34,二度目は怒るぞ
~*~*~*~*~*~
視界も、音も、思考も。――すべてが消えた。
まるで時間がゆっくりと流れているような、思考だけはクリアだが呑気な回転をするような。奇妙な感覚がある。
耳の近くで「うきゅうきゅ!」となにかを訴えてくる音が聞こえる。だがそれも、今はどこか遠くからのような、そんな気もする。
「――ギルベール様?」
俺の意識を引き戻すような、どこか気遣わしげな声。
ゆっくりと視線を動かせば、目の前にハインがいた。その表情はどこか沈痛な面持ちで、眉間に眉根が寄っている。
「――……すまない。えっと……なんの話だった?」
「……奥様が、カフカント侯爵邸における茶会で、毒を盛られました。今はお部屋にて休息を」
(ああ、そうだ。帰宅して、ハインからその話を聞いて――……)
それで急に、周りがゆっくりになったのだ。
まるで俺だけを置いていくように、取り残していくように、時間が勝手に進んでいく。
再び、肩から「うきゅうきゅ」と焦っているような声が聞こえる。ぺたぺたと頬に触れる感触は、やっと慣れてきた守護獣のものだと遅れて頭が理解する。
「部屋……部屋だな……?」
「はい」
足が、重い。鉛でもついているようだ。
それでもなんとか引きずって、歩きだす。後ろからハインがついてくる気配がした。
(そうだった。たしか今日は、カフカント侯爵邸に行くと……反獣人派ばかりで、何か問題でもあれば彼女がどう動くかと、そう思って……。同行したのは……ハインと、アステナで……)
重たい足は、一度動きだせば流れるように動く。それでもやはり、まだ重い。
(何事もなければと、そう思って……。だが……どく、毒……。――彼女が?)
取り残されたような思考が、急速に現実に引き戻される。
毒を飲んだ。誰が――彼女が。
どこで盛られた。茶会があったカフカント侯爵邸。
――誰が、やった。
(カフカント侯爵は中立派だ。それが……それが、反獣人派を集めて彼女を弑そうとした)
ならばあの奇妙な招待客ばかりの茶会の理由も解る。
カフカント侯爵令嬢は祖父と父が中立派とはいえ、夜会ではよく反獣人派の令嬢と一緒にいる。
(中立と見せて結局はそちらか!)
ならば、彼女に盛られた毒というのも強力なものである可能性が高い。
そこに思考が至り、やっと、思考が現実に追いつく。
瞬間、俺は走りだした。
普段ならば非常時でもない限り走るなどそうない屋敷の廊下。どこか落ち着きのない、不安げな顔をした使用人たちの前を通り過ぎ、一目散にその部屋へ急ぐ。
(また……。またっ、こんなことに……!)
獣人であるというだけで。それとも戦で俺が目立ってしまったせいか? 俺が、彼女を危険に晒したのか?
辺境からの帰りでもそうだった。結局は、俺をよく思わない者が、彼女を標的にする。――俺のせいで。俺の妻であり、傍にいるというだけで。
怒りが湧く。同時に、ひどく苦しくなる。
なぜこんなにも苦しいのか、なにがこうもそう感じさせるのか、混ざり合った内心は俺にも解らない。
(いつも、何事でも、そうだ。俺は彼女を巻き込む)
走ってたどり着いた上階。早く早くと急いでいたせいか遠くに感じていた扉を、俺は勢いよく開けた。
「シルティ!」
ノックも忘れて扉を開け、そのまま居室を抜けて寝室へ駆け込む。
「シルティ! 無事か!?」
「ああ。おかえり、ギルベール」
居室同様のクリーム色の壁紙。ローテーブルやソファ、書き物用の机など必要な物のみという室内。
その中にある、深紅の垂れ布と金色の房飾りがついた数人は横になれるだろう天蓋付きのベッド。その上で半身を起こして平然と俺を出迎えた、彼女。
平然とした様に、再び思考が飛んで、音が消えた。
(……。……顔色は、悪くない。意識もはっきりしている。……どういうことだ?)
