痕跡
公園の地下駐車場を出た俺たちは、そのまま俺の家へ向かうことにした。
ホテルだけは絶対に駄目。
そう、セラにあらかじめ釘を刺されていたからだ。
かといって映画館や遊園地へ行くのも無理だった。
問題は、バッグの中に隠されたあの手錠である。
理由は分からない。
だが、無理やり手錠を外したら、もう二度と自分には会わない――。
セラはそう何度も念を押していた。
少し不安は残るものの、結局は家へ向かうしかなかった。
それに、セラが次は何をしでかすのか分からない。
人の多い場所で俺を変態扱いしたり、悪者扱いしたりした挙げ句、
手錠を掛けた両手を堂々と掲げるくらい、あいつなら平気でやりかねない。
何より、学生時代から何年も経った今の自分を、一度くらいセラに見てもらいたかった。
問題がないわけではなかった。
車を運転している間、俺なりに何度も考えた。
何も考えずに家へ向かっているわけじゃない。
それでも、あそこは俺の家だ。
この時間ならジュヒはまだ仕事中で、家にはいないはずだった。
いつものように、帰って来るのは夜遅くになってからだろう。
見つかりさえしなければ問題ない。
そう自分に言い聞かせた。
それに、セラは高校時代からの友達だ。
友達を家へ連れて行くだけなら、ジュヒだって何も言わないはずだ。
そもそも、俺たちは結婚しているわけでもない。
恋人だって……いや、本当に恋人なのか?
俺は一度も告白なんてしていないんだから。
「へぇ~、ハヨンの家って結構いいじゃない。
こんなところに住んでたんだ?」
家へ入るなり、セラがそう言った。
だが次の瞬間、鋭い視線で部屋の中をゆっくりと見回す。
「……何これ?
クォン・ハヨン。
しかも、女と一緒に住んでるの?」
『どうして分かったんだ?』
思わずそう口にしそうになった。
いや、適当にごまかそうとも思った。
けれど、もう遅い気がした。
それに、わざわざ隠す必要なんてあるのだろうか。
そんな考えも頭をよぎる。
「女……?
ああ、まあ……そうだけど」
セラは勘が鋭かった。
気づかれないでいてほしかったのに、家へ入った瞬間から何度か視線を走らせただけで見抜いてしまったのだ。
「どうして分かったんだ?」
そう尋ねると、セラは涼しい顔で答えた。
「この家、女の匂いがする。」
女の匂いって何だ?
女同士だと、そんなものまで分かるということなのか。
適当に勘で言っただけだとは思えない。
セラは、そういうことに関しては誰よりも鋭い人だからだ。
まさか女同士には、俺には見えない何かで通じ合う力でもあるんじゃないだろうな。
もしそうなら、今日セラがこの家へ来たことも、ジュヒにはもう伝わっているんじゃ……。
そんな馬鹿げたことまで考えてしまい、一瞬、不安が胸をよぎった。
その間にも、セラは手錠を掛けたままバッグを適当な場所へ放り投げ、
興味津々といった様子で家の中をあちこち歩き回っていた。
「ちょっと家の中、見て回ってもいい?」
そう言うと、セラは手錠を掛けたままバッグを適当な場所へ放り投げ、家の中をあちこち歩き回り始めた。
床に転がっているそのバッグは、何万円もする高級ブランド品だ。
だから、きっと大事そうに抱えていたのだと思っていた。
だが、そうではなかった。
車を降りるとき、セラはこう言っていた。
「この中には大事な物が入ってるから、ちゃんと持っててね。」
あんなおもちゃのどこが大事なんだ。
そんな物なら家に置いてくればいいのに、どうしてわざわざバッグに入れて持ち歩くのか理解できない。
せめて持ち歩くなら、黒い袋にでも入れておけばいいものを……。
そう忠告したい気持ちもあったが、結局やめた。
ああいう物とは、俺は百パーセント縁のない人間だと思っていたからだ。
「でも、一つ気になることがあるんだけど?」
セラが言った。
「ねえ、一つ気になることがあるんだけど」
「え? 何が?」
俺は思わず身構えた。
手錠を掛けられた両腕は力なく下がり、その姿はまるで捕虜のようだった。
「どこかで私と似た香りがする。
この部屋、誰の部屋?
