40,花の意味と涙の決意
言葉が、震える。
泣いちゃいけないのに、視界が滲んでしまう。
(だめ。だめよ。今泣くなんて許されない)
――私が、許せない。
(シルティ様……。顔色が悪い……。それに、唇も少し色が悪い気がするわ……。熱はない……かな……)
心配になって、不安になって、仕方ない。
だから思わず、控えているメイドの二人に問う。
「熱が出たりはしていない? 痛みとか……気分が悪そうだとか……苦しんでいらしたりしない? なにか食べ物は口にできている? 意識は戻っていないの?」
続けざまに問うてから、はっとした。
リアンは少し驚いたような顔をして、年上のメイドは落ちついた表情で答えてくれる。
「熱はございませんが、時折苦し気なお顔をされておられます。意識はうつつで、粥を少しだけ召し上がられましたが……まだ、胃が受け付けぬようで」
「そう……。なにか……果物を潰してみるのはどうかしら。あ、いえ。毒を出さなくちゃいけないから、薬が先ね。だけど体力が落ちては体も回復できないかもしれないし……」
なにか、なにか、私にできることはないの……?
今の私はなんのお役にも立てない。医師の手配だって侯爵家からであって、私ができることは、あるようでない。……ひどく無力感を覚える。
(私、結局シルティ様に守られてばかり……。ご恩返しがしたいのに、なにも――……)
自分が、あまりにも無力だ。嫌になる。
このまま消えてしまいたい。私はシルティ様にも、旦那様にも、迷惑をかけることしかできていない。
『あんたみたいな女がおじい様に嫁ぐなんて我が家の恥よ! おじい様をたぶらかすなんてはしたない! 汚らわしい!』
耳に蘇る音。
(……解ってます。私だって、そう思います。私は迷惑をかけることしかできない、侯爵家の妻になんて、最初から相応しくない女です)
傾くことができない。真ん中に立っていないといけないのに、私はそこで蹲るだけ。
守られて。なにもできない。
「シルティ様……ごめんなさいっ……。ごめんなさいっ……。私っ、また……守られてっ……なのになにもっ、できないっ……!」
倒れこむように寝台に突っ伏した。本当はこんなことしてはいけないけれど、今は、今だけは――。
もう、涙を抑えることができなかった。
自分が無力で。
シルティ様に押しつけて。
旦那様に守られて。
――今も私は、抗えない檻の中。ただその場所から、見ているだけ。
シルティ様はそこにいさせることで私を守り。旦那様はそこから私を助けてくれた。
――でも、檻はまだ、私についてくる。
「――……リ……さ」
「っ……!」
聞こえた音。とても久方ぶりの、呼び声。
顔を上げたその先に、穏やかで懐かしい、金色の眼差しがあった。
「シルティ……さま……」
「アリシャ様……。どう、されたの……?」
「……! 意識がっ。す、すぐに医師を……!」
突然のことに慌てる。そんな私の側をすぐに侍女が通る。
落ち着いた様に私の心も少し落ち着く。私の側で侍女がシルティ様にそっと問う。
「奥様。ご気分はいかがですか?」
「今はいいわ……。だけど、少し眠たいの……」
「お薬が効いている証拠です。医師はお呼びしましょうか?」
「……いい。来てくれる前に……寝ちゃいそうだわ……」
「承知しました」
冗談のように笑うシルティ様に、侍女も応じるように少しだけ笑みを浮かべる。
そこに確かな信頼が見えた気がした。少しだけ驚いて、心がどこかほっとするのが分かる。
「カフカント夫人。奥様とどうか、心置きなくお話ください」
そう言って、侍女は心得ているように下がる。
シルティ様の目は眠たそうに私を見ている。それを見て、私はもう一度椅子に座った。
「シルティ様……。本当に、大丈夫……?」
「ええ……。アリシャ様は、大丈夫……?」
「私なんて――」
「……でも、体調、悪くない……?」
案じるような声音に胸が詰まった。また、視界が滲む。
最初は抑えられたのに、今はもう、抑えられない。
だから、ただ首を縦に振った。
それを見たシルティ様はほっとしたように息を吐いて、優しく微笑む。
(ああ……。同じだ。あのときと)
――私はまた、この人に背負わせてしまった。
