1,叶わなかった夢
ブンッブンッと風を切る音が鳴っている。周りにほかの音はなく、それだけが耳にはっきりと届く。
視線はまっすぐ、背筋を伸ばす。手に持つ木剣をしっかり握って、一直線に振り下ろす。その小さな手がきゅっと強く握る木剣は父が作ってくれたものだ。
目の前で、小さな少年が素振りをしている。
真剣な目で。ひたすらに。
そんな姿を少し離れた場所から女性が見つめている。少しだけ苦しそうに揺れる瞳で。
その傍には数人の侍女がいて、彼女たちも同じように少年を見つめている。その目は女性とは違って優しい色を宿している。
風を切る音が聞こえている。
ずっと、耳に届いている。
やがて、少年の視線が動いて、音が消えた。
「ちちうえ!」
木剣を手に持ったまま少年が駆けだす。その先にいるのは、二名の部下をつれた一人の男性。
鍛えた体。優しく和らぐ表情。迷いなく片膝をついて、少年を待つ。
「おかえりなさいませ、ちちうえ」
「ただいま」
目の前に立つ少年に男性は優しく告げる。そして少年が手に持つ木剣を見て、少年の頭に手を置いた。
「鍛錬か。よし! 私が相手をしよう」
「ほんとうですか! やった!」
嬉しそうに笑う少年は喜び跳ねる。そんな様子を見て男性は笑みを深めた。それを見た男性の部下たちも、女性も、侍女たちも、微笑まし気に微笑む。
「ぼくっ、ちちうえみたいにつよくなります! つよくなって、それで、ちちうえと――……」
――その先に何が紡がれるのか、俺は知っている。
その言葉は耳に届くことはなく、目の前の光景が真っ暗に変わった。
微笑ましい一家の光景は消えさり、俺の前に立つ、男が一人。
――その表情は、見えなかった。
ふっと意識が浮上した。覚醒しきらない頭で視界に映るものを見つめる。
目の前にあるのは天蓋。それが俺のベッドのものであり、ここが自室であると思い至って、深く息を吐いた。
(久しぶりに見た……)
手の甲で目を覆う。もう一度深く息を吐いた。
最近はあまり見ることがなかった。彼女に頭痛を寄越されそれに意識が向いていたからだろうか。
それとも……母上へ手紙をしたためたからだろうか。
辺境での戦で何か影響はなかったか、何か不便や不自由はないか、元気にされているか、そしてなにより――俺に、守護獣がいたこと。
伝えないわけにはいかなかった。母は俺を産んでからずっと、俺に守護獣がいないということで自責の念を抱いていたと知っているから。
そんな必要はない。いてもいなくても気にしない。ただ母上が穏やかに健やかに過ごせることが大事だ。
そう、想っていることをぶつけるように、まとまりのない言葉で手紙にした。
言葉遣いもなにもない、話題転換も激しい、そんな送るに相応しくないような手紙になったと自分でも思う。それでも、伝えたかったことは全部書くことができたはずだ。
カフカント家とのことがあって少々書き上げるのに時間はかかったが、それでも先日なんとか書き上げて送った。
(あれで、よかったんだろうか……)
今でも少し考えてしまう。やはりセバスに見てもらうべきだった。……断られるだろう気がするが。
息を吐いて、横を向く。そこに丸まって寝ている俺の守護獣がいた。
すやすやと寝息をたてて体が上下している。白い体は白いシーツに溶け込んでしまいそうだ。
(そういえば、陛下の守護獣も白い犬――……いや、あれは犬ではないな。獅子……のようなもの?)
……なんといえばいいのか分からない。それを言うなら俺の守護獣もそうなのだが。
俺も陛下も存在しない姿をしている守護獣持ちだ。そんな俺たちの守護獣は白い体をしている。
不思議な共通点だ。姿が他と異なる守護獣にはなにか共通点があったりするのだろうか? ……いや。見て分かるか。それが共通点だな。
眠る守護獣を起こさないようそっと撫でてから、俺はベッドから起き上がった。
♢
カフカント家との一件から日が経った。あれからとくに問題は起こっていない。
社交界ではカフカント侯爵とカフカント夫人との関係に関するいろいろな憶測やら噂が流れているが、それも以前ほど気にはならないものになった。カフカント夫人は度々彼女とお茶をしたり、夜会で楽し気に話していたりする。その縁から、彼女も他派閥との交流や話し相手が増えつつある。
カフカント夫人にとっても現状は喜びあるものなのだろう。彼女と気兼ねなく、笑って、話ができる。社交界では二人の関係も話題になっていた。なにより、夫人の空気が変わった。
カフカント家はこれまでと変わらず、侯爵も政治の場で中立派として意見を述べ、沈黙するべきところはそれを保っている。
変わったことがあるというなら、カフカント夫人の生家クロサブル子爵家が中立派に入ったことだろう。クロサブル子爵自身がカフカント侯爵に頭を下げたらしい。侯爵も二つ返事で受けたそうだ。……これはカフカント夫人と彼女の茶の席での話だ。
当初に比べれば大人しくなった。俺もほっと息が吐ける。
事態が落ち着いて、母に手紙も出し。以前から考えていた彼女の目付け役も決めることができた。
『いらない』
『つける。……俺の意見は尊重してくれるんじゃなかったか?』
『もちろんする。だが、目付けはわたしの目的を阻害する可能性があるじゃないか』
彼女には最後まで不満な顔をされた。が、俺も譲れない。
目付け役には「彼女が危険に走りそうになれば止めろ。多少の実力行使と怪我は大目にみる」と言っている。……それを実践できるかはともかく。
(不満そうではあったが、本当に嫌なら絶対に受け入れないだろうから、多少は受け入れる気があるということだろうか?)
彼女の真意は、俺にはまだよく解らない。
しかし、嫌なら是が非でも拒絶するだろうことは想像に易い。
(まさか、『手段だけは事前相談をしてくれ。それによっては考慮する』と言ったのが影響したか……?)
ああいう手合い、すべてを制限しては爆発する。なのである程度の動きは認めるほうがいい。
そう思って言ったが……間違えた可能性が浮上した。
真剣に悩んでしまう。が、いまさらの撤回は彼女も認めないだろうからどうにもならない。
(今後は気をつけよう)
彼女の目付け役には、公爵家騎士セドリックを任命した。
もとは辺境領の砦に勤めていた騎士であり実力も充分ある。過去帝国との小戦において片腕を失い、騎士団を退団した。その後は転々としていたらしいが、三年前に我が家の門を叩いた。
隻腕であるがその実力は文句ない。彼女も、外出に用心が必要なロイジーの護衛にセドリックをつけるほどだ。
(彼女の目付け役にセドリックをつける以上、今後のロイジーの外出護衛については適任者を選抜しなければいけないな……。もしくは、外出時にはセドリックをつけ、その間の彼女の目付けを別の者に任せるか……)
どちらにせよもう一人の適任者がいる。もしくは、アステナに頑張ってもらうか……。
彼女の突拍子もない要求に名乗り出た人材だ。今後も頑張ってもらいたい。主に彼女を止める方向で。
思わず、ため息が出る。
俺を幸せにする。
彼女がそう言い、そのために行動するとき、言い表せない感情を抱く。
怒りではない。困惑なのか、疲弊なのか、喜びなのか――……俺には、まだ分からない。