まさかハヨンの部屋じゃないよね?」
まるで全部お見通しだと言わんばかりに、セラは迷いなくドアを開けた。
もちろん、そこは俺の部屋だった。
「違うって。そこ、俺の部屋じゃないから」
セラは素早く部屋の中を見渡すと、呆れたように声を上げた。
「誰を騙そうとしてるの?
どう見ても男の部屋じゃない。」
どう見ても男の部屋。
その意味が、俺にはさっぱり分からなかった。
男の部屋と女の部屋に、一体どんな違いがあるというんだ。
「つまり、ここがクォン・ハヨンの部屋ってことね」
セラは当然のように俺の部屋へ入り、ゆっくりと部屋の中を歩き始めた。
やがてベッドの前で足を止める。
まるで俺が毎日眠っている場所を観察するかのように、じっと見つめていた。
少しだけ腰をかがめると、髪を軽くかき上げる。
そして何事もなかったように微笑んだ。
「それにしても、こんな立派なところに住んでたんだ。
しかも女の子まで家に住まわせてるなんて。
まさか、結婚したわけじゃないよね?」
部屋を出ようとしたセラは、ベッドに並ぶ二つの枕へ視線を止めた。
そのうちの一つへ、ゆっくりと顔を近づける。
香りを確かめたのだ。
俺が寝る前にだけ枕へ吹きかける、あの香水の香りを。
普段は身につけることはない。
眠るときだけ、抱き枕代わりの枕へ少しだけ吹きかける。
セラが昔から愛用している、あの心地よい香りを。
そして――もう一人の女性も使っている、その香りを。
「女が住んでるのは本当だけど、結婚はしてないよ」
「でも、彼女なんでしょ?
それなのによく私を家に連れて来たね」
『彼女』という言葉だけは、否定しづらかった。
「別にいいだろ。セラは昔からの友達なんだから」
「へぇ、そう? あなたがそう思ってても、その彼女さんはどう思うのかしらね?」
セラはくすりと笑った。
その笑顔は、どこまでも楽しそうだった。
「クォン・ハヨン。
あなた、見直したわ。」
セラらしくない言葉に、俺は一瞬言葉を失った。
何と答えればいいのか分からず、とりあえず曖昧に笑ってごまかす。
「今日はデートなんだからさ。
せっかくだし、こっちの部屋も見ていく?」
どうしてそんなことを言ってしまったのか、自分でも分からない。
やっぱり俺は、本当にどうかしているのかもしれない。
同居人の部屋へ、セラを案内してしまったのだから。
「ここは、その……女の部屋。
入ってみなよ。」
俺の言い方が少し引っ掛かったのか、セラは首を小さく傾げた。
それでも深く気にする様子はなく、そのまま部屋へ入っていく。
「やっぱり、これが女の人の部屋よね。
化粧品の香りが結構する。
甘い匂いもするし。
その彼女さん、何の仕事をしてるの?」
「デパートで働いてる。」
そう言うと、俺はベッドの縁に腰を下ろした。
「デパート?
どこのデパート?
私が知ってるところだったりする?」
「それは教えない。」
俺はそう言って、くすっと笑った。
「私、デパートなら結構いろんなところへ行ってるから。
一度くらい見かけたことがあるかもしれないよ?」
「さあね。
そんなこと気にしてどうするんだ?
それより、その手錠が気になって仕方ないんだけど。
外してやろうか?
ほら、こっちに座れよ。」
俺が自分のことを変態だと思ったのには理由があった。
ジュヒがいつも使っているベッドへ、セラを座らせてしまったからだ。
しかも、その先のことまで頭の中で考えていた。
「ううん。家に帰るまでは絶対に外さない。
まだ私たち、デートらしいデートもしてないでしょ?」
そう言うと、セラは俺の隣へ腰を下ろした。
やはり、俺が何を考えているのか、お見通しらしい。
「じゃあ、私のバッグ取ってきてくれる?」
「バッグ?」
「そう、バッグ。」
分かっているくせに、俺はわざと聞き返した。
こんなタイミングでバッグを欲しがる理由なんて、一つしかない。
中に入っている"あれ"を思い浮かべる。
すると、自然と笑みがこぼれた。
「分かった。ちょっと待ってろ。」
セラをベッドに座らせて部屋を出る頃には、ずっと気になっていた疑問も解決していた。
手の爪と同じ色のネイルを、足の爪にも塗っているのか。
答えは――塗っていた。




