39,噂には元がある
夫人は俯き、なにも言わない。
それを見ていると少し良心が痛む。しかし、ここで引き下がることはできない。
『彼女が狙われたからだ。――たとえ、君が考える可能性の一つである、カフカント家の策略だとしても。わたしは、ここで止まるわけにはいかないんだ』
(彼女は、夫人のために動こうとしている)
狙われたと思われるのはカフカント夫人。そしてそのとばっちりを受けた彼女は、自作自演ではないと考えている。
何があろうとも突き進むと、その目は俺に語っていた。
「――……その…」
微かに聞こえた声。それが思考を止め、俺は視線を前に向ける。
目の前に、俺の予想とは違う光景があった。
俯いていた夫人は俺を見つめている。膝の上で握った拳は震え、肩にも力が入っているのが分かる。それでも、恐れを宿していても、夫人は意を決したように俺をまっすぐ見つめていた。
「その……噂は、私も存じています。ですが私は、それでロザロス夫人を快く思えないなど、そのようなことはありません」
「……」
「あのとき、私の目には涙が浮かんでいたでしょう。ロザロス夫人は微笑んでいました。だから……イーヴァ伯爵令嬢やその周りの方々が、泣いている私を見て夫人が嗤っていると、そう思っても仕方がありません」
「……理由があるなら、それを説明なさればよかったのでは?」
「イーヴァ伯爵令嬢は獣人嫌いですから」
なにを言っても無駄だというわけか……。
イーヴァ伯爵は俺のことを嫌っている。それは感じているし、辺境領から戻ってすぐの陛下への謁見でも、俺の守護獣は守護獣ではないと言った一人が彼だった。
そういう相手はなにも彼だけではないし、他にも山ほどいるのでいちいち気にしていない。
(噂の発信源は分かった。――なるほど。反獣人派となると、どう説明しても悪評にしかならない。彼女に関する悪評……反獣人派が元である可能性が高いな)
俺に話してくれた夫人の隣で、侯爵が僅かに首を傾げた。
「閣下は、その噂について夫人から聞いていないのですかな?」
「……」
今度は俺が黙る番になった。それを見て察したのだろう、侯爵は肩を竦め、夫人は納得したように微笑む。
「夫人にお聞きすれば、噂についてなにが事実であるか分かります。どうか、夫人にお聞きください」
「……そうします」
今はまだ教えてくれないだろうな……。
少しだけ肩から力を抜く。それを察したのか、俺の守護獣が膝の上に座りながら俺の手を掴もうとする。……まだ我慢してくれ。
「お互い、噂には困る身ですな」
「……そうですね。噂というのは尾ひれがついていてあてにならない。それは理解しているつもりでしたが、骨すらありません」
「ははっ」
結局はだれかの作り話。それに翻弄される、翻弄させる。
全くもって困ったものだ。
(噂……。彼女にまつわるものはそればかりだな)
これまで聞いた彼女に関する数々の悪評。おそらく、そのどれもがだれかの作り話という名の、噂。
そしてカフカント侯爵もまた、若い妻を娶った故に噂がひとり歩きしている。
困って息を吐きつつ、俺は改めて告げる。
「此度の件、おそらく他の参加者から話は出回るでしょう。私も詳細は知りたい。……それに、妻は……意識が朦朧としていても、あなたやカフカント家を疑うような言葉をひとつも口にしない。私に……協力できることはしてほしいと、そう言う」
「っ……!」
夫人が目を瞠った。肩が震え、俯く。
俺の守護獣がそんな様子を見て「うきゅ?」と首を傾げている。
今にも泣きそうな妻に寄り添う侯爵は、細い肩に手を回す。
「アリシャ。大丈夫だ。ロザロス夫人もきっと君と同じだ」
「っ、はい……はいっ……!」
とうとう涙がこぼれてしまった夫人に寄り添いながら、侯爵はその目を俺に向ける。
「こちらとしても、このままにするつもりはありません。――腹立たしい上に小賢しい。しかし乗ってやるつもりも、ありません」
どこか怒りを混ぜた声音がそうこぼす。
少しだけ俺の体にも力が入る。しかし侯爵はそれ以上を言わず、ただ妻に寄り添い、宥めている。
祖父と孫ほどに年の離れた夫婦だが、今、目の前にある光景は互いを思いやる夫婦のものにしか見えない。
(本当に、噂とはあてにならないものだ)
そんな時間がどれほど経ったか、扉がノックされてリアンが戻ってきた。
「どうだ?」
「はい。現在、奥様の状態は安定しております。眠っておられますが、それでもよろしければ可能とのことです」
「夫人。いかがしますか?」
リアンの入室で涙を拭いた夫人は、もう、泣いていなかった。
少し目に赤みを残しつつも、まるでなにか吹っ切れたような、覚悟をもったような、そんな様で背筋を伸ばす。
「はい。私も、私の言葉を、お伝えしたいのです」
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足が、少しだけ重い。
すれ違う使用人たちから、一瞬だけ鋭い視線を感じる気がする。
……もしこれが、気のせいでないとしても、仕方ない。
(皆さんが、シルティ様を案じている証拠。それなら、いい)
私がなにを言われても、仕方ない。だって夫人が倒れたのは私のカップに口をつけたから。それを私が止められなかったから。
私が、茶会にお誘いしたから。
『ねえ。今度の茶会にあの獣も招待してちょうだい。できるでしょう?』
少しだけ拳に力が入る。
本当は、夫人に会うのも怖い。緊張する。
だけど、会わなくちゃ。ひどい目に遭わせてごめんなさいって、ちゃんと謝らなくちゃ。
(いいえ。……本当は、もっとちゃんと、たくさんのことを謝らないと)
謝れていないことが、たくさんある。
それも全部、ちゃんと――……。
「こちらです」
私を案内してくれた、まだ子どもといえる年頃のメイド。公爵様に「リアン」と呼ばれていたのを憶えてる。
その子が上階にある部屋の扉を開ける。私も後に続いた。
室内は、とてもシンプルだった。クリーム色の壁紙と、テーブルやソファ、書棚やチェストという必要なものだけが置かれた室内。物はどれも上級品だけれど、これなら、私の私室よりも質素に見えてしまうかもしれない。
公爵夫人らしくない。だけど、控えめで穏やかなシルティ様が好みそうな雰囲気。
その居室と扉で隔てられている方へリアンが歩く。その扉をノックすれば、別のメイドが姿を見せた。
そのメイドは見覚えがある。茶会のときに夫人の側にいた侍女。
その侍女は私を見て、一礼をする。
「カフカント夫人ですね。話は聞いています。どうぞ、こちらへ」
恭しく手を室内へ向ける。
それを受けて、少しだけ逸る心臓の音を聞きながら、震えそうになる足を叱咤して、寝室に入った。
居室同様にシンプルな寝室。その中にある深紅の垂れ布に守られた寝台。開かれた垂れ布の先に、眠る人。
「……」
ゆらりと、足が動く。
導かれるように、引かれるように、寝台の側へ。置かれている椅子に崩れ落ちるように腰を下ろした。
「――……シルティ…さま……」