「い、今……旦那様と一緒に、公爵様にお話に来たの。まだ犯人は見つけられていないのだけど、探し出せるように尽くすから」
なんとか震える言葉でそう言うと、シルティ様はゆっくりと頷く。
私を見つめるその眼差しは、あのときとなにも変わらない。
優しくて、穏やかで。荒事を好まない。――だから、ひどく胸が苦しくて、沸き起こる感情がある。
(――見つけたい。犯人を。シルティ様をこんな目に遭わせた、犯人を)
また違う想いが、胸を苦しめる。だけどこれは全く不快じゃない。
「アリシャ様」
「なに?」
呼んでくれる。あのときのように。
「あのね……お渡ししたい物が、あるの…。――リアン。わたしの、刺繍箱を……」
「はい」
シルティ様の指示にすぐにリアンが動く。
チェストの上に置いてある箱。それを手に取って、シルティ様の側へやってくる。
リアンが手に取っているのはとてもシンプルな箱。刺繍箱と言っていただけあって、蓋を開ければ刺繍道具が入っているのが見て取れた。
その中にある、一枚の手巾。
シルティ様はそれを手に取ると、私に差し出す。
「これをね……。お渡ししたかったの……」
「私に……?」
おずおずと受け取る。
生地は淡い桃色。それを見て思わず頬が緩んだ。
(私が、好きな色)
濃すぎない、白に薄く映えるようなそんな色。そんな手巾をそっと開くと、刺繍がされてあった。
――ただ一輪の、小さな黄色の花。
それを見て、息を呑んだ。
思わずシルティ様を見れば、ただ、微笑んでいる。
だから、今度こそなにも、言えなくなった。
手巾を大切に胸に。流れる涙をそのままに。
シルティ様は、なにも言わなかった。
ただ、私が落ち着くのを待つように時間をくれる。室内に私の嗚咽だけがむなしく響いて、だけれど、抑えられない。
長いように感じた時間をそうしていた。なんとか顔を上げると、シルティ様は変わらず私を優しく見つめている。
「シルティ様。……ごめんなさい。私……本当はもっと早く謝らなければいけなかったのに……。守られて、あなたに背負わせて……。なにも、しなかった」
「……」
「罰が当たったと、そう思ったわ。毒が……私のカップに入っていたと知って。それを……あなたが飲んでしまって。どうしても私は――……許されない」
「そんなこと……」
「だから――」
犯した罪は、消えない。
あのときからずっと胸の内にある後ろ暗さ。罪悪感。消えない重み。
(もう、逃げない)
貰った手巾を手に、決意する。
本当は怖くて、緊張して。まだ怯えが心に住み着いているけれど。それでも――。
「私、絶対に犯人を見つけるわ。――もう、口を閉ざさない」
あなたに誓う。あなたに聞いてほしい。
私が決して逃げ出さないための、はじめの一歩を。
まっすぐ見つめて言うと、シルティ様は口角を上げて微笑んだ。どこか、私が知るものとは違う印象を抱かせる微笑み。
「なら、わたしも協力します」
「シルティ様は無理をなさらないで。私……まだまだ無力だけれど、やれること、やりきるから」
「――では、アリシャ様」
「なに?」
シルティ様の目が私を見つめる。
まっすぐで、私が知らない強さを宿す瞳。逸らせなくて、見つめてしまう。
射抜かれるような心地で見つめていると、どこか不敵な笑みを浮かべてシルティ様は教えてくれた。
「王都民は、獣人嫌いです。それは――かつてこの公爵邸すら蝕みました」
「!」
「どうか、それをお心に留めておいてください」
王都民の獣人嫌い。それは私も感じているし、知っている。
シルティ様はそれをわざわざ口にした。――その上、明かされた内容に私は驚く。
驚きからもう少し話を聞きたく思う。だけど、シルティ様が辛そうに、眠そうに、息を吐いたのを見てはっとする。
「シルティ様。無理をさせてしまいました。もう、ゆっくり休んでください」
「ありがとう……。リアン。夫人をお送りして」
「かしこまりました」
丁寧に頭を下げたリアンを見てから、私はもう一度だけシルティ様を見る。
「どうかゆっくり養生してください。そしたらまた……また、一緒にお茶をしましょう?」
「ええ。ぜひ」
席を立って、部屋を後にする。
リアンの後を歩きながら、私はシルティ様の言葉と侯爵邸での一連の流れを思い返した。




