14,香り
「マルティオ殿、アステナ。こんなところにいたのか」
「父上」
「ああ、シュレダン子爵」
他に人がいないバルコニーに人が増えた。やってきたのは両親で、私が兄の後ろにいるのを見てどこか安堵しているような、そこで黙っていろとでもいうような、厳しい目を向けてくる。
そしてその目は、すぐにカフカント夫人に向いた。
ひらりと手を振るマルティオを見て、カツカツと靴を鳴らしてやってくる。
「ごきげんよう、シュレダン子爵、夫人」
「カフカント夫人。お越しになられていたとは……。存じ上げず、申し訳ない」
「いいえ。マルティオさんやアステナさんと楽しいお話ができましたので、お気になさらず」
余計なことはしていないだろうな、と言わんばかりの父の視線が刺さる。けれどふいっと顔を逸らして知らないフリ。隣の兄がどうせ伝えるもの。
さりげなく母が兄とは逆隣を封じにくる。
危ない橋は渡らない。父はすぐにこの場を辞することを決めたようで、カフカント夫人に愛想笑みを向ける。
バルコニーに風が吹いた。風向きが変わって、マルティオの煙草の煙が私たちの合間を抜けて会場の方へと流れだす。
「では夫人、私たちは皆さまへのご挨拶がありますので。これで失礼を」
「シュレダン子爵」
「なんでしょう?」
軽く礼をした父をカフカント夫人がにこりと笑みを浮かべて引き留める。
母が私を引っ張っていこうとして、けれど父が留められた以上先に辞することもできず、仕方なく足と手を止める。
私たちを前にしたカフカント夫人は、以前の茶会の席で見たようなどこか気弱そうな空気は一切なく、堂々と一人で立っている。
「子爵家として、ご挨拶しておいたほうがいい御方がいらしています」
「……」
「お会いしておいたほうがいいと思います。行儀見習いの最中であったという話ですし、きっと、ロザロス公爵夫妻も快く送り出したのでしょう?」
「っ……!」
父も母も兄も息を呑んだ。私も驚いた。
カフカント夫人は気づいてる。私がロザロス家でメイドとして働いていたこと。
それに、それ以上を察している。
夫人が言う相手が誰なのか、まさかという想いと期待が湧き起こる。
どう言えばいいかと迷う父を前に、カフカント夫人はその微笑みをバルコニーの入口へ向けた。
「ああ。ちょうどよかった。いらっしゃいました」
――靴音が、聞こえた。
静かな外にはっきり聞こえた、まるでその姿も容易く想像できるような、堂々とした、気高い音。
「ああ……。これはこれは、シュレダン子爵家とハーベル商会長ではなくて?」
息を呑んで視線を向けた先、月明りの下で銀色を揺らめかせる、堂々とした、胸が震えるほどの歓喜が、そこにあった。
「ロザロス夫人……」
反対、どこか憎々しささえ感じさせる声がすぐ傍から聞こえる。
悠々とやってきた奥様はカフカント夫人と数言を交わす。仲のいい様子が一目で分かる笑みを交わし、その視線はこちらへ向いた。
奥様の視線はちらりと私を見て、すぐに父に向く。
今日の奥様は少し控えめなドレスで身を包んでいる。首元にネックレスもなくて、ドレスには宝石の類もない。
シンプルだけど、ドレスの質がいいのは一目で分かる。見て分かるのかマルティオもどこか感心した様子をみせている。
「ごきげんよう、シュレダン子爵家の皆さま」
「これはこれは。ロザロス夫人もいらしていたのですね。そうと知っていればすぐご挨拶に伺いましたのに。皆さまがあまりに静かで気づきませんでした」
ぎろりと父を睨む。
奥様が来るはずないと、いれば目立つと、その笑みから平然と放つ言葉は不快でしかない。
そんな言葉を受ける奥様は気にした様子なく微笑んでいる。
「この度はハーベル商会長とご息女との婚約が成立したとか」
「ええ。夫人にはこれまで娘を教育いただき感謝しております。これまでありがとうございました。心置きなく娘を送り出せます」
「それはよかった。私もギルベール様も突然のことにとても驚きましたが、そういう話なら非常に歓迎です。よかったわね、アステナ」
「っ……私はっ――」
「ええ、ええ。それはもう。娘も非常に喜んでおります」
違う。そんなわけない。
私がわざわざロザロス邸を出るときに残した言葉は無駄だった……? 旦那様と奥様なら読み取ってくれると、そう思ったのに。
冷たい風が吹く。現実を見ろと、私に突きつけるように。
流れる煙草の煙はまるで今の私のよう。――求めるように奥様に手を伸ばす、流れる煙。
――奥様はばっと扇を取り出すと、拒絶するように顔の下半分を隠した。
やるんだって。帰るんだって。そう思っていたのに……。
なんだか、足から力が抜けていくみたいに急に動けなくなる。
(求められてるって、そう思ってたのは私だけだった……?)
