55,夫人の事情
――もう、覚悟した。決意した。
旦那様がくれた一歩を、勇気を、無駄にしたくない。
「確かに私は、イーヴァ伯爵令嬢を取り巻く令嬢の一人でした。シルティ様と交流を持とうとし、イーヴァ伯爵令嬢に見つかり、シルティ様が私を嗤ったという噂となりました」
「嗤われたんでしょう? そこをイーヴァ伯爵令嬢が助けてくれたんじゃない」
「違います!」
リティア様が不快に眉根を寄せる。
いつもならそれを見て心のどこかで怯んでいた。私が、望まれていない者だから。
だけど今は、違う。
「その後、イーヴァ伯爵令嬢は私にこう言いました。――『獣もどきと仲良くしようなんて信じられない。助けてあげたんだから、役に立ちなさい』と。そして我が家に、イーヴァ伯爵推薦でカフカント侯爵様との縁談話が持ってこられたのです。力のない我が家はそれを断ることはできませんでした」
「……それのなにが違うのよ。どうみても玉の輿の――……」
「イーヴァ伯爵令嬢の狙いは、私にカフカント侯爵を……中立派の一角を担うカフカント家を反獣人派に取り込ませること。……でも、そんなこと、私にできるはずがありません。だって……」
意味もなく膝の上で指を絡める。
旦那様もオリヴァン様もとうに分かっていた。多分きっと、縁談話の時点で予想していた。だけど、優しくしてくれた。
カフカント家にいることはひどく落ち着かなくて、苦しかった。……だけど、安らぐ時間だって、ちゃんとあった。
だって――……
『もう、苦しい想いはしなくていい。ここにいれば君は自由だ。好きに過ごしなさい』
「だって――……イーヴァ伯爵令嬢の下で私が嗤われていたことも、戻れば待ち受ける……今以上の悪評も、全部承知の上で、私を助けてくださったんですから。そんな方々を裏切るなんて、私にはできませんっ……!」
私の生家は力のない貧乏な子爵家。イーヴァ伯爵令嬢たちの周りでは弱い存在。
貴族社会で一人で闘えるわけがない私は、誰かについているしかなかった。どっちつかずの我が家の在り方も、イーヴァ伯爵令嬢には役に立つと見られたのかもしれない。……実際、使われているわけだけれど。
「旦那様には……何度も離縁をお願いしました。ですが、その度に首を横に振られました」
「……え」
「当然だ。今君を放り出せば、イーヴァ伯爵令嬢は社交界で君を徹底的に蹴落としにくる。貴族の中には獣人と関わったことがあるだけで嫌悪する者もいないとはいえない。君を守るには、我が家に留め置くのが最善だ」
分かってる。知っている。旦那様はそうやってずっと、私を守ってくださった。
ちらりと隣を見れば、私を見ている目と合って。ほっとして、少しだけ泣きそうになる。
胸が苦しくなっていると、それまで黙っていた公爵様が口を開いた。
「夫人を侯爵に近づけたのは、夫人の父君の上官、第七師団師団長シェルギニツ殿を通じて騎士団内での勢力を強めたい狙いもあったのでしょう」
「でしょうな。ですので、こちらとしてクロサブル家と特別な関係は築いてはいません」
「……なるほど」
旦那様と上官。挟まれればお父様はきっと、すごく困る。
それが分かっているから、旦那様は私との婚姻からもクロサブル家と積極的な関係は築いていない。婚姻前となにも変わらない。
「イーヴァ伯爵令嬢からすれば、自派閥に紛れ込んだ不純物を吐き出したようなもの。中立派を崩す一手とさせたのは伯爵だ」
「承知の上で父上は縁談を呑みました。私も事情を聞き、了承しました」
「そんなこと……どうして私に言ってくれなかったの!? 私だって侯爵家の娘なのに!」
エリーゼ様も承知の上だった。私のせいで社交界ではきっと、当初はいろいろと言われたはず。だけど、それに関してエリーゼ様から怒りを向けられたことはない。
いつも穏やかに。私との複雑な関係も、状況に応じて使い分ける、それができる人だから。
たまらず立ち上がったリティア様をオリヴァン様はため息交じりに見上げた。
「おまえはイーヴァ伯爵令嬢に近づきすぎている」
「っ……!」
リティア様が目を瞠った。
オリヴァン様の言葉は、カフカント侯爵家とイーヴァ伯爵家との関係を表すようで、とても厳しい。
だけど私も、その意味はちゃんと解る。
そして今――すべてを理解した今なら――……。
「加え、おまえは継母上への態度がなっていない。獣人蔑視も反獣人派と変わらない」
「当然でしょう!? どんな事情があってもこの女のせいでおじい様も我が家も嗤われてるんじゃない! それを黙って見ていろと言うの!?」
ぎゅっと握る拳が、痛い。
旦那様は私のために家名を落としたりはしない。それはオリヴァン様も同じ。
私を守り、家名への泥も最小にとどめる。お二人はずっとそうしてきた。だからカフカント侯爵家にこれまでどおり付き従ってくれる家は多い。……全部、私のせいで与えた、とてつもないご迷惑。
「どうせおじい様に取り入ろうって魂胆は持ってたんじゃないの? おじい様だけじゃなくお父様にまで取り入って!」
「リティア」
「おかしいじゃない! おじい様もお父様もこんな女を信じて、なのに私にはなにも言ってくれてない! どうしてよ! 私がっ、侯爵家の私が、こんな貧乏子爵家の娘に劣るっていうの!?」
甲高く響くリティア様の声。シルティ様が片眉を動かして少しだけ耳を伏せた。
オリヴァン様もため息を吐いて、珍しく根気強く話をしようとする。
「そうじゃない。……妙だと思わなかったのか? 父上はともかく、なぜその噂に私まで出てくるのか」
「なにがおかしいの? だって皆言ってるわ。おじい様にはしたない方法で近づいて、今度はお父様にまでそうしてるって」
「皆が言っている、じゃない。それはなんの根拠にも理由にもならない」
周囲の友人たちが口にする言葉を信じているリティア様。
客観的な事実と裏付けされた確証を大事にしているオリヴァン様。
親子でもまったく似ていないお二人が見つめ合う。
「ふふっ。仕事は真面目で厳しいと評判のオリヴァン殿も、娘には一苦労しているとみえる」
強張りのある空気の中、まるでそれを感じていないような笑みの混じった声が聞こえた。
その主、シルティ様は変わらない悠然さで座り、じっとこちらを見ている。それを見てオリヴァン様が僅かに眉を動かした。
「……お見苦しいところを。申し訳ありません」
「いや。――……だが、遠回りは意味がない。言ってしまえばいい」
その金色の目は、オリヴァン様から動く。
強さを感じさせていた目は、今はどこか読めない感情を宿して――リティア様に向いた。
「夫人への悪評。カフカント家への泥。その噂の根源は――おまえだ」




