しぶりだった。
普段は少しの物音でも目が覚める俺が、ここまでぐっすり眠ることなんて滅多にない。
「もしもし?」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、女の声だった。
発信者名はジュヒと表示されている。
だから女性の声なのは当然だったが、その声は、俺の知っているジュヒのものとははっきり違っていた。
「もしもし。ジュヒさんの彼氏さんでいらっしゃいますか? 電話帳に『彼氏』と登録されていましたので、ご連絡させていただいたのですが。」
彼氏?
ジュヒは俺のことを『彼氏』として登録していたのか。
そう思うと、ほんの少しだけ妙な気分になった。
俺は『ジュヒ』と名前だけ登録している。
実際は俺より年上だが、「お姉さん」なんて呼ぶ気にはなれなかった。
……それよりも。
この声、この話し方。
俺の知っている誰かに、妙によく似ている。
「はい、そうです。……失礼ですが、どちら様でしょうか?」
ジュヒが携帯を落としたか、なくしたのだろう。
そのときの俺は、そんな程度にしか考えていなかった。
「あの、こちら病院なんですが。」
「……病院ですか?」
「はい。ジュヒさんが突然倒れられまして。携帯のロックは娘が解除してくれたので、登録されていた番号へお電話いたしました。」
俺は思わず言葉を失った。
病院?
どういうことだ。
ジュヒが倒れた?
……いや、待て。
まさか、詐欺じゃないだろうな。
そう思い、俺はもう一度、画面に表示されたジュヒの番号を確認する。
間違いなく、ジュヒからの着信だった。
「わかりました。それで、病院はどちらでしょうか。今からすぐ向かいます。」
俺は急いで車へ乗り込み、そのまま病院へ向かった。
不思議なことに、頭に浮かんだのは心配よりも、
きっと大したことはない。
そんな、根拠のない思いだった。
教えられた病室へ向かい、そのまま扉を開けた。
ベッドにはジュヒが横たわっていて、その傍らには二人の女性が立っていた。
最初はジュヒの家族か、それとも職場の人かと思った。
だが、もちろん違った。
二人とも、俺の知っている相手だったからだ。
「えっ……ソニョンさん? ハナ?」
思わず間の抜けた声が漏れる。
頭の中も混乱していた。
どうしてソニョンさんとハナがここにいるんだ?
そこでようやく電話の向こうの女性が、ハナの母親であるソニョンさんだったことに気づいた。
「先生?」
ハナは目を丸くして俺のほうへ歩み寄ってきた。
「先生だったんですか?」
「えっ?」
「ジュヒさんの彼氏って。」
「あ……ああ、まあ、そうだよ。」
俺の返事はひどく歯切れが悪かった。
堂々と言えなかった。
自分でも理由はわからない。
それでも、心のどこかで何かを隠そうとしている自分がいた。
「とにかく、クォン・ハヨン先生。来てくださってありがとうございます。少々お待ちください。担当の先生をお呼びしてまいります。」
ハナの母親は、何事もなかったように穏やかな口調でそう言った。
相変わらず、落ち着いていて、少しも取り乱さない人だった。
「へえ……あのお姉さんが先生の彼女だったんだ。
私、なんで気づかなかったんだろう?」
ハナは誰に聞かせるでもなく、小さくつぶやく。
それよりも。
どうしてこの二人がここにいるのか。
俺にとっては、そのことのほうがずっと大きな疑問だった。
「ところで、ハナ。どうしてソニョンさんと一緒にここにいるんだ?」
「ああ、デパートで会ったんです。」
「デパート?」
「はい。あのお姉さん、デパートで働いてるじゃないですか。」
ハナはそう言った。
「そこで偶然会ったんですけど、急に私の目の前で倒れちゃって。一番最初に救急車を呼んで、そのまま病院まで付き添ったんです。でも、ご家族の方と連絡が取れなくて困っていたので、私が携帯を見たんです。」
そこでハナは、少し照れくさそうに笑う。
「画面に指紋が残ってたから、たぶんこうかなってパターンをなぞってみたら開いたんですよ。そのあと、そのまま……」