侍女はリアンがいる。護衛にもなるお目付け役だってセドリックさんがいる。
じゃあ私は、夢を見ていただけだった……?
「マルティオさんも羨ましいほど好調ね。このまま勢いにのってしまえそうだわ」
「ははっ。ありがとうございます。ロザロス夫人。夫人もうちに投資してみない? 相応にお返しはするよ?」
「まあ。それはとても魅力あるお話ですけれど、最後尾を精一杯ついていくのがやっとになりそうだわ」
「うちは等しく皆さまと協力するのがモットーだから大丈夫だよお」
交わされる言葉もどこか遠くから聞こえるみたい。
胸が痛くて。苦しくて。ドレスのスカートを握るしかない。
「こんなもんだよ。大事にしてるふりして内心じゃ商会との繋がりができてホクホクでしかねえさ」
唇を噛む。
奥様はそんな人じゃない。そう思ってる。信じてる。――でも今、自分で自分が信じられなくて、辛い。
「最近では帝国との商売にも乗り出しているのでしょう? このままなら王都一の商会もそう遠くないかしら」
「うまくいけば嬉しいなあ。夫人が協力してくれるならファルダ国との商売も手を出せそうかな。あっちのほうは難しくてうちも困ってるんだ」
「ふふっ。辺境領が前線ですものね。正確な読みと流れを見定める目、商人に必須のそれをマルティオさんは天賦の才としてお持ちなのね。先代とあなたでこれほど商会を大きくされたんだもの」
「嬉しいお言葉ありがとうございます」
奥様とマルティオの会話は微笑みが交わされる穏やかなもの。けれどそれも父が「マルティオ殿」と声をかけて止まった。
「そろそろ、皆さまへの挨拶に」
「ああ、そうだね。戻ろうか。それじゃあロザロス夫人、カフカント夫人、またね」
「ええ。また」
「ええ。――ああ、そうだわ。アステナ」
「!」
奥様が思い出したかのように私を呼ぶ。それを受けてはっとして目を向けると、その金色の瞳が月明りの下でいつものように輝いて、私を見つめている。
警戒する父や兄を見て奥様は小さく笑う。けれどそれになにを言うこともなく、私を見て口角を上げた。
「わたしの教えを無駄にすることなく頑張りなさい。それから、あなたは獣人の特性をよく知っているのだから、香りには気をつけてね。今後はこういう場で会うことが増えるでしょうし」
「香水、強かったでしょうか?」
「今は少し」
そう言いながらも奥様は扇を軽く揺らす。まるでにおいを追い払うように。
にこりとした微笑みが向けられる。それ以上言葉を出せなくて、私たち一家はマルティオとともにバルコニーを後にした。
会場の喧騒の中へ戻る。こっそり後ろを見れば奥様はカフカント夫人となにか話をしているようで、まだなにかを払うように扇を動かしていた。
その動きを見て、ふと重なった。
『うーん。香りがきつい。鼻が曲がる』
『もっと少量がいいですかね?』
(たしか……リアンと一緒に香水の加減を探っていたときの……)
奥様にとっては強い刺激に、においを払うように手を振っていた。
『あなたは獣人の特性をよく知っているのだから、香りには気をつけてね』
さっきの言葉を思い出す。
「香り……」
「? なんか言ったか?」
「……」
頭の中に小さな引っ掛かりを覚えた気がした。