ハインに説明を求めようとして、置いてきてしまったことに振り返って気づいた。
ならばと思って、控えるメイド――リアンとアステナを見るが、非常に気まずそうな顔をして視線を逸らす。……これは、代わりに答えることを拒みたいのだろう。仕方ない。
……大丈夫。思考はかなり落ち着いている。今の俺は冷静だ。
「……毒を、盛られたと……聞いたんだが?」
「うん。盛られた」
「そう――……盛られたのは間違いないんだな!? なぜそう平然としている! すぐ横になって薬を――医者は!?」
「落ち着きなさい」
……俺がおかしいのか? そんなことはないはずだ。あまりに彼女がけろりとしているから俺はハインに騙されたのではないかとすら思ってしまったが、そうではないようだ。
だとして――なぜそういつもどおりなんだ!?
混乱が混乱を呼ぶ俺に、彼女は一応は横になっていたらしい寝衣姿に薄い上着を羽織り、なんの障りもなくベッドから降りた。
「あまり無理はっ――……」
「問題ない。――さて。少し話そう」
そう言いながら彼女がソファに座りなおす。手招かれ、少々迷いつつも俺は彼女の斜め前に腰を下ろす。
と、俺の守護獣が肩から降り、ローテーブルの上を飛んで彼女の側へ行く。彼女を見つめて「うきゅうきゅ」とどこか心配そうに鳴くと、彼女はそれを聞いて微笑み、優しく守護獣を撫でた。「大丈夫」という安心させるような声音は守護獣に向けられているものなのに、俺にも響くようで少しずつ頭が冷えてくる。
俺の混乱を落ち着かせようとしているのか、彼女は少しの間なにも言わない。その間にハインが追いつき、彼女はハイン、そして共に来たセバスも部屋に入れた。
室内に僅かな緊張と居心地の悪さが生じる。座るのは俺と彼女だけで、後の面々は壁際に控えて話を聞く態勢をとる。
それを横目に、俺は一度大きく息を吐いた。
「――……事の経緯を教えてくれ」
「カフカント侯爵邸に招かれ、皆で持ち寄った茶葉を楽しんでいた。わたしも持参したものを振舞ったが、あまり好評ではなくてね。カフカント夫人と二人で楽しもうかとテーブルを片しているとき、誤ってわたしはカフカント夫人のカップに口をつけてしまった。で、ちょっとくらっと」
「……」
……最後の一言、言いたいことがいろいろあるぞ。
しかしそれは飲み込み、彼女をじろりと見遣ってから、俺は控えるハインとアステナを見る。
「……そうなのか?」
「はい」
「私たちがついていながら奥様を危険に晒し、申し訳ございません。如何様な罰も甘んじてお受けいたします」
「……それを決めるために聞きたいことがあるんだが、いいか?」
ハインとアステナが深々と頭を下げる。
同行していた二人にすべてを防げとは言えない。彼女の動きは俺にも読めないし、容易に止められる人ではないということも知っている。
再び視線を彼女に戻せば、斜め前の彼女は大きくぴんと立つ耳を傾けた。
……なんとなく。ただ、なんとなく。
「……毒、分かっていたのではないだろうな?」
「よく分かったな」
「やはりそうか! なぜ二度も同じことをする!?」
思わず、怒鳴るような声が出た。
それに驚いたように守護獣が彼女の側でびくりと体を跳ねさせる。俺を見て、驚いたのかその目にうるうると揺れが生じる。彼女の手がそれを宥めるように頭を撫でる。
「びっくりするじゃないか。ほら。泣いちゃうぞ」
「うきゅぅぅ……」
「っ……すまない……。だが!」
俺の怒鳴り声を気にした様子もなく、彼女は視線を控えるアステナへ向けた。
「アステナ。説明を」
「はい。……招待客が反獣人派であることから、奥様へなにかしらの行動を向けてくるのではないかと思い、警戒しておりました。私が紅茶を準備し、それを運ぶ際、一人のメイドが僅かに足取りを乱し腕が動いたのを後方から確認。その人物がカフカント夫人の前へカップを置いたので、それを奥様にお教えしました」
「……つまり、あなたはそれを知り、代わりに飲んだと?」
「夫人も少し飲んでいるが、少量ならばそれほど症状は出ないだろう」
「……あなたは、本当に大丈夫なのか?」
元気である、というのは見てわかる。しかし、それでも、体のどこかになにかの不調がある可能性は十分にある。
辺境領でも、彼女は数日体調不良だったのだ。
思い出して、彼女を見つめた。そんな俺を見つめ返して彼女はうすらと口端を上げる。
「大丈夫だ。一切不調はない」
「……なら、いいんだが」