「俺に連絡したってことか。」
「はい。その通りです。」
ハナはそう言って、俺にジュヒの携帯電話を差し出した。
透明なシリコンケースに入ったスマホは、少し手の中で滑る。
画面には、ファンデーションなのか、それともBBクリームなのか、そんな化粧品が薄く付着していた。
……画面についた化粧品すら拭く暇もないほど、働いていたのか。
いや そのおかげで、こうして俺に連絡がついたわけだ。
「ひとまず安静にしていれば大丈夫だと、お医者さんがおっしゃっていました。」
「そうか……よかった。ありがとう。」
「ご安心ください。この病院には、母の知り合いの先生がいらっしゃいますから。」
「そうなんだ。お母さんにも、お礼を伝えておいてくれるかな。」
俺は黙ってジュヒの手へ視線を落とした。
そっと、その手を包み込む。
温もりよりも、ひんやりとした感触のほうが強かった。
そういえば、ジュヒの肌はいつも少し冷たかった。
抱きしめていると、決まって「布団をかけて」と言ってくる。
そのたびに俺は暑くなって汗をかくから、正直少し大変だった。
……まあ、抱き合うこと自体も楽じゃなかったけど。
「クォン・ハヨン先生。担当の先生がお見えになりました。」
ハナのお母さんは担当医一人だけではなく、その後ろに三人ほど連れたまま病室へ入ってきた。
何だろうと思ったが、きっと研修医か学生なのだろうと納得した。
「患者さんですが、病気そのものが原因で倒れたわけではありません。」
その一言で、少しだけ肩の力が抜けた。
しかし、担当医はすぐに話を続ける。
「かなりの脱水状態です。それに、お手洗いを我慢することが多かったのでしょう。膀胱炎も見られますし、急性腎盂腎炎も発症しています。」
「急性腎盂腎炎……ですか?」
思わず聞き返した。
「そのとおりです。倒れるほど症状が進んでいたということは、おそらく腰のあたりにもかなり強い痛みがあったはずです。それをよく我慢されましたね。
ひとまず点滴を続けながら、もう少しいくつか検査を行います。その結果が出れば、詳しい状態もわかるでしょう。」
「先生、ありがとうございます。」
ハナのお母さんは、両手を胸の前で軽く重ね、小さく頭を下げた。
すると担当医は、それ以上に深く一礼する。
その姿を見た弟子たちも、示し合わせたかのように、そろって九十度近くまで腰を折った。
「本当にありがとうございました。」
俺も自然と頭を下げていた。
医師たちが病室を出ていくと、今度はもう一度、ハナのお母さんへ向かって頭を下げる。
「気にしないでください。私たち、知らない仲じゃないでしょう?」
ソニョンさんは穏やかに微笑んだ。
「……はい。それでも、ありがとうございます。」
俺はもう一度、礼を口にした。
「あの……今日は、本当にありがとうございました。
もうお二人とも、お帰りいただいて大丈夫です。ここは俺が付き添っていますから。」
俺がそう言うと、二人は互いに顔を見合わせた。
言葉にはならない顔に 読み取れない微かな表情がよぎった。
その意味は、読み取れなかった。
「私は先生と一緒にいます。十時くらいになったら帰ります。」
ハナがそう言った。
「……いいよね、お母さん?」
「ええ、そうしなさい。でも、あまり遅くならないようにね。必要なら車を一台向かわせましょうか?」
「大丈夫です。タクシーで帰りますから。」
俺は、その妙な空気の中へ一歩踏み込んだ。
まるで閉まりかけたエレベーターの扉を、無理やり押し止めるように。
「いえ、本当にお気遣いなく。
お二人とも、もうお帰りください。十分すぎるほど助けていただきました。
ハナも、お母さんと一緒に帰ったほうがいいんじゃないか?」
「でも、私はここにいたいです。」
「そうですよ、クォン・ハヨン先生。
ハナもご迷惑はおかけしませんから。ねえ、ハナ?」
「はい。」
そんな不思議なやり取りの中、ハナのお母さんは何も言わず、小さく一礼すると、そのまま病室を出ていった。




