50,優しい人、怖い人
「ねえ。侍女、外してくれないかしら?」
「……おそれながら」
「アンネ。外して」
「……はい」
頭を下げてアンネが下がると、途端に私の味方はいなくなる。
心細くて。怖い。でも……。膝の上で握った手をきゅっと握りしめる。
目の前にいるイーヴァ伯爵令嬢、令嬢の侍女、そして私だけ。
静かで、だけど居心地は悪い。私にとってはそんな空間。
優雅な所作で紅茶を口にしたイーヴァ伯爵令嬢は、ゆったりとした空気の中でそれらしく、そして、この場の支配権を持って、私を見る。
「――あの獣もどきについて知っていること、全部教えなさい」
「っ……シルティ様は……」
「獣もどき。そうでしょう?」
にこりとした笑みが向けられる。だけど、それを見返すなんてこと、私にはできない。
手が震えないように、ぎゅっと力をこめるだけで精一杯。
「――……っ、私のもとには、なにも……」
「ふうん。ほんっと困ったものだわ。ロザロス公爵もなにも言わないし。まあ、死ぬかもなんて口が裂けても言えないでしょうね。知られれば何を言われるか分かったものじゃないし。――ふふっ。医者は数日で回復すると言ったのでしょう? それがこれだけ長引いてる。随分とよくない出方をしたのね」
内容は一人の命に関することなのに、その口元には笑みが浮かんでいる。とても、愉しそうに。
頭の中に悲しそうな笑みが浮かんで、消える。
(もし……もし、シルティ様にもしものことがあったら……)
胸が、痛い。やっと謝ることができて、それも微笑みで許してくれたのに。
私は結局、まだなにも、できてない。
「あれに何かあれば、カフカント家も相当なお咎めを受けるでしょうね。今の立場で……いられるかしら?」
「っ……」
「何度も言ってるでしょう? 早くしなさい」
毅然とした背中を思い出す。
あれ以降の社交界も「君は出なくていいんだよ?」と毎回私を置いていこうとする優しい人。いつも堂々と、揺るがず、陛下を支える筆頭侯爵家の当主。
(私の、せいで……)
私との婚姻でも、旦那様は相当に骨を折ったはず。なにを言われてもどんな噂を流されても中傷されても、その手腕で侯爵家を守り、変わりない権勢を保っている。
――それがまた、揺らごうとしている。
――それも、今度の相手は、国。
そうなれば確実に旦那様はただでは済まない。
それを、その傷を、浅くするためには――……。
「わ、私には……」
「あなたが動かないと、今の立場でいられなくなる人、いるでしょう?」
掌に血が滲みそうなくらい、痛い。
「わ、私が、できるのは……あくまで、旦那様に、そう……お勧めするだけで――」
「できるでしょう? お得意の色で。子息だって手玉に取っているようだし?」
くすくすと嘲笑の声が複数聞こえる。……顔を、上げられない。
身に覚えのない噂がまた一つ、流れた。
それが耳に入るのは当然、オリヴァン様もエリーゼ様も一緒。オリヴァン様は険しい表情で眉を寄せ、エリーゼ様も物静かな普段の表情に少しの怒りが宿っていた。……私にはそう見えた。
『申し訳ありません。また……私のせいで』
『継母上がお気になさることではありません。……まさかここまでやるとは、呆れたな』
『アリシャ様。どうか頭をお上げになって? 私たちは、あなたがそのような人ではないと、ちゃんと知っておりますから』
私の救いは、婚家の方々に恵まれたこと。
オリヴァン様もエリーゼ様も、あの屋敷で旦那様と同様に私を信じてくださっている。三人がいる。それが私にとってどれほどの救いになっているか。
――そんな人たちを、裏切れない。
「やるの。いいわね?」
「っ……」
「二度、言わせないでくれる?」
「っ……は、い」
声が、かすれる。喉が引きつりそう。
それでも、目の前のこの人に逆らうことは……私にはできない。
「ずっと言ってるのに……。困ったものだわ。ねえ?」
「ええ。お嬢様のせっかくのご厚意。それにいつぞやにはお嬢様にお助けいただいた恩があるというのに……」
「あら。大したことではないのよ。だって当然のことでしょう? 大事な友人を助けるなんて」
優しい言葉。でもその裏に、毒がある。
(事実なんてどうでもいい。ただ、利用できるからそうする。それが……貴族社会)
ただの貧乏子爵家の私とは、考え方が違う。いつも呑まれないようにするのが精一杯だった。
「あれについて何か情報が入ればすぐに教えなさい。いいわね?」
「はい……」
「じゃ、もう帰っていいわよ」
用が終わればいい。
彼女がもう私などいないという風に振舞うから、私はすぐに席を立って礼をし、その場を後にした。
なるべく早く、ガゼボが見える場所から離れて、馬車へ急ぐ。
「奥様!」
馬車の側で待っていたアンネが私を見つけて駆けてくる。それを見てほっとして、急に足の力が抜けた。
「奥様!」
崩れ落ちそうになって、アンネに支えられる。
しがみついていないと倒れそうで。でも、この場から早く離れたくて。アンネの腕を掴む。
「すぐに……馬車を出して」
「少しお休み――」
「お願いっ……」
ぎゅっと手に力が入る。それを感じたアンネが「分かりました」とすぐに切り替えて私を馬車に乗せた。
一秒でも惜しい。そう言わんばかりに、私とアンネを乗せた馬車はイーヴァ伯爵家を後にした。




